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【徹底トークイベント】「コロナとオリンピック:「国難」に背を向け、「共感」に抗う」(6月13日)

ポスト研究会第5弾は、「コロナとオリンピック」をテーマに、『ブラック・ボランティア』の著者である本間龍さん、『反東京オリンピック宣言』『やっぱりいらない東京オリンピック』でオリンピックを徹底的に批判してきた小笠原博毅さん・山本敦久さん、そして原発事故以降、政府とメディアがコントロールする情動権力を鋭く論じてきた伊藤守さんをお招きしてコロナ禍のオリンピック、ポストコロナ時代のオリンピックをめぐってトークを行いました。

【イベント概要】
徹底トークイベント
「コロナとオリンピック:「国難」に背を向け、「共感」に抗う」
出演者:本間龍 × 伊藤守 × 小笠原博毅 × 山本敦久(MC)
日時:2020年6月13日(土) 18:00〜20:00
参加方法:zoom(料金:500円/peatixより予約チケット販売)

【トークテーマ】
コロナ禍のこの数か月の間に巻き起こった延期論、囁かれはじめた中止論を検証しながら、ポストコロナ時代のオリンピックを批判していくための新たな視座と論点を提起する。

とはいえ、このトークイベントの出演者たちは「コロナ以前」から東京オリンピック/パラリンピックへの批判的なスタンスを貫いてきたきわめて稀有な論者たち。誰もがオリンピック開催に浮かれていた数か月前には到底考えられなかった「批判しても大丈夫」という世相のなかで、これまでずっとオリンピックを批判してきた出演者たちはいま何を考えるのか。

【トークのポイント
・電通を介したオリンピックマネーの不可解な流れ
・「ブラック・ボランティア」という搾取構造と利権
・コロナ転向派とは誰か?
・原発ムラならぬ、「五輪ムラ」とは何か?
・人びとの情動を動員/制御しながら、「共感」を作り出すメディアの仕組みとは?
・原発報道とコロナ報道に共通するオリンピックの情動政治とは?
・コロナと国難から生み出されるポスト真実のオリンピックとは?
・ポストコロナ時代のアスリートの政治

「コロナだから」オリンピックを批判してもいいんだ、という風潮自体が問題含みであることを再確認し、「なんとなく中止」という空気感が醸成されつつある先にあるものを掴みだす。「なんとなく中止」という空気が漂いはするが、事態は確実に動いている。JOCという空っぽにされたただの箱を通り越して、IOCと安倍政権、そしてオリンピックの資本主義は、ポストコロナの新たなオリンピックを構想している。「コロナ」をひとつの条件や方法とした新たな政治運営と経済機構が動き始めていることに対して、新たな批判のはじまりを予告するのがこのトークイベントの狙いとなるだろう。

東京五輪批判の決定版!
延期、中止、そしてオリンピックの廃絶までを徹底討論。

【出演者プロフィール】

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本間龍(ほんま・りゅう)
1962年生。博報堂で18年間、営業職勤務。退職後の2006年、業務中の損金処理にまつわる詐欺容疑で逮捕・有罪となり、栃木県の黒羽刑務所に約1年間服役。出所後その体験をまとめた「懲役を知っていますか」(09年)で作家デビュー。 刑務所や司法行政を研究しつつ、311以後は原発ムラと 広告業界、そしてマスメディアの癒着を追及する「原発広告」「原発プロパガンダ」「電通巨大利権」などを上梓、巨額の広告費がメディアに及ぼす影響と、メディアコントロールの危険性に関する発言を続けている。最新作は「ブラックボランティア」(カドカワ)「東京五輪 ボランティア問題アーカイブ1~6」。

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伊藤守(いとう・まもる)
早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は、社会学、メディア・スタディーズ。著書に、『情動の権力―メディアと共振する身体』(せりか書房、2013)、『情動の社会学――ポストメディア時代における”ミクロ知覚”の探求』(青土社、2017)、『テレビは原発事故をどう伝えたのか』 (平凡社新書、2012)、『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求: ポスト・ヒューマン時代のメディア論』(編著、東京大学出版会、2019)他多数。

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小笠原博毅(おがさわら・ひろき)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。専門は、カルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』(新泉社、2019年)、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』(せりか書房、2017年)、『反東京オリンピック宣言』(共編、航思社、2016年)、『やっぱりいらない東京オリンピック』(岩波ブックレット、2019年)他多数。

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山本敦久(やまもと・あつひさ)
成城大学社会イノベーション学部教員。専門は、スポーツ社会学、カルチュラル・スタディーズ、身体文化論。著書に、『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店、2020)、『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅との共編、航思社、2016年)、『やっぱりいらない東京オリンピック』(小笠原博毅との共著、岩波ブックレット、2019年)、『出来事から学ぶカルチュラル・スタディーズ』(田中東子、安藤丈将との共編、2017年、ナカニシヤ出版)など。

以下、トークイベントの記録

【今日のトークイベントの狙い】
山本:本日は、梅雨空のなか、またお足元の悪い中お集まりいただいてありがとうございます(笑)。こういう枕も今後のzoom会議世代には必要なくなるのでしょうか。さて、ポス研企画第5弾です。先週開催された第4弾「オンライン・フェミニズムの限界と可能性」ではたいへん多くの反響をいただきました。それに続く第5弾ということで私たちも緊張しているところです。

 ここ数日、オリンピックの話題がまたニュースに取り上げられています。オリンピックが延期なのか、中止なのか、やるにしてもどういう形でやるのかということが日々語られています。そうした状況を含んで、今日は「コロナとオリンピック」というテーマでやっていきたいと思います。

 今日は私がボランチのポジションで、MCとしてボール回しをしていきます。成城大学で教員をしています、山本敦久です。よろしくお願いします。続いて、今日の出演者を紹介します。今日、この企画に来てくださっている鵜飼哲さん、塚原東吾さんにも書いていただいている、いまや伝説の本になっている『反東京オリンピック宣言』(航思社、2006年)ですが、こういう本を私たちがかつて出版し、反オリンピックの言論を展開してきた一方で、今日のゲストのおひとりである本間龍さんですが、本間さんは私たちとはまた別の回路やネット空間でオリンピック批判をずっと発信してこられました。いつかご一緒できる機会があればいいなと思っていたのですが、今日ようやく実現しました。

 あらためて、今日の出演者をおひとりずつ紹介させてください。まず本間龍さんです。

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 『ブラック・ボランティア』というたいへん売れた本を書かれています。私も授業で使わせてもらいました。搾取労働をオリンピックは内包しながら動いてきていることを痛烈に批判した書籍です。それから本間さんは、メディアや学者たちの多くがなかなか口にできないブラックボックスになっていて批判しにくい領域に棲息するエージェント、つまり電通がオリンピックと深く関わってきていることを明らかにしながら、電通にメスをいれています。こういういくつかの刺激的な仕事によって私たちも勇気づけられたところがあります。これまでオリンピック批判してきたけど、双方それぞれの回路で仕事していてなかなか出会えなかったわけですが、ここで今日ここでついに出会うとことができました。そのような意味で、このポス研第5弾はとても貴重な場になると思います。

 続いての出演者は、伊藤守さんです。『情動の社会学ーーポストメディア時代における“ミクロ知覚”の探求』(青土社、2017年)という名著を書かれています。「情動」というキーワードで、原発事故以降の報道であるとやフクシマの復興言説と結びついたオリンピックを論じています。いわゆる「復興五輪」をめぐってどのように人々の情動が制御されコントロールされているのか。そこに主要メディアがどう関わっていくのかっていうことを詳しく研究されています。

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伊藤:よろしくお願いします。

山本:それからもうおひとかたは神戸大学の小笠原博毅さんです。ご存知、『反東京オリンピック宣言』と『やっぱりいらない東京オリンピック』(岩波ブックレット、2019年)を私と一緒に出版しています。東京オリンピックの延期をめぐる議論が巻き起こったここ数ヶ月、日本の論者のなかでオリンピックに対して批判的な言説を国内のみならず海外のメディアに向けても、もっとも多く発信してきた研究者です。WEB論座や『週刊金曜日』『人民新聞』といった媒体を通じて言葉を発してこられました。

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 このメンバーで今日は「コロナとオリンピック」ということで企画を進めていきます。サブタイトルには、「国難に背を向け、共感に抗う」という言葉が付けられています。これは、今日の議論の最後になぜこのタイトルで僕らが集まったのかということを述べる予定です。まずは、ここを終着点にして進んでいきたいと思っています。

【今日のトーク展開と戦略】
山本:この間の延期論それから中止論含め、いろいろな問題が起きています。#BLACKLIVESMATTERと結びついて、世界のアスリートたちの発言や身ぶりも大きく注目されていますが、そうした身体の政治表現すら飲み込もう、取り込もうとするIOCの新しい姿勢も見えてきている。だって、オリンピックはアスリートの政治を禁じてきたのに、認めるという意見も出てきているわけですから。

 それから、「復興五輪」などという言葉はどこかに飛んで行ってしまい、忘却され、今度はコロナ状況によって作られた社会的危機を1つの手段としてオリンピックが動き始めている。他方で「もう中止だ」という雰囲気や社会の空気も漂っていて、IOCや安倍政権、オリンピック信者たちは静かに潜伏して、開催への不満や不安をやり過ごそうとじっとしている。でも諦めているわけではない。そういう勢力が必ず挽回を狙っている。そこで囁かれはじめたのが「共感」という言葉です。小池都知事が最近使い始めています。これからどういう形でオリンピックを盛り上げるのかといった、情動の喚起とその政治運営を含め、今後のオリンピック開催の機運に向けた展開を批判的に見ていきたいということが今日のターゲットになるでしょう。

 まず最初に小笠原さんに、今日の試合展開や戦略を打ち出していただこうと思います。この間、オリンピックをめぐってどういう議論が起きてきたのかということを簡単にまとめていただきながら、本間さんと伊藤さんに強烈なパスを出して頂くというかたちでキックオフしたいと考えています。終了時間は20:00を予定しています。

 コメント機能というのがzoomにはついています。質問や意見などありましたら、遠慮なくコメント機能で書いていただければ、そういうものを取り上げつつ進めていきます。それから日本のメディアの方もたくさん来られているようですが、ドイツのメディアの方も来ています。各種国内外のメディアの方もいらしているそうなので面白いイベントになればいいなと思います。

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小笠原:よろしくお願いします。小笠原です。全体の尺が決まっていて、いつものペースで話すと長くなってしまうので、できるだけ簡素に行きます。最近のオリンピックをめぐるあれこれについては、2つちょっと頭にきてることがあるんですね。
 1つはオリンピックが延期おそらく中止になるだろうということ受けてです。森喜朗組織委員会会長の6月10日の会見を見ていると、まるでお通夜のようでした。実はもう裏では中止って決まっているんじゃないかと邪推させるような会見だった。僕が初めてオリンピックはよくないとマス・メディアで発信したのが、2013年6月でした。 招致が決まる前に、毎日新聞紙上で、当時IOCの委員でもあったスキーの猪谷千春さんが「おもてなしでオリンピックやろうぜ」と言っているものと同じ紙面でした。すごいね、身分も格も徳も違う方と同じページに掲載されていたんです。そのときに僕の主張は、「復興五輪」っていう言葉は嘘だよ、ありえないよっていうことだったんです。僕は2020年の会場はイスタンブールになると思っていたし、2004年に『オリンピック・スタディーズ』という共著を出したけれど、オリンピックそのものもそれほど関心があるわけじゃなかった。一視聴者くらいですよ。そんなに歴史も知らないし、「ちょっとこれはどうかな?」くらいに思っていた程度でした。
 あれから7年経つわけですが、この3ヶ月~4ヶ月のあいだにオリンピックに疑問を差し挟んで、延期や中止をしたほうがいいという声がなんとなく多数派になった『反東京オリンピック宣言』を出版した2016年からもう4年経つわけですが、あの本を出すのものすごく大変だったんです。やっと出た、難産でした。出版社の回答とか、執筆依頼を断った人たちの言い訳とか、板挟みになった編集者とか、その時の嫌なことがいろんな経験として蓄積されているわけですけれど、この2ヶ月の間に、ウイルスに、こんなちっこい、目に見えないちっこいやつがちょっと流行っただけで、中止の声が多数派になってしまう。この6~7年やってきたことはなんだったんだっていう、そういう無力感というか、ありますね。もうウイルスには勝てねぇ、自然には勝てねぇ(そもそもパンデミックは自然の問題などではないですけど)というだけの話ではおさまりがつかないような、憤りやいらつきがある。
 もう1つは、こういう事態になってくるとよく、「よかったね」って言われれるんですね。何年も反対の論陣を張ってきて。「これでよかったじゃないか」と結構言われます。僕を知っている人なら、「君が言ってきた理由ではないけどね」って留保をつける人もいます。たまに会う大学の同僚のなかには、「よかったじゃない、思い通りじゃん」って、それが一人二人ふたりじゃなく、結構いる。そういう人に会うたびに、「お前の耳は風穴か、お前の目は節穴か」と怒鳴りつけたくなるくらいです。
 それにそもそもパンデミックなんだから、日本がどうこうじゃなくて、世界で収まっていないと開催なんてできるわけがないのに、未だに日本しか目に入っていない人も多い。「コロナだから」中止というのと、オリンピックを根源的に批判して中止という考え方は、全然違うものです。もし延期のはてに来年中止になったら、同じ結果だったとしてもそれを見据える視野というのは全然違うんだということ。この2つはまずはじめに是非言っておきたいことです。

【コロナだからじゃねーよ/コロナだから考えるべきこと】
山本:「コロナだからじゃねーよ」ってことですよね。

小笠原:そのとおりです。しかしそうなんだけど、他方ではコロナだから考えなきゃいけないこともここで出てきているということも、今日のポイントにしたいと思います。コロナなど予測もしなかった。秋から流行しだしたけど、まさかオリンピックが延期や中止になるところまではいたらないだろうと、みんな思っていた。みんなというのは、我々のように反対運動をしてきたひともそうだし、JOCや IOC、日本政府、組織委員会、アスリート、当事者としてオリンピックに関わる組織する側も、ここまでのことは予測できなかったと思うんです。その1つの証拠として、あっち側の言うことがバラバラでしょ。IOC委員もそう、安倍もそう、森もそう、山下なんてもう姿すら見えなくなりましからね。JOCは案山子状態。
 ただ、ここで大切なことは、オリンピックを組織しプロデュースする側も対応を迫られていて、その中枢の人たちは一過性のことではなく、今後どうやってオリンピックを展開していくかという模索を始めていて、試金石を探していると思うんです。この東京大会の延期が、そのための1つの大きな実験台を提供している状態。バラバラの意見がまとまっていないように見えるその裏で、きちんとプロデュースしようとしているやつがいるはずです。もし開催できるとなったら、すぐその方向に持っていかないといけないし、できないなら資金回収とか、どの街もやりたくないと思うけどそこでやってくれる場所をを探さないといけないっていう、そういう裏方のネットワークを組織してるのは電通なんだろうけど。でも電通が電通がって、本間さんの本を読めばわかるけど、なんとなく電通がオリンピックを仕切ってるんだよって言われてもですね、電通のどこのだれ? どこのセクションのどこのどういうやつがネットワーク作ってんの? ていうのはなかなか表には出てこないですよね。だけど、1つだけ確かなことは、ちゃんとプロデュースして品定めをして、青写真作ってるやつがいるということ。つまり、批判する此方側だけじゃなくて、彼方側のこともとらえていかなくてはいけないということです。冒頭に申し上げたように、コロナのせいで新しい対処の仕方をしなきゃいけないという点では、批判する側もされる側もわりと同じで、宙ぶらりん状態に置かれていることに変わりはないわけです。 

山本:今死んだフリしてるんですかね。あえてトーンダウンさせているのか。

小笠原:してるだろうけど、そして本当に死んでるとこもあると思うけど、どうしていいかわからないってとこもあると思う。そこのところを本間さんに伺いたいんです。これが1本目のパスです。2本目のパスは、伊藤さんに、足元にいい回転の優しいパスを出します。
 そもそも「復興五輪」って言われていたんですよね。東北の震災、原発事故以降のさまざまな困難、それらから復興したよということを見せるのが半分くらい。オリンピックがんばってやって、エネルギーを与えるよとか元気や感動を与えるよとか、そういう情動の部分に訴えるのがもう半分くらい。でも招致に成功して猪瀬が知事じゃなくなって、都の職員も東北から引き上げちゃって、「復興」と「五輪」の間に入る助詞が変わった。復興「のための」とか復興「した」じゃなくて、復興「したことにするための」五輪になった。エクスキューズとしての五輪です。論調の変化を明らかにつまびらかにしていくときのプロセスにおいてとても重要なのが、東北で被害にあった人たちの言葉があります。全国放送ではなかなか出なくなっちゃったけど、東北や福島の地方記者やジャーナリストたちはたくさんミクロな言葉を集めていますよ。そういう声がぼそぼそ表に出てくると、金も資金も情報も、東京オリンピックのために集中していることが明らかになってくる。明らかになってくると、組織側は「復興五輪」という言葉をを使わなくなる。そこにコロナが入ってきて、今度は「国難」です。いまや「国難を乗り越えるための五輪」。こうなると、さっきのように、「国難」と「五輪」の間に入る詞が変わってくるんです。国難を「乗り切ったことにするための」五輪になるんです。
 でも「国」の「難」ですから、東北や福島でさまざまな弊害が何も解決されず残っているのに、「国難」という大きなものを上から被せることによって覆い隠してしまう。それも、感情に訴えますよね。たとえば「絆」、安倍晋三は最近あまり言わなくなったけど、「寄り添う」。飯舘村の農民が「寄り添われたくない」って言ってましたよ。以前そういう映像を見ましたよ。甘ったるい感情的な言葉。でもそれが意外とぐさっと刺さることもあるわけで。この3~4ヶ月の間をみるだけでも、東北を想起せざるをえないようなボキャブラリーがまた出て来ているような気がする。そのあたりのことを、言葉遣いに注目して「情動」をキーワードに研究されている伊藤さんに伺いたいです。東北や福島のその後のことを考えたら、どれだけオリンピックが弊害になってきているか。そのあたりを絡めてお話いただければ議論が広がると思いますので、よろしくお願いします。

【電通とオリンピック】
山本:まず小笠原さんから本間さんへのパスですね。顔が見えないエージェント電通についてです。実はオリンピックって裏で電通が動いているんだよっていう都市伝説的なものもあるわけで、やっぱり実態が見えないわけです。ここのところ、ニュースに電通というワードが出始めていますが、そのあたりから。

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本間:電通ってここのところ、オリンピックではなく給付金で話題になってますよね。持続化給付金の仕事を、なんと密かに受注していたっていう。しかもそこで、トンネル会社つかって中抜きしていたっていうのもあの会社っぽいな、と思うんですけど、給付金の給付システムを請け負うし、オリンピックもやっているし、いったいなにをやっている会社なんだ? と、割とみなさんびっくりしていると思うんですよね。なんとなく電通っていうと、5年前の高橋まつりさんの自殺事件以降、名前は割と知れ渡っていて、どうもろくでもない会社らしいっていうイメージはある。でも相変わらずなにをやっている会社かはわからない。一応広告会社ですから広告はつくっている、 TV CMとか新聞広告とか。でも実は、電通にせよ博報堂にせよ、もう僕が居た頃、軽く20年以上前くらいから、自分たちのことを「広告代理店」とは呼ばなくなっているんですね。
 一昨日の6月8日ですか。給付金問題の釈明会見が開かれましたよね。その際に電通の副社長がいみじくも自分で言ってるんですけど、電通は広告会社じゃなく、ソリューション会社なんだと。もう自ら、そう言ってのけてるわけですよ。あらゆるスポンサーのあらゆる課題に関して、ソリューションを提供する会社なんです、と言っているんです。ですから、今回もその通りのことをやっているわけです。国とか経済産業省が、多くの国民に給付金を行き渡らせないといけないんだけど、一体どうしたらいいのか? と相談されたときに、瞬時に、こうこうこうすればちゃんと出来ますよ、という具体的プランを提示できるわけです。ただその提示した内容と中抜きがすごくて、さらには給付が追いつかずに国民の怒りを買っているというおまけもあるけれど そういうメニューをさっと提示できるんですよ。そういうことをやる部署が、電通社内にちゃんとあるわけですね。結局、電通ってオリンピックばっかりクローズアップされるけれども、世界陸上とか、世界水泳とか、名だたるスポーツ大会は全て電通の仕切りなんです。

小笠原:サッカーのワールドカップもそうですね。

本間:そうそう、それらのテレビ放映権を持っているってことなんです。あと記憶に新しいのは去年のラグビーワールドカップですね。あれも結局宣伝・広告またはテレビ放映は電通が仕切っていたわけで。イベントをして、たとえば一万人の人が来ればどういう風に一万人をさばくのか、というイベントのやり方も、電通社内にイベント局みたいなところがあって、全部専門家たちが配置されています。
 さらに、そういう人たちがいろんな外部の専門家と繋がっていて、この事業だったらこの人、現場で仕事をさばくために、下請けならパソナや大日本印刷にしようか、と自分の使い勝手のいい下請けの会社を引っ張ってくる、というその繰り返しなんです。その仕組みは博報堂も同じですが、違ってきているのは、博報堂はやっぱり自分たちが広告会社だっていう自覚が相変わらず強いんだけれど、電通はそんな古いプライドはとっくにかなぐり捨てているんですよね。なにせ副社長が、自分で「もう広告会社ではない」と言ってしまうくらいですからね。だからそういう、広告制作以外の仕事にも対応できるシステムをもっている会社、それが今の電通なんです。
 で、広告分野はもちろん今でも強いけれど、そこに執着していない。新しく稼ぐ道があれば、すぐにそこにパクッと食いついていく、そういう会社なんですよ。だからすごく、積極的で、貪欲。もうイメージもそうだし、中身もそうなんですよ。別に広告じゃなくてもいい、稼げるなら何をやってもいい。電通という母屋を太らせてくれるなら、何をやっても良いという会社なんです。これはね、大手の企業から見たら、なかなか珍しいことですよね。例えば、トヨタの豊田社長が「トヨタは自動車会社をやめる」って数年前に言いましたよね。でも、作っているものは自動車なんだし、トップがそう言っても、なかなかできないじゃないですか。まさかトヨタがマスク作るか、と言ってもできないですし。でも電通は、自分たちのコアは広告ではあるけれども、今回の給付金騒ぎでも見えたように、何でもやるんだ、という貪欲さを、社員一人ひとりが徹底して身につけているんですよね。

山本:コロナの世界的なパンデミックは数年は収まらないのだから、多くの人たちが開催はもう無理だろう、中止だろうって思いはじめてるときに、電通はどういうソリューションを仕掛けてくるんでしょうか? 延期や中止という経済的な企業リスクのなかで、スポンサーも集めないといけない。国民や視聴者のモチベーションを喚起しないといけない。どんなソリューションを展開してくるのでしょうか?

本間:そういうプランを出せとはいわれているだろうけれど流石に、出来ないこと出来ないということは、彼らも知っているわけです。プラン出すとしても、今は電通にとっても厳しいですよね。いくらソリューションと言えども、実現不可能なプランを出してはしょうがない。これは必ず実現できる、というものを提供していかないといけない。そうなると、恐らく今はこのコロナ騒ぎが少し収まるのを待っているのでしょう。
 一昨日ですか、五輪組織委員会が、「来年の東京五輪を簡素化する」などと発表しました。簡素なオリンピックって、一番最初の招致活動時に、7000億円の予算でやりますと言ってたのに、今や3兆円かかると予想されてますから、簡素化するのは当たり前ですよね。コロナ禍が来なくても、やるべきだった。今ごろなぜああいう発表したかっていうと。もはや国民感情が、五輪開催を許さなくなっているからです。国民が窮乏して、オリンピックやってる場合じゃないのに、そこにさらに追加予算3000億とか5000億円とか使う余裕はないということが国民にもわかっちゃっている。だから、いやそれでも五輪をやるんだ。というキャンペーンなんかはじめると、当然反発をくらうの、今はできないですよね。

山本:風向きが悪い時はあえて動かない。

【”フワフワ感”と祝賀資本主義】
本間:そういうときは、あえてそこになんかこう「風に立つライオン」みたいなことはしないんです。そういうことは世論調査すればすぐにわかりますからね。だからじーっと反撃の機会を伺っているものの、でも結局オリンピックの場合、開催可能かどうかを決めるのは、ワクチンが間に合うかどうかだけです。それがはっきりするまではあまり動かないで、ギリギリ間に合いそうだったら、開催を待望するようなキャンペーン始めるでしょうね。

山本:ワクチンの議論が出ました。そのあたり含め、小笠原さんどうでしょうか。

小笠原:東京で開催するけど東京がだけ安全でもできない。ワクチンが開発されても、その分配は不平等ですから。ブラジルはいま4万人くらい死んでますが、ああいいうところにまできちんとワクチンが行き渡って、予防がうまくいって、予選もきちんと完遂できて、とクリアすべき条件はたくさんある。予選が終わっている種目と終わっていない種目で振り分けが起こるでしょうし。簡素化といっても、何をどう簡素化するのでしょう。開会式と閉会式やらない、聖火リレーもやらない、便乗的なパブリック・イヴェントもやらない。じゃあ陸上は全部やるの? じゃあバスケは? 三密になる競技はどうするのかっていう、違うコンフリクトが生じますね。4~5月にかけて、オリンピックという言葉があまりメディアに出なかったじゃないですか。裏でいろんなことが起きていたのでしょうけど、電通のスタンスを伺っていると、「いま口出しするのはやめようかな」っていう、そういう態度が政治家とか組織委員会人たちにシナリオとして与えられていたんじゃないか、いまは言わんでくれということが了解事項になっていたんじゃないかとも勘ぐりたくなります。

本間:緊急事態宣言下で国民がピリピリしてる時に、余計なことを言っても反発を食らうだけなので、いま精神論かざしてもできないって、国民は分かってる。国民がこの1ヶ月半家にいて1つ良かったのは、テレビやネットでニュースもよく見聞きするようになって、オリンピックという「ふわふわ感」が払拭されて、コロナによるリアルが、かなり鮮明になったことだと思います。だからいま小笠原さんが仰ったように、日本だけがなんとかワクチンが間に合ったとしても、全世界はそうもいかない。来年7月までに、発展途上国の国に行き渡るはずがないというのは、誰がみても分かることです。割とそういうことも多くの国民が知っているので、だから開催は無理だと言っている訳です。
 でもこういうことは、普段なら中々国民に広まらなかったでしょう。たぶん緊急事態宣言があって、これほどみんなが家に居ることがなければ、未だにそういうことを知らない人もいたと思う。今回、多くの国民がニュースを見るようになって、本当にリアルにこれはもう無理だ、とわかってる国民が多くなった。そこは僕は良かったと思うんですね。

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山本:コロナによって「フワフワ感」が抑えられているということですね。オリンピックの資本主義が動いてきたプロセスをアメリカの学者ジュールズ・ボイコフさんは「祝賀資本主義」という概念で論じています。その議論は、「フワフワ感」とのような、いわばポジティブな感情を喚起する政治なんです。ロンドン大会では、「フィールグッド・ファクター」とあからさまに命名してオリンピックの祝賀ムードを高めたわけです。でも、コロナ状況のもとで、それはあまりに私たちの生活と違うだろ。そういう機運がみんなに共有されはじめている。そもそも、復興五輪というのは、大惨事からの復興を先取りして祝うという政治的な目論みだったわけですが、そのあたり、伊藤さんいかがでしょうか。

【フクシマと復興五輪】

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伊藤:まず最初に小笠原さんから問題提起された復興五輪ついて、最初に述べたい。
 小笠原さんが指摘したように2013年9月安倍が「アンダーコントロール」といって、誘致を決めたわけですけども、私は「そんなことはありえない」とすぐに思ったわけです。2013年のこの発言の前までは、小笠原さんと同じ感覚で、「オリンピックいまさらまたやるのか? 震災と原発事故の直後で、誘致できるはずがない」と漠然と考えていました。しかし、この発言で「もうはっきりこれを開催してはいけないと思った。ちょうどこの時期に、福島に調査にはいっていて、当時の汚染水問題とか健康被害とかってのを実際に福島にはいって聴いていたので、その思いは非常に強かった。
 誘致が決まる前は、オリンピック開催についての世論調査の結果は賛成が10%くらいでした。しかし、安倍が「アンダーコントロール」と述べて、誘致が決定してから、「開催に賛成」の割合が高まっていく。それでも、圧倒的な支持ではなくほぼ40%くらいで推移していく。テレビでも開催決定のシーンが何度も流され、アスリートがメディアに登場する機会も増えていきます。開催に向けた世論がつくられていったわけですよね。そのときの意識の変化ということを考えると、山本さんがいった惨事便乗型資本主義、つまり惨事や災害を1つのてこにしてこれまでの規制を撤廃して資本が自由に回っていく領域を拡大するという側面だけではなく、震災直後の不安や停滞感を払拭して、その先に祝祭を求めたいという欲望とオリンピックがリンクした側面がたしかにあると思います。不安である、不安があるからこそ、原発の被害をうけたショックがまだあるからこそ、その先になにか希望を見出したいという欲望です。ですから、惨事便乗型資本主義だけではなく、祝祭資本主義の形をとる資本の動向が国民の共感と支持をあつめていく側面があったはずです。
 では今の状況どうか。昨年また福島に行って調査したので、簡潔に現在の福島の状況について話させてください。双葉町の復興住宅に住んでいる方に話を聞きました。いま復興住宅に入居いる人たちは、高齢者で、しかも単身世帯が多い。そのため復興住宅ができても、そこでコミュニティができているかというとそうではなく、孤立し生活している。また、もともと公営住宅など自分の持ち家ではない住宅に住んでいる人たちが多く、持ち家があって非難した人たちと比較すると、賠償金の額も桁違いに少ない、と話してくれました。格差はむしろ拡大しているという状況がある。南相馬の学校にも行って、校長に聴き取り調査もしてきました。比較的大きな中学校で、多い時は400名近い生徒がいたこの学校の生徒数は約30人くらいです。ほとんどの住民が帰還していない。帰還できできずにいる。夜、スーパーに立ち寄ったのですが、そこに来る人はその多くが原発の廃炉作に従事している作業員です。地元の人もいますが、何百人しか戻ってないですから、通常のスーパーの風景ではまったくない。まだまだ、こんな状況です。
 去年の9月にいったこの調査にときには、聖火のスタート地点が福島と決まり、どのルートで聖火ランナーが走るのか、校長に聞きましたが、その時点ではまだ決まっていないという話でしたが、推測できるのは、主要道路の脇のいたるところに積み上げられている汚染土の黒いブロックが2020年には撤去され、聖火が福島を走るときには、「ここまで福島は復興した」という映像シーンが流されるだろうということです。まだ至るところに、中間貯蔵施設まで持ち込めない汚染土が積み残されているのもかかわらず、です。
 いまコロナ禍で、非正規労働者やフリーランスの人たち、小規模の自営業者が深刻なダメージを受けている。住む家すら失ってしまいかねない。深刻な事態が全国に拡大している。こうしたなかで、福島はどうなるか。震災以降と原発事故で、いちばん疲弊し、いまでも健康被害におびえ、経済も復興の途上で、農業も漁業もいまだに厳しい状況にある福島はどうなるのか。そう考えざるをえない。こうした状況に置かれたなかで、2021年に延期したとしても、聖火を福島からスタートさせて、「復興した姿」「復興の証としてオリンピック」を開催することど、許されることなのか。
 延期して、しかも縮小して開催するという声が出ています。コロナ対策を万全にして、アスリートや大会関係者の安全・安心を最優先で対応するなどという声も聞こえてくる。では、さきほども話が出ましたが、ボランティアの安全はどうするのか、外国からくる選手のコロナ対策はどうするのか、それに注ぎ込むだけの予算はあるのか、これだけを考えても中止しか選択肢はないと思うのですが、開催したい側はなんとしても開催するという欲望を捨てきれない。
 いま、世論調査をおこなえば、開催に賛成という割合は、たぶん20%程度にとどまるのではないでしょうか。もっと少ないかもしれません。しかし、多分彼らだって、これから巻き返しをはかっていく。どんな言説が構築され、開催に向けた世論の喚起をつくっていくのか、ここにこれから一番注目しなきゃいけないと考えています。

山本:いま世論形成と情動のコントロールという議論になっています。小笠原さんいかがでしょうか?

小笠原:お二方の話を受けて、問題提起した僕の考えはこうです。結局、オリンピックに関してコロナが何を変えて何を変えなかったかはわりと明らかなのではないかと。伊藤さんの言葉で言えば「弱者の切り捨て」です。招致前から始まっていた野宿者排除も含め、霞ヶ丘住宅も建設作業員の自殺や死亡事故も、誰も責任取ってないですからね。ボランティアだって、募集の経緯や負担の割合、炎天下の健康安全対策など、うやむやなまま。他方で、コロナ禍に乗じて、非常に周到に誰の責任かわからなくされてしまう危険がある。武田恒和だってまたフランス当局から追訴されたままでしょう? 要するに、不祥事や不正や疑惑と言われてきたものの何一つ「解決」されていないわけです。
 コロナにかかわるさまざまな事柄を理由にして、明らかにされていない責任、グレーな部分が、しつこいですけどこんなちっこいウイルスによってうやむやされてしまうのをしめしめと思ってるやつもいるんですよ。電通を過大評価するのもあれだけど、ソフトの部分で司令塔役を果たしている電通は、このしめしめ感を具体的なプランとして企画立案して何億円も儲けるわけでしょう。この責任回避が一連の事業のなかに既に組み込まれているのではないかと、強く思います。「コンサルティング事業」としてね。

【コロナと“ブラック・ボランティア”】
山本:ちょうどいま小笠原さんも言ってくれたボランティアの安全とかね。そのあたり、組織員会で何か議論している感じもありませんが。開催となった場合、こんな状況でもボランティア募集するんですよね?

本間:すると思いますね。

山本:やはり「タダ働きのシステム」といういわゆる「やりがい搾取」を運営に組み込んでいくんですね。

本間:結局、今年やるよと言ってくれてたボランティアが11万人いたわけですけど、その人たちはタダ働き、無報酬だった。で、来年でもOKっていう人は温存するんですよ。ですから11万人全員がパーになったわけではない。要は学生以外の人たちで、お仕事がなんとなかなる人たちは、来年やってもいいよっていう人はいる。だから半分の5万人くらいは、募集をかけないとダメだろうと思います。でもそうすると、今年やれる人たちがタダなのに、来年募集する人間は時給出しますという訳にはいかなから、また無償で募集すると思います。でも、コロナ以前は真夏の炎天下でボランティアが倒れたらどうするんだ、と私の本にも書きましたけれども、ずいぶん組織委を追及したんですよね。そうしたら、全員ボランティア保険に入れるから大丈夫だっていうわけです。ボランティア保険って1日100~150円くらいで入れるやつで、一応熱中症も保証対象になっています。でも、当然コロナに対してはボランティア保険がきくわけじゃないから、もし来年ボランティアを働かせるんだったら、コロナに対する疾病保険をどうするのか、という問題が別に浮上してきます。

山本:ボランティアの人は、感染リスクがかなり高い現場に行くわけじゃないですか。でもそういうところへの準備が何もなく、もしかしたらこの人たちは「安全・安心」キャンペーンを体現するためのモデルとして使われていくのではないか。たとえばソーシャルディスタンスやマスクやフェイスガードとかそういうかたちで安心・安全キャンペーンの広告塔として、ボランティアの人たちが高リスクのなかで働かされていくのかなということが予想されます。

本間:ただ、感染するリスクが高かったら、そもそも応募するかなってのもありますけどね、危険過ぎるから。熱中症なら、まだ屋内でクーラーがあるところで働いている分には大丈夫だと、考えられる。自分は通訳だけだから屋内仕事だ、という危険の避け方もあるけれど、コロナの場合はそんなの関係ないからちょっと頭のいい人だったらやりませんよね。

山本:近年のオリンピックは、「参加型権力」によって人間を動員してきました。競技の現場により近いところで、擬似的ではあるけどオリンピック運営側に関わることができるというモチベーションを管理しながら。オリンピックは観るものじゃない、運営側に疑似的に入れて参加させてしまえと。オリンピックは「参加するイベント」なんだとIOCは宣伝してきたわけです。2020年に向けては、選手の参加だけじゃなくて、いろんな人たちが参加できるんだよっていう物語が効力を発揮してきました。その意味で、コロナは決定的な形で参加という物語自体を破壊してしまう。

本間:今回、組織委は200項目の簡素化項目をあげて簡素化するって言ってるけれど、逆にコロナ対策費というのは今までゼロだったわけですよ。だって今まで想定していなかったから。だから、その対策費がいくらになるかというのは、全くわからないんですよね。何を、どこまでやったらいいかわからない。保険もどうなるか分からない。簡素化できるところもあるけれど、新たなコロナ対策費が何百億円積み上がってくるの予想出来ないから、簡素化を阻む大きな障害になるでしょう。

山本:これまでは軍事費や対テロ費ですよね。そういうある種の警察的な力にたくさんお金を注いでいくといいう特徴があったんだけれども。ここからはコロナ対策。しかも前例もないからいくらかかるかわからない。

本間:テロ対策も、酷暑対策もやめるわけにはいかないですよね。その予算は削減できないから高止まりです。それらをやりつつ、そこにさらにコロナ対策費が乗っかってくる。

山本:いまドイツのメディア記者フェリックスさんからコメントがあって、この調査オリンピックの支持率が、媒体によって違ってるんじゃないかというようなことが書かれていますね。

本間龍著
『ブラックボランティア』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07FJ6VTDY/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i3
『電通巨大利権: 東京五輪で搾取される国民』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07C3HY7HC/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i0
『東京五輪ボランティア問題アーカイブ』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07KQ7D8QY/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i6
伊藤守著
『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求: ポスト・ヒューマン時代のメディア論』
https://www.amazon.co.jp/dp/4130501984/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_SVg5Eb565MEX7 
『情動の社会学』
https://www.amazon.co.jp/dp/479177017X/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_AXg5Eb2X39ABQ 
『情動の権力―メディアと共振する身体』
https://www.amazon.co.jp/dp/4796703233/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_lfh5Eb90W588E 
小笠原博毅著
『真実を語れ、そのまったき複雑性において―スチュアート・ホールの思考』
https://www.amazon.co.jp/dp/4787719106/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_AZg5EbNZC1B77 
『セルティック・ファンダム―グラスゴーにおけるサッカー文化と人種』
https://www.amazon.co.jp/dp/4796703667/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_F0g5EbPP3PPSR 
山本敦久著
『ポスト・スポーツの時代』
https://www.amazon.co.jp/dp/4000613987/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_X2g5Eb655JH53 
小笠原・山本の共著
『反東京オリンピック宣言』
https://www.amazon.co.jp
視聴者Aのチャットコメント:
電通鬼十則がある事を思い出しました。
1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。
山本敦久さんのチャットコメント:
ボイコフさん:祝賀資本主義
ナオミクライン:惨事便乗型資本主義
この複合体としての復興五輪
セレブレーションとしての聖火リレー
Felixさんのチャットコメント:
オリンピックに関している調査についての質問です。
国民の東京五輪への支持率は、調査の聞き方によって結構違うみたいです。4月のYahooのオンライン調査で、中止がいいと思っているのは3部の2だった(https://news.yahoo.co.jp/polls/domestic/41088/result)。その時に朝日新聞がやった調査によると、中止がいいと思っているのは1割くらいだった(http://www.asahi.com/ajw/articles/13240410)。
どうして結果がそんな調査によってに違うか誰かが説明できますか?
(悪い日本語ですみません)

山本:毎日新聞と朝日新聞で随分数字が違っている。どうしてこんなに違ってくるのか。

本間:4月の段階だからですかね。4月10日は、3月24日の延期決定からまだ時間が経っていなくて、緊急事態宣言がでる直前じゃないですか?

伊藤:延期が決まって一週間。

本間:その頃は、国民の間にも、まだ開催出来そうという幻想があった。五輪開催か否かの世論調査は、今やるべきだと思うんですよ。でも、今はわざとやりません。やると、否定的な数字が大きく出ちゃうから。新聞社はみなさんご存知の通り、全国紙全紙が五輪スポンサーになっているので、なるべく最後まで中止になって欲しくないというのが本音ですよね。

伊藤:さっき調査で、まぁ日本での開催が決定してすこし開催に賛成するデータ、それはNHKの放送文化研究所のデータですが、コロナ感染の前までは40%近く維持してきたわけです。それから、「復興五輪」の名目である福島の復興に寄与するかするかどうかという点で「寄与しない」と回答した人たちも40~45%くらいで推移している状態が続いてきたわけです。でも、今、調査やったら、「開催したほうがいい」「縮小しても開催したほうがいい」という割合が40%を占めるとは到底思えない。いま挙がっている調査のデータがばらつきがあるのは考えないといけない。時期の問題もあるし…。

本間:ネットではかなり辛辣な結果が出ますからね。ネットの調査なんかやるとね。

山本:いま参加者の本橋哲也さんからコメントもらいました。我々はしっかりと言説闘争で批判的な言説を組み上げて攻勢をかけるべきだと。いまどういう言葉やスタンスで、オリンピック批判を展開するか。おっ、いま塚原東吾さんからも「ニューノーマルにおけるオリンピック」というコメントをもらいました。ポスト・コロナということを想定しながら、安倍政権やIOCがどういう対策でくるのかということを見ながら我々としてもどういう批判の言葉をつくっていくのか、どういう思考で批判していくのかそのあたりをもう少し踏み込んでいきたいです。

視聴者のチャットコメント:
暑さ対策への予算って幾らなんでしょうか?
Ted Motohashiさんのチャットコメント:
伊藤さんが仰られるように、今は「おとなしくしているあちら側」がどんな言説で盛り返しを図ってくるのかを監視し続けることが大事だと思いますが、「こちら側」としても言説闘争のターゲットをいくつか絞って、「祝賀資本主義」や「災害資本主義」以降の言説を鍛えていく必要があると思います。たとえば、本間さんがご指摘のように「簡素化」の欺瞞を経済的に暴くこと(そもそも「簡素化」は不可能であること)、(現在世界中で多くの人々の情動と行動を喚起している)「人種」をめぐる階級・ジェンダー・民族をめぐる差別がオリンピックの根幹にあることを指摘し続ける、などなど。こちら側の「言説」を現在、これまで以上に強化して浸透させていく時期だと思います。
Togo Tsukaharaさんのチャットコメント:
ニューノーマルにおけるオリンピック?

【五輪ムラとは何か?】
山本:小笠原さんが『反東京オリンピック宣言』で命名した「どうせやるなら派」という言葉がありましたけど。それから最近では、「コロナ転向派」という新たな派閥の出現を指し示す言葉を生み出しましたね。「あと出しジャンケン」のように急にオリンピック批判する人たちが出てきた。学者、ジャーナリスト含め、そういうなかから「五輪ムラ」という歴史的に温存されてきた存在を指摘していますね。「原発ムラ」ならぬ「五輪ムラ」と表現でかなり辛辣な論調からオリンピック批判を展開しているわけですけれども。

小笠原:「どうせやるなら派」は、もともとケチがつきまくってるオリンピックだけれども、それでもやることになっちゃったんだからん仕方ないじゃんというところから始まって、無理くり反対を押し通せっていう人もいるけど、他方ではいろいろあるけどこういうのは決まっちゃったから楽しもうぜ、自分たちノリにしようぜ、(国際協調を説くオリンピックの)理念自体はは悪くないから、とりあえずやってみようぜっていう人たちです。で、今度はその人たちのなかから、これだけコロナがひどくなると、もういいよ、そもそも初めからケチがついていたもんっていう、あっさりとひっくり返す人たちがいる。これが「コロナ転向派」です。
 同じ人たちが、ケチがつきまくってるからもうやめようぜって、簡単に左から右にシフトしてしまうっていう。言論界というか、メディアに出る人たちの言葉の軽さ。そういう人たちって賢いんですよね。時流を読んでいて。武田砂鉄くんの言葉を使えば「気配」を察して「あー、やめとこう」って。
 一方で、こうやってうまくいける賢い人たちが目立てば目立つほど、昔から頑強に保守的に、「オリンピック自体はいいんだ」という人たちが再び出現する。いろんな負の条件はあるけれど、国籍や人種を越えて平和に国際交流をしてという大義、理念は消しちゃいけないんだというわけです。オリンピックをなくしてしまうと、その大義や理念までなくしてしまいますから、それはだめだっていう人たちが、またポコポコ目立つようになってきます。

山本:本当はオリンピックっていいものだよ。本来のオリンピックというものがいま歪んでいるのだと。

小笠原:五輪憲章へ立ち返ろうというのです。ほとんど宗教的な盲目さを感じます。まあ、本当にその宗教が時代の中でしっかり役割を果たせているかを考えられる人は、改革者として信仰の前提を否定するもんですがね。宗祖さまはクーベルタン男爵さまですよ。でもおもしろいのは、そういう人たちはクーベルタンが何言ったとか何書いたとかって克明に調べてるのに、今日来ていらしている鵜飼さんが再三ご指摘されているとおり、クーベルタンがどれだけレイシストでミソジニストだったかということに向き合おうとしない。わかるじゃないですか、ちゃんと記録を読めば。でもクーベルタン擁護者たちは、19世紀の貴族のおぼっちゃんなんだから、そりゃあいろんな見解あるだろうけど、スポーツを世界にうまいこと広げたっていうことを評価しようぜって言うんです。特にスポーツの歴史やオリンピックの歴史を研究してきた人たちがそういうことを言う。学問とは批判と同義ですから、そういう人たちは大学や研究機関で働いているかもしれないけど、学問しているとは言えない。じゃあなんでしょうかね。僕にはただの有害な好事家にしか見えない。竹崎くんが上げてくれているブックリストのなかにもそういう人たちの本が2〜3あります。
 そういう人たちのコミュニティを、僕は「五輪ムラ」と呼ぶことにしました。ただその人たちはまだわかりやすいですよね。「五輪ムラ」の中枢にはいるけどわかりやすい。その周囲に、体育系の大学で、もっと生々しい利権に絡む人たちがいます。補助金を持ってくる。それによってアスリートを育てる。施設も待遇もよくなる。理想と現実を行き来してうまく対処する人たちがいる。資源として五輪を使っているんです。その人たちは、オリンピックなくなると飯の種がなくなるから困るんです。当然「ムラ」のあちこちには、批判的な人もいるんでうしょう。ロサンゼルス以降はだめなんだ、だから毎回ギリシャでいいんじゃないかとか、簡素化でいいんじゃないかとか。ただ「五輪ムラ」の村人たちに欠落している視点は、オリンピックというのはそもそも昔から資本主義の、冷戦下の資本主義の、グローバルな資本主義の、それぞれの資本主義システムの見本市なんだということです。それがオリンピックの下部構造ですが、それをそれこそ道徳的かつ情動的な言葉で隠してきた。「平和」、「友情」、全部そうです。

【コロナとオリンピックの資本主義】
山本:オリンピックが変幻自在というよりも、その時代ごとの資本主義が変幻自在であると。オリンピックはその見本市としてあり続けている。オリンピックは、つねに変化し続ける資本主義の形に適合し続けている。コロナは、ここ数十年のグローバル資本主義に最も打撃を与えました。資本主義もネオリベもズタズタにされている。停滞させられている。塚原さんがさきほどコメントしてくださった「ニューノーマル」ということを考えないといけない。アフターコロナ状況において、オリンピックが新しいバージョンとして生まれ変わって出てくるんじゃないかということです。そういうときに、どのような経済の形や情動の喚起を行う政治が出てくるのか。そのあたりを考えてみたいですね。

Togo Tsukaharaさんのチャットコメント:
資源としてのオリンピックと、思想的岩盤派の結託?
資本主義システムに適合して、変容してきたオリンピック。
視聴者のチャットコメント:
スポーツは五輪を必要としているのか?
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019100400001.html
Togo Tsukaharaさんのチャットコメント:
それを、情動のことばで語ることのトリックがある。
コロナ、グローバル資本主義に打撃を与えた。
ニューノーマル下でのスポーツ、そして資本主義のバージョンアップに変容?

伊藤:いま発言があった「離すこと」は極めて重要だと思います。ただ、その手前の論点ということで指摘したいのは、そういう新しい展開が発動していく手前の〈今の〉問題です。中止になるか延期になるか 宙ぶらりんな状況のなかでも、まだ開催する可能性がある、開催してほしい、できれば開催してもよいのでは、という「我々の気持ちや感情を開催につなぎとめる」ような言説が組織されていることを、私は問題にしたいわけです。

【情動の政治とアスリートの言葉】
伊藤:それがポピュラーな形で作用している磁場がある。磁場というか、主要な土俵が、アスリートたちの立ち位置、アスリートたちの発言です。延期になるか中止になるかの状況で、私達がオリンピックに対してどう対応するか、どういう意見をもつか、それを左右する1つの試金石になっているのがアスリートの立ち位置です。メディアのなかのアスリートです。多くの方が気づかれていると思うんだけれども、このコロナの感染の拡大の前からテレビの中では、オリンピック関連番組そしてアスリートの登場場面がものすごく増えたんですね。アスリートの登場回数が増えれば増えるほど、2020のオリンピックに期待を抱かせる言説があふれたわけです。
 コロナ感染が拡大する中、一時期オリンピック関連番組はたしかに少なくなったけれども、「延期」が発表される前後に、またオリンピック関連のニュースが増えますが、その中でも飛びぬけて目につくようになったのはアスリートの発言です。私から見ると、特別な位置、特権的な位置とでもいうべき位置をアスリートが占めるようになった。メディアのなかでアスリートが述べる言葉の代表的な例は、たとえば「もう1年先に延びてしまい、体力的年齢的に厳しいけども、なんとかがんばります」といった発言。あるいは「もっと練習できるよいチャンスをもらった。2021年のオリンピックのときに自分の活躍の姿を見せたい」といった発言です。このように、オリンピック開催を待ち望むアスリートの声がどのメディアでも、どのチャンネルでも流れている。
 こうした発言は、もちろん、メディアが選択してしているわけです。しかも、先日本間さんと話したときもでましたけども、選手が語る場を得られるのは、陸連であるとか各競技の団体や連盟が取材を許可してはじめて可能になる。そうであれば、彼らも、自分の選挙生命を守るために、IOCやJOCや各団体の意向に反するような発言は控えるでしょう。最近、山本さんが出版された『日本代表論』(せりか書房、2020年)のなかに、超有名な元選手のインタビューが掲載されていますが、とても苦労したと聞いています。要するに、アスリートも本当に言いたいことも言えない状況が一方であるなかで、開催に前向きなアスリートの発言が選択され、メディアの中で前景化している、ということです。
 一方で、アスリートが心の底から「中止ではなく、延期して、これまでの努力を来年発揮したい」と考えて発言していう場合もあるでしょう。それを否定する気持ちは私にもありません。自分たちこんなに努力してきたんだから「来年ぜひともオリンピックを迎えたい」という言説です。私も、彼らの言説は半分共感します。だから、本当に、こういった選手の言葉が多くのメディアを通して伝えられると、私も含めて、心の根っこのところで「オリンピックは中止したほうがいい」という意見を述べることがためらわれてしまう。アスリートの心情や想いに情動が触発され、アスリートへの共感に傾いてしまう。これこそ、オリンピック開催「中止」という世論を足踏みさせる、高いハードルになっていると思うんですよ。これを克服しないと、今後の資本の側の巻き返しを許してしまうことになる。そう思っています。

山本:新しくオリンピックを仕切り直すときに情動の政治を組み替えていかないといけない。そのときに思いっきり心情に訴えるのがアスリートたちの発言だということですね。子供の頃からオリンピックを目指してきたアスリートたちの言葉。オリンピック出場に命を賭けて、汗をながして、涙をながして、歯をくいしばって頑張ってきた人生から紡がれる言葉は説得力がある。この言葉は、私たちの心情を激しく揺さぶる。

伊藤:小池やそのほかの政治家が、「多くの国民が共感してみんなでオリンピックやりましょう」といった言説は効き目がない。「復興の先にオリンピックを」という2013年以来の言説は破綻している。けれども、いま、個々のアスリートたちの言葉が僕たちの情動をもっとも作動させている、オリンピック開催「中止」という世論形成の大きなハードルになっているということです。

小笠原:アスリートの言葉のなかから重たいと判断されそうな言葉を重たいように見せているだけなんじゃないですか? 僕は少なからぬアスリートが実はほっとしていると思いますよ。調整早すぎたとか来年はまだピークじゃないのにとか思っていたアスリートは、チャンスを得たと思っているはずです。アスリートの欲望ってもっと汚いって思うし、それは必ずしも悪い意味じゃなくて、やっぱり勝ちたい、出たい、あいつよりもっていうのがないと、エゴイズムがないと一流にはなれないですよ。潔よさげな達観の域に達せられるのは、そういうエゴのプロセシングを経たアスリートでしょう。夏の甲子園中止になったけど、それでほっとしてる子どもたちいっぱいいると思いますよ。しんどい練習しなくていい、これで受験勉強できるって。でも、悔しがっている、戸惑っている、がんばっているアスリートたちの声しか編集されてメディアに出されないのです。だって福岡堅樹はもうラグビーやめて医学部行くって言ってますもん。

伊藤:多くのアスリートも不安を抱えていると思うんです。真夏の気候にも。コロナ感染にも。しかし、そういった声はわきに追いやられ、ほとんど主要なメディアには登場しない。メディアもオリンピック神話のなかにとどまり続けているから、なんとかオリンピックが開催できればよい、いろんな問題があってもなんとか開催できるように後押ししよう、と無意識に、あるいはステレオタイプ的に、対応している1つのあらわれかなと思いますね

【ニューノーマルとオリンピック】
山本:コロナを経て、いままでのような経済の仕組みや規模や人の移動やいろんなことがこれまでと同じではない。新しい正常性、ニューノーマルが蠢く。そうした条件というものが、これから模索されてくると思うけど、そういう意味では塚原さんがコメントしてくれたような、コロナからの復興という新しい動きが出てきて、オリンピックはそこに新しい活路を見いだすのではないか。本間さんどうですか。ソリューションビジネスとしてはコロナからの復興というのをどうやって新しいビジネスに変えていくということが想定されますか?

本間:ソレはもう少し経たないと難しいかなと。結局、ワクチンができて、全世界的にきちんと供給されればですよ、だからまだあと何年もかかるわけですけど、ワクチンさえできれば、割と終息していく話ではないでしょうか。だって薬を打てば治る、罹患しないという前提ができれば、扱い方も全然変わってくるのではないでしょうか。

山本:アスリートたちも時間がたつと3~4年立つと世代がガラッと代わる。時間が速いわけです。同じようにビジネスの人たちもせっかちじゃないですか。じゃあ2、3年の間、ワクチンないってときにせっかちに前に進んできた資本主義者たちは我慢できるのでしょうか?

本間:もし今年の秋に中止宣言をしたとしたら、もうその瞬間から来年の冬に、主要な競技だけでもかき集めて、プチオリンピックみたいなのを開けないか、みたいな案は当然ながら考えるでしょうね。それは、食い扶持を探すのと同じなので、当然やるとは思いますね。

山本:まだ見えてこないとおっしゃいましたけど、いまのオリンピックの形式って、84年のロス大会でひとつの形になりましたよね。商業主義的なヴァージョン。そして冷戦構造後、資本主義のグローバル化のなかでそこに適応してオリンピックは新しいグローバル資本主義の見本市になった。これまでも、新しい世界秩序のなかでオリンピックは姿かたちを変えてきました。ポスト・コロナのなかでは、元通りに戻そうとするんでしょうか? 今まで通りのものへと戻って、世界一の資本主義の祭典として君臨しようとするのか。それとも、新しい経済の仕組みや新しい正常性の世界に柔軟に対応したオリンピックに生まれ変わるのか? そのとき、電通はどのように動くのか。

本間:電通が動くというよりまずIOCですよね。国際オリンピック委員会がどうしたいかというのが最優先ですから、例えば積極的に縮小しましょうなどとは電通の立場では言わないと思います。止めをコロナが刺したと思うけれど、ここ10年くらい、オリンピックがあまりにも巨大化しすぎて、色々な国でボイコットが増えてました。開催地を決めるのもすごく大変だったし、途中で市民投票などを起こされちゃって、撤収とか招致をやめるという事態が頻発していた。これは明らかに、五輪の肥大化が問題視されていたわけで そこにコロナっていう得体のしれないものが勃発すると、途中で潰れちゃったり(中止になる)するんだっていうこともわかったわけですよ。今までオリンピックって戦争以外では必ずやってきた。戦後70年、モスクワ大会の西側ボイコットはあっても、中止になったことは一度も無かった。それなのに、病気が流行すれば中止もありえるということが、バレてしまったんですね。 

山本:経済的にもこんなリスクの高い、危なっかしいイベントにこれ以上カネを出しても得しないんじゃないかと考えるのでしょうか?

本間:もはや五輪は、縮小していくしか生き延びる道はないと思いますね。恐らく今回の東京オリンピックが、そのターニングポイントになると思います。

山本:資本主義も今までのようではいられない。ネオリベも大打撃をくらった。オリンピックはでもそこに寄り添って肥大化してきた。そうじゃないところに舵取りをということですね。オリンピックの側に立てばということですが。IOCのメディア担当は必ずこの番組を分析しているので、あまり知恵を提供してはいけないのですが…。

小笠原:ワクチンあったってインフルエンザになるやつはいる、コロナにかかるやつはいる。ワクチン開発=コロナの脅威が消える、ではない。コロナは、陰謀論を取らなければ、昔からあったウィルスで、その徴候と症候が今までと違うから新型肺炎って言われているだけですからね。
 それこそ生活を変えないといけないし、みんなが変わらないといけないと思えば思うほど、保守派というかオリジナルを見直そうって話が強く出てくると思うんです。世界の資本主義の構造そのものが変わるとしたら、その見本市としてのオリンピックも変わらざるもえないのは当然。そのときにオリンピックというフォーマットをもうやめちまえっていう意見が、内部からも出るかもしれない。
 伊藤さんにお伺いしたいんですが、代理店なりPRなりスピンで使われる言葉と、アスリートが実際ネットやテレビの画面で使っている言葉っていうのは、どこまで一致していてどこまで違うのでしょうか。うがった見方をすると、アスリートたちはシナリオを与えられていて、こういうタイミングでこういうこと言えって言われていると考えてもおかしくないと思います。だからインチキかっていうと、その線引きは難しいですよね。それもアスリートの仕事だから。だからこそ視聴者や子供たちにアピールすることが重要になる。資本主義だってそうですよね。食うためにモノ作ってこいではない。物質から非物質に労働の位相は変わっている。今や工場や流通以外は、家でいいわけでしょう、労働の現場は。サービス業なんか最低限の人数オフィスにいれば成立する。そういう風に働き方が変わってきた時に、いつかオリジナルに戻れるんだ、back to basicが可能なときまで我慢しようっていうことですよね、アスリートが言ってるいるのは? それはどうなんですか、どこまで有効なんですかね?

【アスリートたちが語れない構造】
伊藤:非常に微妙だと思うんですよ。いまいったように書かれたシナリオ通りにアスリートがいってるってことはない。アスリートであれば試合に出て、勝負したいし、勝ちたい、そう思っているでしょう。一方で、さっき話したように、アスリート自身の不安も大きい。「来年本当にオリンピックやっていいのか」、そうした声を出したアスリートもいる。でも、それは、主要メディアで取り上げられる機会はすくない。皆無とは言いませんが。隠されてしまうこうした発言を、多くの人たちに開いてほしい。
 できれば、本当にこういう場に何人もアスリートが参加して、実はこう思っているんだっていういくつもの声が広がればいいのですが…。それも構造的に仕切られて、分断されているという感じです。でもそうした声があることを僕たちはちゃんと踏まえた上で、言説闘争しなきゃいけない。そうでないと、先祖返りで、また「やはりオリンピックっていうには平和の祭典であるのだから開催しよう」という地点に戻ってしまい、「中止」という目標を達成するための壁を越えていくことは難しい。

山本:世論もさすがに中止だろうと。危ないじゃないかと。そんな風にアスリートも思ってるはずだけど、取捨選択されてメディアに言葉が挙がってこない。

伊藤:ということですよね。それをちゃんと考えないといけない。

山本:小笠原さんと伊藤先生がおっしゃっていますけど、「アスリートたちが真実を語れない構造」っていうのがここにきてもまだ機能しちゃってるって言うことですよね。

本間:全然言えてないですよね。現役で、結構トップの方でメダル狙えるくらいの人たちっていうのはもう、なんていうのかな、余計なことを言ったら遠征費削られたり、強化チームから外されるのが怖くて、何も言えないですよね。その中でも数少なく堂々と組織委を批判したのは、たしかその、ええと、競歩の選手…。

小笠原:鈴木雄介です。

本間:そう、鈴木選手。彼なんかは、真夏のくそ暑い中で、あのコースで競技なんか出来るわけ無いと組織委を批判しましたよね。あれが普通なんだけれど、そういう普通ができなくなっている。彼らもものすごいプレッシャーのなかにいますからね。そういうプレッシャーを与えているのは誰かといったら、IOC・ JOC・ 組織委員会、そしてその下にぶらさがっている各競技団体。そういう中でアスリートが自由に発言するというのは非常に難しい。特に日本人は同調圧力に弱いので。

山本:学者だってそうです。ムラですよ。ムラのなかで温存されてきた利権と秩序と象徴権力があって、村八分になるっていうことを許さない強固な仕組みがあって。このコロナ状況においてすら、いつまでそんなムラの住人でいられるのかってことは考えないといけない。でも、BLACK LIVES MATTERで、世界各地のアスリートたちが政治的な発言をしているし、アスリートの政治的な身体パフォーマンスを市民たちが身体で引用するようになっている。膝をつくパフォーマンス。腕を上げるパフォーマンス。これは黒人アスリートたちが60年代からやってきた集合的な身体技法なんです。大坂なおみさんだって発言し始めている。
 実際オリンピックの延期という議論と決定のプロセスも、アスリートたちから発せられたモメントではあるわけですよ。こんなときに日本に行きたくないって。そこからはじまってIOCも決断せざるえなくなってきたわけです。いまスポーツの抵抗の政治は、チャンスというか転換点にあって、アスリートたちがうまく言葉を発して、それが世界を駆け巡って、そうやってムラを解体していけるような、そういう仕組みができないだろうかと考えています。そのあたり、小笠原さんいかがでしょうか?

小笠原:「ムラ」はね、最近誰かに聞いたんだけど、江戸時代の稲作コミュニティを例に取ると、みんな土地に縛りつけられていたというけど、実はそうでもなかったんだってね。逃散ありまくり。そうだからこそ縛りつける権力が肥大化したという話。みんないやだから、逃げちゃうんですよ。ノーマルが逃散からこそ、不作、飢饉、過重な取り立ての時期には渡世人が増えるしね。「ムラ」のなかで利益を得られる間は仕方ないけど、だめだと思ったらさっさと農民やめて職人になるとか芸能に移るとか、渡世人になるとかそういうことやってたって話きいて、「ムラ」という仕組みが頑強に見えれば見えるほど、頑強に見せかけている言説的な力が強かったんではないかと思うんです。
 アスリートたしかにそう。さっきから思ってたんだけど、本当にメディアの構造だけが悪いのかな? こういう話ってメディアの話にすると楽じゃないですか、メディアのせいにすると。今日来てるでしょう、メディアの人いっぱい。

山本:せっかく来てくれているんだから(笑)。

小笠原:メディアを責めたい気持ちは大きいです。けれど同時に、たとえば僕らのように言論の世界でものを発することができる人たちとか、アスリートの周囲にいる人たちがどういう情報のやりとりをしているかっていうことにもうすこし気を配っていいのではないかという気がする。なんていうんだろう。うーん。奪ってる部分はあるかなとね。我々が奪っちゃってる部分、アスリートの発話のチャンスや言葉をどっかで奪ってる部分があるかな。当然奪ってる言論人やジャーナリストたちをムラの住人として批判することは重要だけど、「ムラ」人じゃないと思ってる我々も「ムラ」人になりうるんじゃあないかと。
 本当に勝利至上主義が嫌で、勝負とは関係ないとこでクリエイティヴな活動の延長でスポーツやってる人たちはたしかにいるけど、見えてないのかもしれない。我々の方で予めオリンピック批判っていう軸をとってしまっているから。アスリートの「発話」の手段を奪ってしまってはいないか。なんかそんな気もしますけどね。
 政治的なジェスチャーについては、微妙です。世界陸連会長のセバスチャン・コーが、アスリートは自分の競技の場で政治的主張を表現してもいいんだっていう発言しましたよね。瀬古利彦も同じこと言っていた。「自分はモスクワのときに言うべきことを言わなかった。だから今の子たちはもっと要求を言っていい」ってことを言い出した。ミーガン・ラピノーたちのジェスチャーを批判したアメリカ・サッカー連盟も、自分たちのポリシーは間違っていたという新たな声明を数日中に出すはずです。そうすると、ジョン・カーロスとかね、コリン・キャパニックとかね、「ジョージ・フロイドに正義を」と書いたシャツを見せたボルシア・ドルトムンドのジェイドン・サンチョとか、NATOは爆撃やめろって書いたシャツを見せた昔のピクシー(ドラガン・ストイコヴィッチ)もそうですが、川淵三郎はあのときものすごく批判したよね、でもそれが間違ってるんだってなった時に、この思潮の変化を両手をあげて歓迎できるのかってことをさらに考えなきゃいけないと思います。
 アスリートたちが自由に発言できるようになったからいいのか、と。NIKEはすでにそのような主張やジェスチャーをお金にかえる仕組みを作っているから。IOCも、FIFAもUEAFも含めて、その管轄下にあるアスリートたちが自由に表現できるようになったから、アスリートたちの声を直接聞けるようになったからいいのかって。

【反人種差別を取り込む資本主義の柔軟性】
山本:補足すると、BLACK LIVES MATTERは、オバマ政権のときから動いてきたわけです。NFLの選手たち、アメリカンフットボールの選手たちが、アンチレイシズムの身体パフォーマンスをして、市民の運動と連動していていたんです。そうすると、NFLから選手たちが警告を受けたり、トランプ政権以降はクビにされたり。NFLの選手だったキャパニックは、膝付きパフォーマンスのオリジンです。国歌が流れているときに膝立ちのパフォーマンスをして。人種差別がはびこるアメリカに忠誠を誓いたくない。黒人たちへの白人警官の暴力を認めるアメリカに反対するとして、パフォーマンスをし続けたわけです。これでNFLを解雇になって、選手キャリアを犠牲にするんだけど。犠牲になったキャパニックはどうなったかっていうとNIKEが手を差し伸べたんです。
 彼に救いの手を差し出したのは、左翼でも活動家でも、学者でもなく、NIKEだった。これは別の見方をすれば、キャパニックの政治運動のスポンサーになって、反人種差別運動を取り込む、内包するような「スポーツウォッシング」の一形態なのかもしれない。でも、この展開においてNIKEは成功しているんです。この仕組みをNFLもとりいれようとしている 。NFLは謝ったんですよ。「スポーツに政治を持ち込んではいけない」と言ったNFLは、自分たちが間違っていたって。
 同様に、IOCやいろいろなスポーツ組織が、アスリートの反人種差別の政治的パフォーマンスを取り込んでいく準備をしている。じゃあ、そうした抵抗の政治を飲み込んだその先どうなるんだっていうことですよね。抵抗の身ぶり自体も商品になるっていうことをNIKEが見せてくれた。じゃあ、IOCもそこに載っていこうということは想像がつくわけです。本間さんこれどうですか。ビジネス的には、抵抗のパフォーマンスを取り込むことにはどんな展開が見られるでしょうか?

本間:果たして日本でそれが可能なのか。海外だからこそできるのかも知れない。今回、延期の原動力になったのも、海外の選手たちの声が圧倒的に強かった。オーストラリアの競技連盟とか。でも日本のアスリートたちがなにか発言してたかっていうと、僕は全く記憶がない。延期したほうがいいとか、国内では何も聴こえてこなかった。だから同調圧力とか関係ないアメリカやフランスとか、海外の人たちが発言し、企業もNIKEみたいな世界的な企業や、ファッションブランドとかがそれを取り込んでいくということが、今後もあるんじゃないかっていう気がする。ただ日本でそれが展開できるかどうかは、僕はいま想像つかなくて、日本人でそういう発言をする人なんて、本田圭佑くらいしかいない気がする。

小笠原:日本人のアスリートで発言力を持っていると言われている人がみなプロ資本主義者だというのが、気に入りません。為末大もそう。株の投資とかマネジメントスキルを学んでね、実業家面したがって、やがて「プレジデント」とかで連載でも持つんでしょうけど、そんな連中の話聞いても意味ないと思います。
 政治的表現ばかりの話題になってしまっているけど、私はコロナがとても不安なのであと2週間練習行きません、そのかわり自分でワークアウトしてますとか、そういうことが許されるようなプロ・スポーツ集団というものができてくれば少し変わるのではないか。実際、チェルシーのンゴロ・カンテ(フランス代表)はそれを許されています。あからさまな表現だけじゃなくて、アスリートとしてどういう自己選択権が増えるのかに着目したいですね。そうしないと、集団としても変われないのではないでしょうか。

山本:政治をもう少し広く考えていくと、例えばマラソンの大迫選手は、陸連っていう「ムラ」の中ではっきりと主張をしたり、発言をしていく。こういう人たちがいて、それは必ずしも我々のいうような政治的な発言じゃないけど、例えば陸連のお金の回し方とかおかしーんじゃねーか、っていう形でポツポツとはあるんですよね。それを政治とは呼んでこなかったけれど、もっとミクロな次元で、不満・不平ってことで、大迫さんなんかは「語れない構造」を突破する可能性のある稀有なアスリートかもしれないなと思います。

小笠原:今日ここにいるメンバーがそうやって「大迫いいね」とか言うと、敬遠されるでしょう(笑)。あの危険な人たちが偉そうに俺の発言とりあげてるけど、私はあんな人たちと一緒じゃないですって。そこをどうやって仲間にい入れてもらえるか、我々も考えないといけない。

【国難という言説】
伊藤:だから、そういう観点から考えた時に、「国難」っていう言葉を使いたくないけど、あえて「国難」を突破していく使命をアスリートが負わされ、過剰な負担のなかにいる気がするんです。それをどうやって抜け道探していくかっていうときに小笠原さんがいったような抜け道もある。僕は、アスリートが、「競技に出てみなさんが勇気を与えたい」とか、「元気をあたえたい」といった、「そんなこと言わなくていいよ」と言いたいんですよ。そうじゃなくて、僕たちが期待してるのは、どんな結果になるかわからないけど一瞬アスリートがすごいプレーしたとき、僕たちが内発的にすげーって感動する、そうしたシーンを見る、体験することが楽しみなだけなんですよね。「元気を与える」「勇気を与える」とか、そんな過剰な思いをあなたたち抱かなくていいっていうね、そこからはじめていったほうがいいと思う。そうならない背景には、そうした語りが常態化している、あるいは常態化させている、見えない圧力があるんだと思うんですよ。

小笠原:それはね、「ナンバー」(文藝春秋)をつぶさなきゃだめだね。

(一同笑い)

小笠原:一回あの雑誌の倫理観を叩き直さないとだめだと思う。感動の物語、家族の物語、一番良くないのは「内助の功」的なストーリー。そういうのがみんな好きでしょって思われている。淡々とプレーしてくれる人のほうが最終的な感動はあると思うのに、でもあれも乗り越えたこれも乗り越えたっていうパッケージ化された公式があって、あの陸上選手もこんながんばってんのね、苦労してんのねっていう、共感を醸造しようとするスポーツ・ジャーナリストやスポーツ・ライターは、もう一回自分を顧みたほうがいいと思う。

山本:ライターの方も来てると思うので。傷つかないように(笑)。

小笠原:いや、僕もわりと買ってますよ。感動もしますよ(笑)。

伊藤:時間も少なくなっているので、手短に言いますが、ネオリベの資本がこれからどう回転していくのかという問題に目を向けたいですね。たしかにコロナ感染で企業が大きなダメージを受けたのは事実です。でも僕は楽観視できないと思う。先ほどもコメントしたけれど、惨事便乗型資本主義にしろ祝祭資本主義にしろ、いまの資本の特性は通常の安定している制度化された中で資本を蓄積する資本主義ではなく、従来の制度では対応できなような予測不能な事態が生じたところで柔軟に敏感に反応する。まさに危機だから、「国難」だから、という事態を演出して、規制緩和をおこない、これまでの制度を破壊して、より自由に資本が転回できる空間を組織していく。そこに新自由主義のもっとも重要な特性が現れる、ということです。これから、資本がどう展開するかはわからないけど、本間さんのお話を聞いて、電通が単に広告会社じゃない、ソリューション・カンパニーであるという話、つまりそれじゃないですか。先が読めない、先が見えないなかで、未来を現在に先取りして、先制的に戦略を立てて行動する。資本の側が、どんなソリューションでくるのか、10月以降にどんな姿を見せるか。まだわからないけれど、そこの資本のパワーは絶対無視できない。

視聴者のチャットコメント:
なぜ池江璃花子が、メディアコンテンツ化されるのか。
Ted Motohashiさんのチャットコメント
オガの言う通りです。そういう「vulnerable」なアスリートを応援しよう!
視聴者のチャットコメント:
スポーツと関係なくて恐縮ですが、関西での「万博」に対しても、反オリンピックと同じように(つなげて)、批判的視線を向けていくことも必要なのではないでしょうか。
「コロナ」がどう影響するかわからないし、「大阪」や「維新」といった別の要因もあるだろうけど、「コロナからの復興」、「新たな資本主義の論理」(?)を掲げるとしたら「万博」なのでは、とも感じます。
Ted Motohashiさんのチャットコメント
そのとおりですね。東京のオリンピックがだめなら、大阪の万博でリベンジしよう、ということでしょう。
視聴者のチャットコメント:
そもそもスポーツの祭典が国難の克服になるのか判らない。ブルーインパルスが東京上空を飛ぶのと同じくらい理解出来ない。numberを買うくらいならエルゴラ買う。

山本:電通という存在がスポーツイベントをある程度動かしていることを知っているのに、誰もそこに触れないままにきた。メディア研究者やスポーツの研究者も触れないままにきた。トークの最初に本間さんがおっしゃっていましたが、電通というのは、実態が見えないもので、まるで裏組織としてあるんじゃないかというような。見えない、怖い存在としてあって。でもメディア研究も広告研究もスポーツ研究も電通を批判する論文をそれほど書いてこなかった。

【そもそも電通って】
伊藤:というかまず電通そのものがデータを出さないし、ガードがかたいから本間さんのような方じゃないとつかめない。ほとんどできないわけですよ。電通の研究というのは。それをどうするかが今後の課題だけど難しいでしょうね。

本間:難しいと思いますね。どうしても中にいた人間でないと、1つ1つの仕事がどうまわってるかっていうのはイメージがつかみにくい。それを電通の社員が、電通をやめた人たちが教えてくれるかっていうと、電通をやめた人間はやっぱり広告業界で生きているので、電通を辞めたからといって、いきなり電通批判する人ってほとんどいない。特に電通の場合、面倒見の凄くいい会社で、退職金もたくさんもらえるので、皆さん中々口が固いですね。

小笠原:ジュリアン・アサンジやポール・スノーデンがいないとダメなんですかね?

本間:そういう人はそもそも電通に入りませんけどね。僕もいくつかの大学で、このオリンピックの話とか国民投票で電通が果たす役割とかを各大学のメディア学部、メディア学科などで講演するのですが、もうみんなびっくりしますね。誰もそんな話きいたことない、電通はただTV CM作ってる会社だと思ってました、と言われます。そこで先生たちと話をすると、たしかにメディア学科っていうところの先生たちも、電通について話をするのは中々難しいんです、と異口同音におっしゃいますね。

小笠原:それは戦前に特務機関だったからですか? 

視聴者のチャットコメント:
そもそも電通はなぜそこまで肥大化して利権を得るようになったんでしょうか。
Ted Motohashiさんのチャットコメント:
今のBLM運動の盛り上がりはアスリートに率いられている側面があるので、それを現在の超差別的オリンピック批判にどうつなげられるか、が課題でしょうか?
Togo Tsukaharaさんのチャットコメント:
電通って、満州人脈です、歴史学から言うと。
大日本帝国の正当な末裔です。

小笠原:だって電通っていうのは、かつて大日本電報通信社ですからね。満州の特務情報業務を担っていた。そういう戦前のいろんなシステムが、戦後にも脈絡とつながっていて、21世紀を迎えていると。少し議論を広げないといけないけれど、オリンピックも戦前からつながってる国策、インフラ含め、そういう流れからはみださないまま64年開催があって2020年開催があるのかもしれない。もしかしたら中止になった1940年のオリンピックを招致しようとしたときのこともちゃんと調べていったら、結構同じ組織や同じ流れが3回のオリンピックでつながっているかもしれない。スポーツ史家はそういう研究をしていただきたいですね。潰れかかった宗教団体を持ち直させようとするんじゃなくて。

本間:ほんとそうですよね。あ、そうだこれいっておきたいと思ったんですが、電通って100年以上の歴史がある会社なんですよ。戦後は広告専業になったんですね。さっき言いましたけれど、電通ってもはや広告会社ではないと副社長や経営陣がそう言っていて、社員もみんなそう思っているから、四方八方に手を伸ばしてる訳です。
 で、その原理の大元はどこにあるかというと、やっぱりこれは、有名な吉田秀雄四代目社長がつくった電通の「鬼十則」なんですよね。戦後に成長して売上高一兆円を超えるような大企業、例えば松下や日立、ソニーやホンダなどには、必ず何か社訓や社是があるんですよ。嘘でもいいから、この業務を通じて国家国民に奉仕する、という社訓ですね。松下に代表されるような社訓が、必ずある。だけど、電通にはないんですよ、そうした社訓が。社訓とか社是ってものが一切ない。だからそういうものに囚われないんですね。そして、「鬼十則」には、国民に奉仕するとか、利益を還元するっていう言葉もまったく出てこない。だから別に今回の給付金の作業で国民の税金から過分に利益を上げても、悪いとは考えない。そういう思想が今もいきづいていて、社訓に変わるものがあるとすれば、「鬼十則」なんですよ。さっきコメント欄にも出てたけれど ひたすらとにかく稼げ、としか書いてないわけです。捕まえたら離すな、死んでも離すなと書いてあるけれど、そういう極めて特異な会社なんですよね。

山本:電通は、オリンピックを完全に捕まえているわけだから、新しい生活様式に適用したオリンピックをいずれつくりあげるつもりでいるんでしょうね。

本間:前例にはとらわれない、こっちがだめだったら新しいパターンをどうするか、常に考えている。古い考え方や伝統がって言われても、電通はそういうことに執着しないのです。伝統なんて、いくらでも新しいのを作ればいい、と考えるでしょうね。

視聴者のチャットコメント:
満鉄とか特務機関こそ「ソリューション産業」でしょ。
Ted Motohashiさんのチャットコメント:
なるほど徹底した個人主義と、徹底した植民地主義の結合ですか…。

山本:本間さんに来ていただいので、電通の話をたくさんお聞きしたいのですが。表に見えてこない組織だし、学者たちもメスを入れてこなかったから、これからはしっかり見ていかないといけなくて。ちゃんとウォッチングしていかないといけない。でもデータがでてこない。本丸はここにあるのに、なかなか介入できない。

本間:オリンピックという超国策を動かそうとするし、さらに給付金もやれる。そして私の他の本にも書いてますが、もし憲法改正のための国民投票やるとなれば、改憲派の一大キャンペーンを背負うことになる。多分これはもう、歴史上初めて1つの企業が、1つの国の憲法を変えてしまうかもしれない。それくらいの力を、実は電通は秘めているのです。ヨーロッパにもアメリカにもこんな企業は無いから、研究者のみなさんにはそういう視点でみてほしいのです。
 だからといって、あの会社が改憲を目指している訳ではありません。あそこはイデオロギーのかけらもない会社。電通が興味を示すのは、イデオロギーではなく、それを動かすお金ですね。そこにお金さえあれば、左でも右にでもついて行く。そういう存在であるっていうことを、研究者のみなさんには留意していただければという風に思いますね。

伊藤:イデオロギーとは無関係に、キャッチコピーですよね、なにがうけるかっていうことでしょう。優秀なコピーライターがいて、共感と支持を拡大するという。オリンピックといった国際レベルの話だけではなくて、地方の産業をいかに活性させるかといった自治体のプロジェクトやイベントにも電通は深く食い込んでいるわけですよね。国際機関から政府そして地方まで、ソリューション・カンパニーとして途方もないパワーで仕切っている。その力を無視できない。内部のデータがでないにしても、資本の運動に「広告会社」が関与しているか、今後の政治的課題にどう働いているか、本間さんの発言を聞いてますます「広告会社」のパワーを感じましたね。

【国難と共感】
山本:残り時間が少なくなってきました。このあたりで、まとめに入りたいと思います。まあ、議論は尽きないわけですが。サブタイトルにつけていた「国難に背を向け、共感に抗う」というスタンスが、最後に議論するポイントだと思うんですけども。このサブタイトルは、小笠原さんの提案だったんです。

小笠原:これしかなかったんです。

山本:コメントのなかにも、「共感」って言葉があったり、今日何度か「国難」って言葉でてきましたけど。ここ2つを絡めて小笠原さんいかがでしょうか?

小笠原:この程度のコピーライティング力では電通に雇ってはもらえないでしょうが、「国難」は自然にはやって来ない、「国難、国難」っていってるやつが「国難」を作っているっていう話なんです。「国難」乗り越えましょう、オリンピックが敢行できたら、それはポストコロナの証明であり、コロナを私たちが乗り越えたという証明になるんですよ、という先取りされた未来を言霊的に暗示しているのが、この言葉です。そのカラクリをちゃんと把握しようということです。「国難」なんてものはないんですよ。ないからこそ言葉の重みに注意しましょうっていう喚起をしたいという意味で、この言葉を使いました。
 それから「共感」はまさに小池百合子が言ったっていうのもあるし、〈共感=シンパシー〉っていうのはあらゆるところで機能するマジックワードですから。資本主義もそうですよね、借金と信用で始まるわけでしょう? 市場の上に借金と信用を置くシステムですから、「共感」が生まれていないと取引は始められない。アダム・スミスの慧眼ですよ、経済的なものと道徳的なものがいかに結びついているかを読み解いたのは。簡単に「共感」しないでっていうことです。
 両方の言葉ともに、いとも簡単にすっと咀嚼した気にならないでっていうことなんですよね。いくつかチャットに書き込みがあったんですけども、あの、なんていうのかな 電通ってすごく巨大だし、やっぱりあくまでも、日本の企業資本主義とグローバル資本主義の変化していく流れの中に電通を位置づけることが重要だと思いました。電通の実態がどうとか、内部の組織構造がどうってのも大事なんだけど、そういうことがなかなかうまく明らかにできないとなったら、日本の近代資本主義からグローバル資本主義への移行の過程でどういう機能を場面場面で果たしてきたかを分析したほうがいいのではないか。
 メディアの話もそうですが、一部の悪いやつが悪いことしてんだって話にしたら、その悪いやつの首をすりかえればいいのかって話で終わってしまう。ナチズムはヒトラーだけが作ったわけじゃないので。基本的なことだけれど、そっちにスコープを当てたほうがいいのではないかと。伊藤さんも随時指摘されているメディアっていうものの、なんていうのかな面倒臭さというか、それをシンプルに現すのが中立性と客観性、不偏不党とかでしょう? そんなものもう誰も信じてないのに、それを外しちゃうと制度として成り立たない。誰かが質問していたけれど、オリンピックのスポンサーである大新聞にオリンピックへの反対意見が載るっていうのは、それが中立で客観的だという証明に使えるからです。だってそうしないと、そのメディアが存在できないからなんですよ。

本間:うーんそうですね。共感をつくるっていうのは、広告の基本中の基本なんですね。オリンピックは、国民の熱い共感を呼び覚ますために、カネを使いまくって国民をひっぱっていく。3月24日の延期決定日まで、そういう広告宣伝をがんがんやりまくっていたわけですよ。だからアスリートも山のようにテレビに出まくってたしね。それっていうのも、実は広告会社にとっては完全に手法化されている。見ている人たちは一部しかみてないので気づかないんですけど、発信してる側はすごく緻密にタイムスケジュールをつくって発信しているのです。その技法が、次にどこでまた使われるのか。つまり先ほど、コロナ後のオリンピックがどうなるのかという話がありましたが、それも国民とか世界の人々の共感を得なければ開催できないので、今後はそれをどう作っていくかという手法が試されることになるでしょう。つまり、我々は日々試されているんだということを記憶していただいて、おかしいと思ったら声をあげるということを意識していかないといけないのではないでしょうか。

【コロナと脱領土化】
山本:伊藤さんいかがですか?

伊藤:はい。最後に一言。この間、オリンピックを真夏の東京でやることや、マラソンをあくまで東京でおこなうことに執着した人たちの発言を聞いて、我々も心配したし、多くのアスリート自身も心配だったと思う そういう流れからみたときに、スポーツと資本主義の、癒着関係というか、カップリングということに大きな問題があることに多くの人が気づく、重要な契機になったと思うんです その最たる現象がコロナですよ、たしかに。しかし、コロナ以前から、資本主義とスポーツの結びつきに、みんながおかしいと言い始めてる。ドゥルーズの言葉を使えば、スポーツのフィールドが資本主義によって領土化されている、それをもう一度壊して、脱領土化していくためにどういう道があるか、時間はかかるけど、みんながそのことを考え始めている。大きな転換に僕たちが直面しているということだと思う。脱領土化していく、その可能性はある。時間はかかるし一気にはいかないけど、スポーツを資本主義から解き放ち、瞬間的に発露されるのスポーツのプレーの凄さを体現するアスリート自身の喜びやそれに感動する僕たちの喜び、そういう場や空間をこれからあらたにつくっていく、チャンスの時期だともいえる。そういうことに思いを馳せて、コロナとオリンピックを考えたい。転換に向うよいチャンスになっている ということ。僕は最後にそんな希望を語りたいですね。

山本:脱領土化されている状態。今後スポーツがどこに向かうのか着地点が見えない。人びとも、アスリートも、IOCも、オリンピック信者も、各スポーツ組織も、企業も、いろんな勢力が再領土化に向けて動き出すでしょう。私たちは、この再領土化の手前にいるスポーツをどう考えるべきか。私が出した『ポスト・スポーツの時代』(岩波書店、2020年)のテーマは、この脱領土化、つまり前ー個体性の領野をどう再節合するのかというのがテーマなのですが、このあたりを含めて、あらためて議論できる機会を作りたいと思います。

 さて、いい時間になりましたけどもこのあたりで終幕にむかっていきたいのですけれども。ここで業務連絡ですね。「#ぽすけん」。これでみなさんよろしければtwitterとかFBとかでいろいろ感想なんかを書いていただけると嬉しいです。それから本日のアンケートもぜひお答えいただければと思います。ポス研には、若い学生や院生が絡んでいるんですけれども、ポストコロナ状況を見据えて新しい取り組みをやろうということで、「ポスト研究会」をやっています。今日で5回目でした。もしよろしければみなさんのご意見、ご感想をお聞きしながら、ポス研を続けていきたいと思っています。

 来週の企画ももう組まれているところです。画面共有がありました。第6弾は「コロナとオルタナライフ」という企画でトークイベントをやろうと思っています。真ん中にいる方が、渡辺尚幸さんといって日本のオルタナティブスポーツの、まぁそれこそ表に出てこない人ですけど、スノーボード文化を通じてオルタナティヴなライフや経済のあり方を創案している伝説のスノーボーダーです。もうひとりは、いつもポス研イベントの内容を細かく精密に速記してくれているスペシャルな能力をもっている諫山三武君です。彼がやっているzine「未知の駅」を紹介しながら、コロナ状況でどういうオルタナライフがあるのかっていうことを来週トークしようと思います。無料イベントとして来週は準備していますので、ぜひ興味のある方は遊びに来てください。

 今日は100人くらいの視聴者の方々に参加していただいたのかな。なかなかね、ここまで電通に切り込んだものはいままでなかったように思いますけども。新しい局面に入ってると思うんですよ。小笠原さんが言っていますが、「コロナというのを1つの条件として新しい政治がはじまっている」ということをしっかりと見ていかなきゃいけない、そんな過渡期に私たちは立っているというところなので、これからも継続してオリンピックを凝視していこうということで。このへんで番組を終わりにしたいと思います。
 本間龍さん、伊藤守さん、小笠原博毅さんに出演いただきました。どうもありがとうございました。

 また来週!

Ted Motohashiさんのチャットコメント:
小笠原先生、ウェブ『論座』を乗り越えて、次のは『朝日新聞』の本丸に乗り込んでください!
視聴者からのチャットコメント:
本国に逆流した特務機関?>電通
Ted Motohashiさんのチャットコメント:
借金と信用に支えられた資本主義から、信頼と可傷性を分有する社会の構想へ。
Ted Motohashiさんのチャットコメント:
creditは資本と金銭に頼り、trustは身体と言葉に支えられている。

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ポスト研究会
記事自体は無料公開ですが、もしサポートがあった場合は今後の研究活動にぜひ役立てさせていただきます。