人生いろいろ(自分史)
自分の人生を4万字以上かけて初めて棚卸ししました。
人生の記録としては、かつてないボリュームで振り返りました。
お付き合いいただける方はここから読み進めて下さい。
Let's 縁 Joy! ということで、人からは、ご縁の人だったり、
「何しているかわからない人」だったり、サザエさんに登場する「ノリスケおじさん」的に、どこにでも現れたり、最近では神社⛩️メタファーで、登場したり、他人から見たら、「明るく元気なデカいおじさん」と見えるだろうけど、ぶっちゃけどんな人生を歩んできたのかを赤裸々に、幼少期から、ビジネス遍歴について書いてみました。ちなみに、、不惑の年にこんなことしました。
不惑の年
「人生四十にして迷わず」不惑の年。facebook上で友人、知人、兄弟に、
ガラとはどんな人かをコメントをプレゼントしてほしいと求めた。
facebookの投稿のコメント欄は117人の人からのメッセージで埋まった。
その時のことを友達の越ヶ谷くんがまとめてくれた。ガラpedia。
ガラpediaに書かれたコメントのワードクラウド
さらに、どんな人物かガラpediaをchatGPTに要約して貰った。
【AI他己紹介】
五十嵐政貴(通称:ガラ)は群馬県前橋市出身のコネクションコーチで、人々を繋ぐ才能に長けています。彼のキャリアは多岐にわたり、主な職業は特定できませんが、人と人との間に架け橋を作ることで知られています。ガラは、利益を追求することなく、純粋に他者のために尽力することから、多くの人々に尊敬されています。友人たちは彼を、見返りを求めずにサポートを提供し、自然と人々を結びつける人物と評しています。
と、客観視はこれぐらいにして、主観で振り返ってみますね。
出自
1981年6月29日群馬県前橋市生まれ、
蟹座のA型。五十嵐家次男。3つ上に兄、3つ下に妹。3人兄弟の真ん中。
次男坊って写真の写り方がおちゃらけたり変顔らしい。
(深層心理的には違いを出したいと思うかららしい)何かの記事で見て、
調べてみると、「ミドルチャイルド症候群」なんてものもあるぐらい。
自分、これ、全部だいたい当てはまってるんだよなって思う。
私は典型的なミドルチャイルド。
人間は、社会的な生き物という。最小単位の社会である家族環境で、家族社会で育った自我はすごく性格に影響を受けるはず。そんな中思ってるのが、
人生通底して、「違い」(注意)を生み出したい性格。
・普通じゃ面白く無い
・他と同じじゃ面白く無い
・すぐ飽きちゃう
・新しいものが好き
家族の中の異端児
親父と兄貴を尊敬している。親父は、創業84年の会社に、50年以上勤めている(現在も定年を迎えたが、嘱託社員として週に何度か会社に行って相談役や会社の草むしりとかメンテしている)その会社の新卒1期生らしい。代替わりしているが、創業社長、今の会長が退くまでは、いてくれと言われているらしい。すごい頼られてる人材だなと思った。3つ上の兄貴は、幼少期いつもくっついていたが、私をよく迷子にさせた。小さい頃の私のディズニーランドの思い出は、最初のワールドバザー、アーケードで兄貴に置いてかれて、迷子になって泣いた。その後パーク内どこに行っても迷子の思い出しかないw。兄貴は何かに夢中になると私の面倒は見なかった。
そんな兄貴は、地元の高校を卒業して、工業系の大学の建築学科を出て、(なんとなく、じいちゃんが大工をやっていたからその辺もかんがえたのかな?)群馬の大手住宅メーカーで新卒から23年間、転職せずに働いている。営業で社長賞も何度も取るような家売りだ。(営業センスは高いらしい)実家の向かいに家を建てて、家族の近くに、住んでいてくれている。結婚は私より遅かったけど。
そして、昔は、ダメ兄貴でよく両親と喧嘩してたりしていたが、いまは近くに住んで一家の面倒を見ているような長男の鏡のように生きている。私は兄貴が群馬にいるから全国各地に住んだり、飛び回れている気がする。3つ下の妹も群馬の実家の近くに住んでいるので、地元を飛び出て長年東京に住んでいることや、海外と仕事をして外人の友達を群馬に連れてくるのは、兄弟で私ぐらいなもので、ある意味、家族の異端児として「おもしろい」存在として見られていると思う。
兄貴も妹も私を「自由」な存在だと認識しているのを聞いたことがある。母親に至っては地元群馬県を出て住んだこともなく、一人暮らしをしたこともない五十嵐家の長女。親父は婿養子に入った。そんなグンマーな家族。
きっと、私は家族に外から刺激を与える役回りを真ん中っ子としてになっている。
少年時代
弱虫、泣き虫、甘えん坊、すごく怖がり。女の子みたい。(今とは真逆w)
うちの娘も同じ特性を持っていて(女の子だけど)極度なシナリオを、妄想の世界観で作って怖がるタイプ。鬼が電話してくるアプリとか恐ろしいほど怖がった。ドラマで見た設定がそのまま現実世界に現れると思っている。その様を見ていて思う。
思い返せば、私自身相当な怖がりでビビリで、弱虫だったなぁと思い出す。
例えば、
・夜、口笛吹くと泥棒が入ってくる
・おへそを出していると雷様に取られる
・嘘つくと閻魔様に舌を引っこ抜かれる
・夜窓開けてると悪い子は天狗に攫われる
とか、親や爺さん婆さんが言っていた教育の為の迷信を本気で信じてビビっている子だった。みんなといる時は安心だけど、一人になったり、夜ベッドで寝れなかったり、途端に色々考えだして怖くて1人でパニクっていた。
(明日のために寝ないダメ出し、でも寝れないし、寝つきは悪く、少年時代の夜は長かった)とにかく一人で家にいるのが嫌いで、妖怪やお化けが出ると本気で信じてたから、同居していた祖父母と一緒に行動をしていた。学校から帰ってきたら、祖父母の部屋へ行きテレビを見る。爺さんのお茶のみ仲間への挨拶にも良く同行していた。特に話をするわけでもなく、近所のじいちゃんたちの話している話を聞いて、お茶菓子食って、大人のいる場にいることで安心感を得ていた。世代を超えて友達ができたり、誰とでも話せるのはそんな環境で育ったからかもしれない。
お茶のみ友達は、今でもビジネスでも何も関係ない60過ぎのおじさんとか、10歳、20歳離れていても可愛がってくれるおじさんが数人いる。
両親が共働きだったので、祖父母と一緒に家で放課後を過ごすことが多かった。友達と遊びいくことは少なかった。(怖がりだから出かけたりしなかった)※兄は、外ばかり出ていく性格。
家や、近所の老人たちと一緒にいたので、小さい頃「早く爺さんになって、のんびりしたいなぁ」って思っていた。そして、性格ものんびりになってしまったのかも。
じいちゃんがまだ若い時は、大工さんだったので、家の建て替え現場とか、連れてってもらって、木の匂いのする現場やおが屑があるような場所にいるのも好きだった。(今一番興味がある職業=大工)
3兄弟の中で、他の兄妹と一緒にどこかに行くというよりは、ある日は、父親の会社に自分だけ連れていかれるとか、母親と一緒に出かけるとか、自分は兄弟の中でも良く大人と行動していた気がする。
理由は、怖がりで、家にいたからというのと、両親が、真ん中っ子はいじけないように育てないと行けないと思っていたらしい。後から聞いたら、妹からしたら、私は兄弟の中でも特別扱いをされていたと感じていたようだ。
学生編(小学校〜高校)
小学校・中学校まで勉強をしたことがあまりなかった。というのも勉強を勉強と思った事がなかった。テストの点数は学校の授業を聞いていれば大体100点取れていたし、(話のわかる子だったのだと思う)塾に通い始めたのも兄が行ってたからなんとなく一緒に通いながら、成績は常に良い方だった。ちなみに、夏休みの宿題は、最終日にやる派閥の人でした。
運動や、習い事も同様に兄がやってた所に一緒について入ることが多くて、水泳、柔道、サッカー、習字、学習塾、兄は通っていたそろばんは、流石に時代じゃないと自分は選択しなかった。(未来志向)
中学の部活は、小学校の頃から入ってたサッカーチームの延長線上で友達も多かったサッカー部に入った。特に上手なわけでもなく、足も遅かったので、中の上ぐらいの実力。それでも体育はいつも「5」をもらえる。運動全般平均点以上はできる、運動能力は中の上ぐらいのレギュラーと補欠の間ぐらいのポジション。そんな中、唯一、認められた経験は、学校の代表として市の陸上競技会へ出場し、走り高跳びの選手として、県大会に出れた事ぐらい。市で2番目にはなったりしていた。
スポーツはできないわけではないけど、走るの嫌いで、足は遅かったし、とても上手というわけではなく、どんなスポーツもモブ選手ぐらいにはいつもなれる。
自分の実力がわかっていたので、将来の夢に、当時はJリーグ発足当初。
みんなの夢は、「サッカー選手」であったのだが、私は(のサポーター)と半ば諦めの夢を綴っていた記憶がある。(コーチ業の予言か?)
高校受験
小学校・中学校と、成績も良かったし、学校を一度も休まない強い体で、皆勤賞ももらい、内申点も良かったので、高校は、推薦入学で県内でも2番目に偏差値の高い高校に推薦入試面接だけで合格できた。高校受験を早々に終えた。当時の面接で聞かれた将来の夢は、「商人」。中学時代アパレルやファッションが好き(90年代スニーカーブーム)で、ビジネスというよりか、何か店舗とかで商売をしたいと漠然と思っていた。
親や塾の先生が進める受験を選択して、家から近い県内1番の偏差値の有名学校にチャレンジしなかった。推薦入試でいけるならそれの方が楽だし、受験落ちたら嫌だなと頑張らなかった自分がいた。(親や塾の先生には、もっと欲をだしなさい)と何度も言われた。
何よりも、自分への言い訳として、県内トップの男子校に行くか、県内2番目の共学の高校に行くかでは、高校生生活の華やかさが全然違うと思っていた、男女共学の高校に推薦入試で入れたならそれが楽と思っていた。今振り返ると、良い学校ってそれなりに良いコネクションができるので、受験を選択した自分がいたら地元アセット使えたかもと思えている。
身長について
小学校卒業時には、身長は156cmほどで、背の順並びで仲の良かった前後3人の中で誰が一番先に160cmを超えるかなんて話をしていた記憶がある。
結果、一番伸びたのは私で、中学を卒業する頃には179cmになっていた。
制服がぴちぴち卒業写真が目立つ。
楽を選ぶ性格
受験勉強も回避して、強い目標設定があったわけではないので、努力や根性で何かを成し遂げたといったものが特にない、普通にやっていればできることが多かった学生時代。ヤングは私は、とにかく、「楽」(「楽しい」も含め)を選択する性格だった。と同時に、将来どうするとか、未来を描くのが嫌いというのもあった。(今と真逆w)
今が楽しければ、将来とか考えなくてもいいよね見たいなヤツ。
ライバル視される
自分的には、敵は作りたくないし、のらりくらりやってる性格なのだが、なぜか昔から、いろんな場面で、ライバル視して絡んでくる奴が現れて、勝ち負けをつけてくる連中が周りに現れる感じだった。私は勝負とか好きではない。勝ってもなんだか恨まれそうだし、負けても悔しいだけだし。(競争心は特に強く持たなかった)
私が唯一ライバル視していたのは、歳が3つ上の兄貴だった。学業は余裕で私の方がいい成績なのだが、運動とか同じチームではしたことないけど、兄貴も初心者で高校でバレーボールを始めて、たまたま兄の高校バレー部との練習試合で兄の後輩に、「お兄ちゃんよりバレーボール上手」と言われ、その時はとても嬉しかったという感情があった。そんな兄貴は、私の40歳の時の誕生日に、私への印象をメッセージ貰った企画で、「政貴は小さい頃から好きなことして生きてるヤツ」と言葉をプレゼントしてくれた。
モテたい欲求が今もある。
記憶が曖昧で当事者が読んだら本当だったのかどう思うかもわからないぐらいな記憶だけど、幼稚園から小学校時代は、女子にモテていたような気がする。小学生から特定の好きな子はいたけど、恥ずかしがり屋だし片思いだった。でも他の女子に告白されたり、追われていた。ある時、女子から手紙をもらっても、恥ずかしい気持ちで、好きでいてくれることは嬉しかったが、照れ隠しで川にもらった手紙を捨てて、嫌われたりした。(自爆)
当時ずっと好きだった女の子の手紙が上履きの中に入ってたのに気づかず、見つけたのが午後で、昼休みに、校舎の⚪︎⚪︎⚪︎に来てみたいな内容をすっぽかして、側近の女の子連中に批難されたり(自爆)
後輩女子からチョコレート貰う貰わないの場面で、恥ずかしくて貰いたくないから帰ろうとしたら、友達に囲まれたり。(自爆)恋愛はあまり成就せず。それゆえモテたい行動やモテていたと思うのだが、自分の希望が成就することは特になかったので、常にまだまだモテていたい願望がある。
真ん中っこは承認欲求も強いので、今もモテていたい。最近は、モテって言葉も当時の感情からはアップデートされていて、男女共に使う言葉になってきたなと感じる。ビジネスでもモテたいし、モテポジションを狙いたい。
スニーカーとデニムと広末涼子
今でも続く、スニーカー好きの原点は、中学1年生の時から。中学の指定運動靴は、シグマΣのマークのついた白い運動靴。みんなと同じでペラペラでダサかった。学年があがるにつれワンポイントぐらいの柄は許されていた。そんな中、ダサい指定靴よりもめちゃくちゃクールなカッコいい靴を見つけた。その名も、「adidas superstar」黒い3本線が描かれたシェルトゥーで有名なモデル。
これをどうしても学校に履いていきたくて、親にお願いして買ってもらった。そこから、Σじゃなくて、スーパースターが周りの友達にも流行り始めた。当時は、90年代スニーカーブーム、「Boon」という原宿系雑誌が大好きで、毎月買っていた。90年代ハイテクスニーカー、リーバイスの復刻ジーンズ、古着、アメカジブームの中、特に、スニーカーとデニムが好きで、お小遣いを貯めて、「エアマックス95(赤)」を千葉のスポーツショップに公衆電話から電話をかけて、(ECサイトなどない時代)取り寄せしてゲットしていた。
デニムも、リーバイスの年代別モデルの中で、60年代の細身モデルが好きで、当時国産のレプリカジーンズのドゥニームというブランドを生のデニムから色落ちをつけるため砂利の上でゴロゴロしたり、履いたままお風呂に入り、軽石で擦ったりしながら色落ちや、ヒゲと呼ばれるシワを作ることに命をかけていた。(周りで興味を持ってる奴誰もいなかった)ついでに、Boonによく登場していた「広末涼子」が大好きで、ヤングジャンプでテレホンカードを応募したり、初めてアイドルの写真集を買ったりなんかしていた。ラジオも聴いていたな。青春。Docomoのポケベルを買うと広末グッズをもらえてそれを高校生の時に使っていたら同じ「広末好き」の友達ができた。
私の青春は、スニーカーとデニムと広末涼子でした。
新しい事・モノが好き。
「素人ポジション学習モード」がいつでも楽しい。
高校生の時に始めたバレーボールは楽しかった。小学3年生から中学生まで
ずっとサッカーをやっていたが、技術がないし足も遅かったので、高校は違うスポーツ。特に、男女同じ空間で部活動をする体育館競技への憧れもあり、バスケか、バレーボールをやろうと思っていた。
兄貴の影響もあり、バレーボール部を選んだ。初心者でバレーボールを初めて、身長も伸び盛りだったので、すぐに活躍することはできた。
スラムダンクの桜木花道ばりに、吸収力は抜群で部活終わった後も、体育館に残って、できるようになるまで夜遅くまで練習したりしていた。
素人で入って活躍できるというポジションが好きで、身長のせいか期待をかけてくれる先輩にも可愛がられて、部活はとても楽しかった。先輩が卒業して、ただ楽しい学習時期が過ぎた後、「幽霊部員」期間が一定あった。その後、戻り一応3年間はバレーボール部員を続けた。ポジションはセンターで特技はブロックです。当時の身長183cm
高校の雰囲気が嫌い
楽を選んで、高校受験を回避して、推薦で入れた高校。しかも学区が遠くにあったので、周りは知らない中学校の奴らだらけ、県下2番目の偏差値の学校だったので、私の主観だが、なんか雰囲気中途半端な優等生が目立つ学校だった。つまり、尖った奴がいない学校だった。そんな雰囲気が漂う中、学校に友人があまりできなかった。他の高校へ行った同じ中学の仲間とばかり遊んでいた。
同じ学校の友達は、バレーボール部の一味か、幽霊部員の時に家にいりびたってた学校の近所の同級生ぐらいだった。学校の優等生たちがあまり好きではなく、実際、全学年見渡しても不良と呼べるやつは1人、2人しかいなかった。他の学校はもっといてもいいはずだが、中途半端な優等生の集まりと一緒にいるのは楽しくなかった。
大学受験
どんな大学に行こうか?東京の大学に進学したいと思っていた。ファッションが好きで、原宿や渋谷に大きな憧れを持っていた田舎のグンマーだった。
趣味のスニーカーは中学から好きで、レアモノを意地でも手に入れていた。そんな渋谷区への憧れから、漠然と、渋谷と表参道に近い青山学院大学に惹かれ、青学に入りたいと思い第一志望にしていた。(3,4年のキャンパスの位置だけで)受験シーズン宿を渋谷に取っていて、ワクワクが止まらなかった。勉強どころでなく、渋谷を彷徨いていた。
「大学生になって渋谷で遊びまくる」というライフスタイルに憧れが強く。
青学には、合格しなかったものの、次に受かった大学の中で、渋谷のライフスタイルが実現できそうな、渋谷近所の「駒沢大学」へと進学を決めた。
夢の「商人」を実現するため、経営学部経営学科に入り、怠惰なキャンパスライフを送る。(後に書く)
アルバイト
住んでたアパートの近所(東京都世田谷区)で、人生初のアルバイトを探した。面接は2箇所して、より家に近かった1件目の某大手チェーンイタリアンレストランは、「髪の毛を黒く染め直してくるのなら合格」言われたので、いくのをやめた。もう一件は家から少し離れたところにあったTVでもよく名前が出てきたり、芸能人が御用達の焼肉店「叙々苑」馬事公園店。
こっちの面接は、飄々とした店長が、髪型とか別に気にしないようだったので、面接はすぐ受かった。高級店だからより厳しいのかなとも思ったけど。私は、大学生の頃、髪型がよく変わっていて、まず、大きな頭に憧れて、パーマでアフロヘアになりたいと世田谷の美容室の担当の方(いまでも仲良し)にお願いして、一時期アフロヘアーのような頭をしていた。20歳の成人式は5厘の坊主頭だった。成人式の写真はなぜか、出兵する日本兵みたいな写真。そこから、HIPHOPに憧れて坊主頭にラインを入れていた。それでもアフロは潰してベートーベンみたいな髪型で、坊主のラインも問題なかった。この叙々苑のホールのアルバイトは、賄い付きで、忙しい時は忙しかったけど、TVでよく見る芸能人も頻繁にきていたし、途中BSEで焼肉店に人が全然来なくなった時期に暇で、ほぼ掃除をしていた思い出も含めて色々なことを学ばせてもらった。朝4時までやってるお店だったので、朝まで働いて、賄い食って帰って、6時に寝るみたいな、夜型生活バイトで、大学に通わなくなったと言ったら言い訳ですが、大学1年生の時は何をしていたかと聞かれるとほぼ、アルバイトでした。バイト仲間と良くお店で飲んだりしていた。
ブランドって強い
叙々苑のバイトで学んだことの一つに、演出やブランドって価格を上げるということ、お皿に乗った当時1200円のカルビを、君たちは2500円に見せてサーブするんだよ。って教わった気がする(誰にだろ?)そして、付加価値というものが値段を上げるということも知った。
昔の焼肉は、銀の皿にどかっとタレにつけたお肉が並び、見た目は良いものではなかった、叙々苑のお皿には、食用の花や、笹の葉っぱや、野菜が彩られて、白いお皿に「絵を描く」ようにお肉が並べられているのだという。
銀の皿の上の肉600円→叙々苑の盛り付けで2500円と、手間をかけて肉を精肉して、お皿に並べるだけで、値段が3倍以上変わるということを知った。叙々苑が名前が売れ始めたのが、創業店舗の六本木店で、無料の布エプロンと食後のアイスクリームが無料で付いてくるというサービスが、女性受けして、且つ朝までやってる事が夜のお店の女性とその一緒に行く人たちのニーズを捉えて焼肉屋さんに人が並ぶようになり、焼肉叙々苑が人気のブランドとなり、バブル期、六本木界隈の人たちが芸能人も含めてこぞって行く人気店になったという話を(誰かから)聞いた。バブル当時レジが間に合わなくて、段ボールにお札が溢れかえっていたという話も聞いた(誰から聞いたのか覚えてない)
当時、A4とかA5ランクの牛のお肉というものが流通量が少なく、(お肉にランクがあるのも初めて知ったけど)その希少なお肉を安定的に仕入れる事ができて、叙々苑に行けば、常に食べられるという期待値も、ブランドにつながっていったのだという。A5のお肉を出すお店もチラホラあったけど、「叙々苑に行っておけば間違いない」ってブランドを築く商売がまさに、見栄っ張りの芸能人御用達の焼肉屋のポジションを取っていたんだと思う。確かに、予約帳をとる時、「高橋さま」だけではなく、「高橋⚪︎⚪︎」とか。苗字だけで予約でなく、下の名前も言ってきて、有名人の予約を取ることも多かった。20年以上前のアルバイトで、当時群馬から出てきたての自分にとっては、芸能人の予約が入ってみれるとちょっとウキウキしていた。
バイト仲間
アルバイトの場所はアパートの近所で、駒沢大学の近くだったけど、世田谷の東京農業大学の目の前にあったこともあり、農大生が多かった。そして、東京農大のグンマーの先輩や後輩が多かった。(農大二校という高校が群馬にあるからだろう)同世代のバイト仲間や先輩とは仲が良く、同じ大学の仲間よりも良く一緒にいた。バイトの賄いでほぼ食費はかからなかった、良くバイト仲間の家に入り浸って飲んでいた。先輩も学校よりもバイトの先輩に可愛がってもらっていた。というのもあり、自分の大学に行くことは少なく、バイト中心の生活を送っていた。4年間同じアルバイトをしていたこともあり、先輩や社員さんにも可愛がってもらい、4年間での世代交代や、後輩指導やバイト仲間が社員になっていったり、私自身社員にスカウトされたり、プチ社会を経験した。
バイトの役割的には、キッチンとホールの間に立つ司令塔(センターと呼ばれていた)みたいな所が好きだった。情報を捌くのが好きだったので、忙しいと揉める事が多いポジションだが、自分はうまいことやれていた気がする。ここでも人の間に立つのが好きだったのだと書いてて気づく。
そんなこんなで、渋谷で遊ぶライフスタイルに憧れて上京した大学生活は、叙々苑馬事公園店のアルバイトを中心とした、世田谷で昼夜過ごすのライフスタイルに変わっていった。
大学生編・就活編
大学3年生になり、就職活動をするにあたり一番に考えたのは、
「さっさと就職活動を終わらせる」(終わらせなきゃ)
なぜなら私は、大学生の時、単位がほぼなかった。
1年生の時に、初めての一人暮らし、元々グータラめんどくさがり家の性格か
ら、大学に通うのが億劫になって、テストに日程すらも知らないでいた。
履修も何を取ったらいいのか集団ガイダンスもサボったので。未知だらけの
大学生活(高校までって機会やアナウンスって平等だったけど、大学生ってしっかりしなきゃと後々気づく)大学生は自立しないとな。
過去「めんどくさい」を言いすぎて、一度母親に「めんどくさい」禁止令を出されたことがある。(親の言うことはちゃんと聞くタイプ)
1年生時で40〜44単位ぐらい取る他の学生に比べて、私は、たったの22単位しか取れてなかった。(いやむしろ取れていてラッキー)
25単位以下の人が教室に集められて、来年の履修計画を立てるという補講もちゃんと受けた。
しかし、2年生になって取れた単位は、さらに減って18単位。
22+18=40 これは、1年生で取れる単位数。2年かかって40単位。
卒業には、記憶では、126単位ぐらい取得する必要があった。
他の友人知人は、3年次で120単位ぐらい取り終えてて、あと必修みたいな授業をとりながら、4年次は就職活動に専念する。みたいなのが一般的な日本の大学生の履修計画。私には、4年時に就職活動に専念する時間がなかった。こうなったのも自分の怠慢のせいなので、一念発起して、3年、4年次にフル単を取る(取れる分全部取る)という履修計画でないと、単位不足で卒業ができない状態でした。
そんな事もあり就職活動の軸は、「さっさと終わらせて」学校の単位を取る。卒業がまず目の前のゴールだった。それしか見えてなかった。
卒業必要単位を取るために、毎日学校へ行って単位を取る。
「損して得取れ」が、その当時の私のスローガン。この2年間が、
後々の自分の興味関心分野を広げた経験となった。
学校へ毎日行くことを考えた時、今までなぜ行かなかったのか?を思い返し、行った時もあったけど、授業と授業の合間の時間で、待つのがめんどくさくなって帰っていたというのがあった。
帰らないで学校に残る方法を考えた。
・友人を作る(友と過ごす)
・ゲームをする
・本、漫画を読む
色々考えてみた。友人はもう就職活動で学校へ来ない→それだと自分も帰る。が容易に想像できたので、
ゲームを持っていく、本を読むを実践してみた。ゲームはすぐ飽きた。
学校の近くある本屋さんで、経営学部的に興味がある本を手に取り(しかもなるべく分厚め)授業が始まるまで、時間をかけて読むことを学校にいる時間に取り入れた。
その時に出たった本が、「ゲーム理論」の本や「ポストモダンマーケティング」「7つの習慣」あと「奇跡の経営」って本も好きだったな。
経営学部にいて、授業でそのことが少しでも触れる時間があると、授業が面白くなって行った。何よりも、本から学ぶって事が好きになった。
就職活動編
初めての就職活動。リクナビに登録して、それなりに、業界分析や、自己分析をする。
自己分析する途中。
「好きなものはなんですか?」 A:いっぱいある
「嫌いなものはなんですか?」 A:納豆とバナナ大嫌い
嫌いなものの方が明確。
仕事って、社会の一員になり、社会を作る上で、より良い世界を作るためにするのであれば、自分が頑張って、自分の嫌いなものをアップデートさせていけばいいんだ!と思った。
ところで、社会を見渡した時に、何が嫌いか。
当時、合コンを毎週のようにしていたので、出会いが多かった。
好きなタイプの女の子はたくさんいる
嫌いなタイプの女の子は、、、、、ブス(世間的に良くないかもですが、このブスの定義も学んだり今ではアップデートされています)
「世の中からブスを無くす職業?」
化粧品とか、エステとか、美容室とか?美容の業界なのかな?
よし、美容業界に業界を絞ろう。
業界地図とかで、美容業界を調べる。。。
日本の美容業界を眺めてみると、
資生堂、コーセー、花王、、、、
世界の美容業界を眺めてみると、
ロレアル、P&G、ユニリーバ、、、
なるほど、テレビCMとかでよくやってるなという認識。
綺麗な女性をCMに使ってる印象。
とりあえず、1DAYインターンシップ (P&G、花王に参加してみた)
企画系のインターンシップだったような気がする。集合でのディスカッション先に進める選考には落ちた。まだまだひよっこ。でも楽しかった。
色々調べてみると、
どうやら、美容業界=マーケティングの強い会社。
今思うと、P&Gなんて、世界最強のマーケティング企業やし、
制度品というデパートとかで売られているよくみる化粧品は、マーケティングの予算の大きい会社のものばかりだった。テレビCMとかもよく見る。
美容業界=マーケティングの専門性の高い会社が多いということを知る。
狙うは、P&G (グローバルだし、かっこいいし)
リクナビ?マイナビ?で美容業界で絞って、とりあえず説明会参加して、、
とにかく早く一社でも内定を貰う。をミッションに、就職活動。
大手の選考はその頃、5月GW明けから一斉解禁の説明会だっった。(これが最大のネック、学校行かねばならない自分は、春休み中の説明会しか行けない)ということで、大手は諦めて、早々に募集開始している企業で就職活動。
(その当時浅はかにも思っていた)きっと、◯◯業界で活躍すれば、ヘッドハンティングとかでいきたい会社には転職できるでしょ。的な考えで、業界固定すればどこでもいいかって思っていた。
就職活動は、あれよあれよと最終面接まで進んで行った美容業界のとある企業に内定を貰えた。
創業25年の美容総合商社兼、メーカー&その他事業。の中小企業。
(毎年のBWJ(美容の展示会)で、でかいブースを構える美容のニッチな業界での知られた企業だった)勤めてみてわかったのだが、美容は美容でもこの美容のニッチな業界ってのがエステ商材の業界だった。
内定者アルバイトで、綺麗な人事のお姉さんもいて気に入っていたし。
そこに就職することに決めた。(美容業界ならどこでもいっか)
確かに、エステも美容だよな。
ただ、田舎の学生でエステなんてものは親も使わず、全然知らない業界。
新卒入社で同期が16名ぐらい。(人事目線を持った、今考えると結構拡大期のフェーズ?だったのね)新規事業もチラホラ立ち上げてたし。レストランとか、従業員の男性女性比率、半分半分ぐらいだった、入社して1ヶ月ぐらい全員が座学で、美容理論、皮膚理論や、毛髪理論を学ぶ。(新鮮ですぐ使えるような知識で楽しかった)学校の授業とは違うけど面白かった。
化粧品の種類も学んだ。スキンケア商材とメイクアップ商材が違うとか。男性の自分には全部一色単に見えていた。
女性の美に対するマーケットってやはり大きいしアイテムも多いということを知った。女性の方が生活必需品が多い。
大学の講義で、これからは「社会に女性が進出してくる」(いつの時代やねんw)と聞いて、ますます、女性対象のマーケットって拡大するし、日本の化粧品ブランドは、2003年当初これからますますグローバルに伸びてくる、特に中国に人気を得ていると聞いた節もあったので、
やはり、美容の業界で素晴らしいマーケターになれば!
「ブスをこの世からいなくならせることができる」と野心を燃やした。
社会人編
仕事編
テーマを決めるのが好きだった。
「他力を絶って、自力を引き出す」
背水の陣で頑張るって意味だろうけど、どこかで聞いたこの言葉が好きで、社会人になった1年目は、チャレンジの年にしようと、大阪支社に配属の希望を出した。大阪現地採用でもないのに、東京から転勤は珍しかった。
就職活動を通して、感じたこと、関西出身の奴らなんか、アピール上手いぞ、これが噂の「商人魂」というものか?
それならば、自分には足りないと感じていた「商人魂」を知りたい。と
大阪で営業職をしてみたいと思ったのだ。
運良く、大阪支社には当時営業ナンバーワンの先輩がいた。そして新卒としてそのチームに配属が叶った。その人から仕事の仕方や、お客さんとのコミュニケーションの取り方を学んだ。先輩の手助けもあり、良い成績を残せた。基本は、地域を任されてその地域のエステサロンや美容卸業者へのルートセールス。私が任されたのが、先輩から引き継いだ、四国エリア。大阪支社のテリトリー4つ(四国・奈良・和歌山・中国地方・北陸地方)のうちの1つ。マーケ部から100件以上エステサロンや美容卸売の会社のリストを授かり、毎月四国の既存得意先にアポイントを取り、新しい商品の紹介やリピート商材の注文も貰いに行くと同時に、新規取引先の開拓を任された。既存を中心にアポイントを取り、空いてる時間で新規開拓で「飛び込み営業」をする。
飛び込み営業
私は好きだった。最初はすごーーーく緊張したし、怖かった覚えがある。 特に四国みたいな田舎でなく、大阪で飛び込み営業をした時、エステサロンにノックして、奥から人が出てくるのがわかるすりガラスの扉を前に、怖くて逃げたこともある。お店にいなかったら名刺にメッセージを残してまた次回にノックする理由にしたり。何を話したらいいかもわからないから、エステのオーナーにビビっていた。が「商人魂」を知りたくて頑張った。(本当の商人魂は、また違う機会に知ることになる)
四国の田舎で新しくホットペッパーに載ってるエステサロンへ飛び込みする時などは、「大阪から来ましたー」って、田舎の人は遠くから来る人に親切にしてくれるからとても良い対応をしてくれた。大阪からフリーペーパーの(当時全盛期だった分厚いホットペッパー(無料))を持っていくと、大阪のトレンドが知れると四国の人たちには喜ばれた。ネットがない時代の情報源として重宝してくれたのだろう。田舎のエステサロンのオーナーにはすごく可愛がられた、出張で泊まりで現地のホテルに泊まるので、夕食とか連れてってもらったり、四国4県(徳島、香川、愛媛、高知)にとても良い思い出がある。特に高知県は楽しかった、私は坂本龍馬と広末涼子が好きだったので、高知県は特別な土地だった、「7つの習慣」に、ミッションステートメントは、自分の気分が上がる土地で作りなさいと書いてあったので、高知県の桂浜で仕事をサボって当時のミッションステートメントを作った記憶がある。桂浜で海を眺めながら、昔の日本を思ったり、未来を思ったりするのが好きだったので、良く通っていた。(高知県は取引先が4国で一番少ないのに)ある時、大阪の先輩からの電話で、桂浜にいるのがバレて、「お前業務中は行くな」と怒られた経験がある。夜に言っても海を見れないので朝早く起きて、通っていたこともある。(実は、妻にプロポーズしたのも桂浜)
それぐらい好きな景色で土地だった。坂本龍馬の話題で、現地の美容商材卸の社長さんにも気に入られて良く飲みに連れていってもらった。
大型OEM受注
四国には、老舗の大きなエステ企業がある、松山空港の近くの沿道にに自社ビルを建ててる有名な会社で、(バブルの時に相当手広くやったみたい)販売網も関西、四国、中国地方中心に一代帝国と言ってもいいほど影響力を持つ会社があった、当時、先輩から引き継いだリストで、愛媛県に行った時は、ルートセールスのリスト一社でほぼ休眠していた取引先だけど、顔を出していた。
ある時、その企業の社長さんにたまたま会えて、当時めちゃくちゃ豪華なそのビルの最上階の社長室に通してもらった。他のサロン営業とは全然違った雰囲気で、その時できる話を一生懸命お話をした経験がある。私のキャラクターを気に入ってくれた。その後飲み行ったっけな。
すると、後日、本社の社長にもアポイントが入って、社長と大阪支社長と私で、その松山のオーナー社長さんとの商談が決まった。そして、新卒1年目で担当したその企業から、美容機器のOEMの受注を取る事ができた。その売り上げは、新人では記録的で大型受注となった。(のちに色々あったけど)
私が提案したわけではないが、既存ルートセールスの延長で、取引のキッカケを作ったことをとても褒められた。(ただのラッキーパンチ)
後から思うと、販路の大きな会社からのOEM受注(美容系の商材の企画売り込み営業)が当時の会社の安定的な売り上げを占める構造だった。そのニーズを拾い、商品企画を練り、コスト安く製造できるか調整して、製品にして販売網に流す、1年目で上司の力も借りて、OEM受注をして、社内外のバリューチェーンに触れる仕事をできたことはとても勉強になった。(開発部長と販売部長の殴り合い寸前のの喧嘩も見かけたりw)本気の大人の仕事に触れた。
石の上にも3年
当時、就職活動で入社した会社に定年まで40年間働くという風潮が一般的。 でも私は、マーケティング力の強い美容企業に入り、業界で活躍して、P&Gにヘッドハンティングされるんだと思って会社に入社した。(新人当時は、目の前の仕事も楽しくて完全に忘れてたけど、)
後々、調べたら、P&Gは、中途採用をしていなく、ヘッドハンティング等、相当のキープレーヤーレベル、エグゼクティブとかじゃないとやっていない事実を知る。
2年目の大阪支社。金曜日だった、
東京から社長が出張で来ていた。男子トイレでタイミングよく?連れションになって、並んで用を足している時に、
「五十嵐、明日出社してこい」と言わた。(土曜日だから休みだったけど)
「月の未達を責められるのかな?」と思ってたけど、、、
会議室に呼ばれて、社長とMTG。大阪支社にいると営業が社長とMTGすることなんてなかった。「東京に⚪︎⚪︎しているチームがある」と、当時本社の仕事内容など売り上げ以外は届いていないので全然知らない部門の話を色々と説明してくれた。
「お前、そのチームのリーダーにならないか?」
要は「東京に戻って、⚪︎⚪︎部のリーダーをしてくれ」的な話の内容だった。
私としては青天の霹靂で、東京本社へ戻ってこいという、
俗にいう栄転の打診が来た。
抜擢人事で、新人の私が、当時⚪️⚪️部長が退いた後のチーム(同期も2名いた)のリーダーになるという話が舞い込んできた。
大阪支社にも1年後輩が配属されて、新チームになって、さあ、2年目がんばるぞっていうタイミング。
・大阪には最低3年はいる予定だった(良くわからない意味のない3年)
・商人魂を学ぶはずだった(結局何だったのかわからず)
・彼女と付き合ったばかりだった(ひとりぼっちの土地に彼女ができた)というのもあり、少し迷っていた。
当時、新卒入社の教育を請け負っていた先生(他部門の事業部長)とは、ちょこちょこ大阪からでも連絡を取っていた。この先生はいつも味方でいてくれて、新卒研修の時、私以外と私で意見が分かれた時、授業が終わった後、「教育研修としては賛成しないけど、個人的にはオッケーだった」と、人と違う意見を尊重してくれてとても可愛がってもらっていた。そして色々相談相手にもなってもらっていた。竹を割ったような性格でいつでもズバッと判断軸を教えてくれた。
「社長が来て、東京に戻ってこないか?」って言われたんですけど、、
大阪もこれからもうちょっとやる予定もあったのですが、、
大阪にのこるか、東京にいって全く違う事業をやるのか、
(もうほぼ決定だと思うけど、誰かに相談したくて)
と諸事情を相談すると、
「東京に来いって言われた時どう思った?」
「ワクワクしました」
「大阪にいたら今の延長線上で2年、3年でしょ」
「そしたら、考えててワクワクする方を選びなさい」
って会話だったと思う。家の近所の公園で電話で話をした記憶。
「ワクワクした方を選ぶ」今でも自分の判断基準な気がする。
そして、大阪に残っていたら2年目3年目で飽きていたのかもなとも感じた。ということで、2年目の6月に東京本社に戻ることになった。
新しい事業部
私がリーダーに任命されたのは、もともとあった化粧品の既存事業部を引き継ぐ形で、海外から仕入れた新商品を広める事業部で、三越や伊勢丹に店頭販売スペースとプチエステサロンを併設していた。本社メンバー6名(新卒同期、1年後輩の新卒2名、中途2名年上)と現場のアルバイトさんと一緒に、ドイツのドクターズコスメをどう広めて、売上を作るかというミッションの事業部だった。ただのエステサロン周りの飛び込み営業マンから、事業部を任され、P/Lを担い(全然ちんぷんかんぷんだった)メンバーマネジメントをするというもの。まじで意味不明だけど一生懸命だった。何をしていい本当に良くわからず、当時似たような事業体をしていた部長さんに話を聞きに行ってまるパクリしろと社長に言われて、いろいろ聞きに行っていた。模倣することから始まる。(そっちの事業部は会社内での好調で有名だった)違うブランドで同じ業態を再現しようとしていたんだとわかった。ただ違うのは、フランスの化粧品と、ドイツ&アメリカのドクターズコスメということ、ブランド商売に興味もあったし、化粧品のマーケティングをしたかった私に取っては、(今思うと)絶好の機会に恵まれていたんだな。結果を先に伝えるとこの事業部は、赤字のまま解体となり、その後会社自体も民事再生になって解体された。
ブランド商売
学生時代の叙々苑のアルバイトの学びもあり、ブランド商売はうまく行くととても儲かる。化粧品というものの産業構造がわかるといかに、「付加価値」で商売をしているのかがわかった。知っての通り?化粧品は、90%以上は水。水をどのように高く売るか?薬事法もにも詳しくなった(薬事部門のおじいちゃんとも仲良くなり色々教えてもらった、もう忘れたけど)薬事法にも「化粧品」「医薬部外品」「医薬品」と効果を出していい範囲が決められている。化粧品は、「肌を清潔に保つもの」という事。
効果が出てはいけない、清潔にした上で、自己治癒力や自分の皮膚再生の力で綺麗になる?というもの。さらに、化粧品の付加価値を高めるのが、流行りの成分や、新しい技術とお医者さんのエビデンス。(コエンザイムQ10とか、ナノとかピコとか)効果を出してはいけないものに、いろんな着色をして高価格帯に持って行ったりできる商売。そして何よりも重要なのが、誰が使っているか?たとえばCMのタレントさんや、雑誌のインタビューで、ビューティーアイコンが使ってると、自分もそんな気になるのか、売れる。
美しい女性が使ってるという事が、化粧品にとっては、原材料にも勝る売れる要素となる。(実際に商品原価にプロモーション費用が乗っている場合が多いと思う)そういう裏側を知って、商品を売るためのマーケティングとは、美容業界と相性が良いのだということを理解して行った。
売り方、見せ方、実績(誰が使ってるか)を認知させることで売上が上がっていく。とても面白いフィールドで商売をしていたんだなって今思うと感じる。ただ、前述の通り私の試行錯誤は上手くいかなかった。売り上げは一向に上がらない。伊勢丹のDMを送ると通常の倍以上の売り上げがあがる。それは伊勢丹のブランド力のおかげということも知った。恵比寿ガーデンプレイスの三越に来る人の商圏分析が複雑すぎて、出す施策は全部当たらない。
メンバーマネジメント
後輩に当たる新卒2名が2年目の自分の部下になった。1年しか変わらない社会人経験、語れるものは何もない。ただ新卒配置の事業部プレゼンで、「一番キラキラしていたので配属を希望した」と言われれたのを覚えている。まあ、若いし、現実を知らなかったからキラキラしていただろう。ただこの時の言葉はとても嬉しく感じて、いつでも仕事でキラキラしていたいと思う事にしている。
当時「キラキラしなくなったら言ってください」と言ってたほど。
本社勤務の6名は、同期の営業マン、ベテラン中途、新人2名とスペシャリスト1名と、多種多様。頼りの元部長は社内に入るけど、あまり手伝ってくれない。当時、東京の営業本部長に「もうお前の面倒は見ないからな」と(事業部違うからという意味)直接言われた。新規事業の領域だったので、ある程度の投資フェーズの事業部だったけど、売り上げは上げないといけない。アルバイトさんや新人メンバーを各店舗に配置して、一緒に頑張っていこうと企画出しや、本人たちの主体性を発揮してもらおうと、当時、流行っていた「すごい会議」を本で読んで、独学で事業部の会議に取り入れたり、大きなビジョンを示しながら試行錯誤していた。一人一人の役割を考えて、現場で動いてもらったが、途中、紆余曲折、人が辞める辞めない、誰が気に入らない誰が好きなど、めんどくさい事が多々起こっていた。私が大事な販売網である伊勢丹、三越との折衝を行い。(伊勢丹は伊勢丹ブランドでの商売をしているすごいビジネスモデルだということ等、多くを学んだ、そして、欠品=お客様の信頼を失う、ということをとても怒られた当時、海外コスメの仕入れと売り上げの木バランスを考えるのが一番難しかった、空輸にするとコスト嵩むし、船だと届くのが遅いし、欠品出してはいけないし、まじ難しかった)与えられたフィールドで、既存のビジネスモデルを真似しながら、店頭の企画や、PRの戦略や、新しい販路の開拓など、考えることはたくさんだった。店頭のプチエステでお客様を施術していたので、クレームをもらったこともある。そのお客様について、美容クリニックに同行して謝って、許してもらってという経験も大きな経験になった。その時学んだことは、目の前のことに怒ってる人は少ないということ、プライベートも含めて怒りはどこからくるかわからない。そしてそのお客さんは、プライベートの問題が解決したらとても良い顧客になってくれた。(昔にもっと、メタなマーケ視点と人の構造がわかる能力を持っていたらもっとたのしかったろうな)
会社が民事再生
美容商社兼メーカーとして過去ヒット商品もあり山梨と川崎に工場も所有し、創業25周年パーティーも船上で行い(後から聞いたけど苦肉の策) ニッチな業界では老舗で営業力も強く、有名だった中堅企業であった会社が、負債総額70億円規模の民事再生措置をとったという事を本社に集められた部長・リーダーへ告げられた。
民事再生法って法律を初めて知った。よくよく調べると倒産だ。
人が死に向かうように、会社はいつか倒産に向かって生まれている。その倒産がやってきた。新卒入社した会社が倒産。「会社って潰れるんだ」
まあまあ、ショッキングな事件だった。ただその頃、私は、この経験は、「損して得取れ」の経験じゃないかと思って、民事再生の会社ってどんな状態なのかを半分観察するように、(もうどうしょうもない状態だったので)仕事をしていた。自身の任された事業部は解体され、自分は、営業部の配属になり、主任も任されていた。ただ、民事再生になってからは、営業するこも特になく、納品の作業に、当時配送業者だった福山通運も使えなかったので、納品物をトラックに乗せて配送する仕事に始終追われていた。山梨の工場に機械をとりに行って、茨城県の水戸まで社用車で配送して納品してくる。そんな日もありました。
負け戦というか、生産的なことはできず、お客様を守ったり、信用を回復させたりの作業や、普段当たり前のように出入りしていた業者さんが利用できなくなったことで、業者さんの有り難さとか、勉強になった期間が1ヶ月ほど続いた。当時、民事再生だったので、客先も引き継ぎながら、引き受け会社が会社を継続することになった。
当時の大阪支社の支社長と、東京本社の本部長がそれぞれ、顧客を引き連れて独立するとなった事業会社に引き抜かれて行ったメンバーもいたが、なんだか私は、同じ事をするのも嫌で、次は何しようかなー?ぐらいな気持ちでいた。
ここから後半戦
最初の起業
新卒入社した会社で、さまざまなことを経験させてもらい、2年とちょっと勤めた会社は最後民事再生して、同期も各々事業継続の先に再就職して仕事が決まっていく中、私は今までと同じことをするのが嫌で、次の道を探していた。そんな時、大学時代の友人とミーティングする機会があった。
<その前に回想を一つ>
学生祭(学生団体の話)
そいつとは、大学の頃に頻繁に行っていた合コンで出会った。
同じ大学には同世代の友達が少なく、(前述した学校に行かなかったこともあり)友達がいなかったが、誰もが初めましての合コンという場所なら、誰とでもすぐ仲良くなれた。誘われたらひょいひょい行っていた。
そいつに誘われて、他の学校の生徒もいるサークルとは違う、学生団体というものがあることを知り、大学の施設を借りて飲み会?イベント的なものを何度か主催したり参加したりした。大学生でサークルにも属さず、アルバイトばかりしていて、学校すら通っていなかった私には、全然知らなかった世界だった。群馬から出てきた田舎者で、アルバイトに明け暮れ、大学生生活単位取得に必死でようやく学校に行き始めた頃の私は、この大学生の意識高い系の交流会が新鮮だった。他大学の学生も参加して、就活の情報交換や、価値観や近況などを話す飲み会は、刺激的な出会いが多かった。その中で、3年生で就活を終えたヤツもいれば、すでに同期入社が決まってる内定者同士で参加している面々もいた、(のち採用人事をやって知ったのだが、先行して年明け前とか、一斉解禁の前に就職活動に動く学生は、アンテナが早く優秀層が多い)私は、就活を早く終わらせないとで先行して動いていただけなのだが。それが良い方向に働き、いわゆる優秀層の大学生たちと良いタイミングで繋がれた。そして、その意識高い系の学生達と、触れ合うにつれて、自分も意識高い系になって行った。
内定をもらえた人しか参加できない「内定ナイト」という渋谷のクラブイベントをやったり、当時からみんな一律のリクルートスーツを着る就職活動がつまらないから学生目線でもっと面白くしようというイベントを企画した。「学生祭」という名前で、「就職活動➕お祭り」のコンセプトを立てて、当時月一で飲み会に集まっていた他校の学生仲間と、就活支援の学生団体をゆるく始めた。旗を立てて動いていると、仲間も集まったり、メンター的に関わってくれる社会人や企業の社長さんなども現れた。その方々の支援とか、渋谷の事務所をMTGスペースとして貸してくれたりしてくれる会社もあり、(本当はだめだけど、寝泊まりもそこでした)寒い夜は外から段ボールを持ってきて寝た自販機の前が暖かいということを知った経験もこの時だ。
今思うと、エフィカシー高く取り組んでいて、「学生1万人規模のイベントやるぞー」って、「就活の合同説明会を東京ドーム借り切って半面祭りで半面を企業説明会でお祭りやっちゃお」なんて、企画書を書いて、東京ドームにプレゼンに行って、「1日1億円です」って言われて、「学割聞きませんか?」と聞いてみたり、ドームがダメなら、ビックサイトだーって、「1日エッ3000万円?!安ッ?!!」って感じたり、無知な学生で、怖いもの知らずで無謀な行動をたくさんとっていた。学生団体として、企業へテレアポして、協賛、スポンサーを取りに行ったりビジネスの真似事みたいな事をやっていた。初めての経験だが、仲間たちもノリノリでとても面白かった。パワーポイントとか使った事なかったけど、プレゼン資料ってパワーポイントで作るらしいと聞き、PCをいじってみたり、学校ではやらなかった活動を学生団体を通してたくさんしてきた。社会人への準備や学びはこの時に蓄積されて行った。兎にも角にも開催日程だけ決めて集客と企画の実現に向けて動いて、「学生祭」は実施された。
・業界喫茶(業界内定者に就活相談できる)
・就活ファッションショー(その名の通り)
・基調講演(協賛企業の社長さん)
などを企画して小さいイベントも複数回実施した。
当時、浜松町にあった産業貿易センターのフロアは安く借りれた、小規模ではあるが、500名近い参加学生を集めたイベントができた。大学生活ほぼアルバイトしか思い出がない自分にとって、この学生イベントを立ち上げて実現できた思い出や一緒に企画実行した仲間は大切な友達になった。当時の4年生中心のメンバーだったので、内定先はバラバラ、就職をして散り散りになり、皆それぞれ社会人になって行った。
2年半ぶりのMTG
その時の学生団体の代表がのちに共同で会社を立ち上げるHで、副代表が私ともう一人だった。
そのHが、「ガラ、次やる事決まってないなら、もう起業しちゃわないか?」って、学生団体の頃のノリで言ってきた。それぞれ2年間就職活動で内定をもらって就職した会社で、社会人2年間を過ごして、仕事にも慣れてきた時期。会社が倒産して次に何しようか迷っていた私は、そいつからの提案で、起業することにした。社会に出て2年目だから24歳の頃だった。
起業の舞台は北海道札幌市
新卒で入社した会社が民事再生になり、次にやることが決まってなかった私は、学生の時に学生団体を一緒にやっていたHと、二人で起業をすることにした。学生団体の代表と副代表の関係の再来。Hは、浪人していたので一つ上の25歳。社長はHがやることになった。たった2人の会社。
場所は当時Hが勤めていた会社の支社があり、その時住んでいた北海道札幌市。Hは、採用支援の当時就活生には有名な、ベンチャー企業で働いていた2年目。期待もされていて札幌支社立ち上げのメンバーとして北海道にいた。Hから「とりあえず、遊びおいでよ」ってことで、北海道は生まれてこのかた行ったことがなかったので、人生で初の北海道に遊びに行った。
札幌市その地は、歓楽街だったので、血気盛んな私は1発で気に入った。
起業するにあたり、ビジネスプランを考えた。学生の時のノリと、根拠のない自信で、会社は順調に立ち上がると思っていた。
当時、Hが採用を支援していた先の会社が、IT商材の代理店を募集していたので、その商品を売って生計を立てようと考えていた。
幸い北海道だったので、生活コストは安かった。
ただ、その商材というのが、ガラケーのCMSガラケー専用のHPを作成するというソフトだった。(今でいうノーコードCMS)
商材は、在庫は持たなくてよくて、ノルマもなく契約が取れて売れたら売れただけバックマージンが発生する代理店事業、東京から来ていた(飛び込み営業が好きな私は)すぐ売れるだろうと思っていた。
しかし、そこは北海道、当時、ガラケー用のHPどころか、まだホームページを持っている企業や店舗すら少なかった。持ってるのは大手チェーン店の札幌支店とか店舗だけ、情報格差とリテラシー不足、ガラケー専用のCMSは、全然売れなかった。途中、苦肉の策で、ガラケーではなく、PC用のCMSを販売も始めたが、それも売れず、売れても仲良しの会社1社とかだった。売れなくても化粧品みたいに、在庫を抱えているわけではないので先出しの支出や倉庫代はなかったが、全然売り上げが立たず、予定通りにいかない。そんなジレンマの中。銀行主催の交流会や、経営者勉強会に参加すると、「人材採用を手伝ってほしい」というニーズはそこここから上がってきた。
・カニ販売の卸売業者だったり
・老舗印刷会社だったり
・工業用油卸商社だったり
・婦人服卸の会社だったり
札幌でも若手の採用に困っている企業はたくさんあった。社長であったHの専門領域での仕事を取れば食い繋いでいける。2名しかいない立ち上げたばかりの会社なので、背に腹は変えられず、採用のお手伝い、今で言うRPO事業をすることにした。Hの前職のノウハウとプレゼン力で、クライアントが増えた。なんとか2名は食っていける会社となったが、私は畑違いの仕事で、なんだかしっくり来ていなかった。今まで化粧品やエステ機器の物売る商売から、研修やオペレーションのコンサルティングや、BPOの商品を販売するというビジネスの違いでもあるあった気がする。そのしっくりきてなさでHと衝突することもあった。ただ餅は餅屋、Hの言ってることは業界のクライアントワークとしては正しかった。悔しい思いもたくさんした。
東京進出
札幌に住んでいたのは都合10ヵ月ぐらいだった気がする。法人設立から、会計事務所の手続き、銀行の手続き、オフィスは自宅マンション(代表と二人暮らし)すすきののドンつきのタワマン19階家賃は7万円ぐらい。と、会計事務所にバーチャルオフィスを構えてもらっていた。縁もゆかりもなかった土地北海道にご縁ができた。創業時に色々と面倒を見てくれた会計士さんの勉強会で出会った社長さんとか、お誘いいただいた経営塾とか右も左もわからない東京から来て起業した若造二人を可愛がってくれた。
事務員の女性も一人、さすがに三人一緒には住んでいなかったが、雇って、営業活動に集中できた。(その女性もすごい、今ではその後にジョインした創業時のメンバーの奥さんになっている)
東京渋谷には学生団体の頃から、お世話になっていた社長さんがいた。その社長さんのオフィスに机を1つ間借りしながら採用支援の事業で東京進出もした。
北海道と東京にクライアントができて、採用シーズンの多忙な時は東京にいて、説明会を開いたり、社内メンターの研修をしたり、商売が変わった途端会社の体裁をなしてきた。
創業時は私と社長のH2名だった会社も、東京進出の頃には、5名(全員取締役+事務女性1名)になっていった。メンバーは、学生団体で学生祭を企画して運営していた頃のメンバーが、それぞれの内定をもらった会社に就職して、3年目になる頃に、辞めてジョインしてきてくれた。
学生祭自体が就活支援で人事系のイベントだったのもあり、後からジョインしてくる取締役メンバー達も、人材大手の有名大手企業にそれぞれ入社して会社を辞めて、ジョインしてきたメンバー達だった。彼らはそれぞれの現場で活躍したエース級の若手人材になっていた。人事系の会社色が強くなり、相変わらず、採用コンサルのノウハウで、中小企業の新卒採用のお手伝いをしていた。私は、東京に戻り東京のクライアントを担当していたので、渋谷のオフィスで新規開拓をしていた。学生の時のノリの頼もしいメンバーで創業した会社は回っていた(東銀座に会社の寮として借りた部屋に男三人で住んでいた)
新卒採用
新卒採用支援の会社だったので、自社のノウハウで新卒採用はお手のものなので、創業1年目で新卒採用を始めていた。入社してくるのはリードタイムがあるから正確には2年目以降のタイミングだったが、この意思決定は、Hが社長じゃなかったら選択しなかったものだったと思う。(今でものこの会社は存続して事業をやっている、Hは、起業家の部類の人間だった)
今ならわかるが、エフィカシーだけで決断して動けるタイプの人間。
そのあたりに人も集まり、仕事も任せてもらえたのだと思うが、当時でも今でも私が社長をやっていたらその意思決定はできなかった。と感じる。
正直、新卒を抱える売り上げはなかったし、新卒で売り上げを作るノウハウも無く、なにも整っていない会社に入社してくる学生もいないだろうという状況の中、我々の会社は一瞬札幌市でエントリー数NO1の会社となった。
新卒採用のフローもお手のもので、応募してくれた学生から結果3名の内定者を出した。入社するのは11ヶ月後、それまでに会社の体裁を整えないといけない。そんなプレッシャーの中、経営をしていた。
そんな中、私は、脳卒中で倒れることになる。私の時は止まったまま。
会社は、札幌、東京、名古屋にクライアントを持ち、採用支援から世代交代、事業承継の幅までの経営課題を解決する企業になっていった。
病気編
脳卒中
渋谷オフィスに出社して働いていたある日。
ランチはお気に入りのカフェのカルボナーラ大盛りを食べて
オフィスに戻って、出張の準備をしていた最中、椅子から転げ落ちてぶっ倒れた。(らしい)記憶がないので後から聞いた話。
目が覚めたら、暗い病室で指に酸素を計るメーターを付けられてる状態。
ベットから見ると今の奥さん当時彼女が、「大丈夫?」と声をかけてくる。
何がなんだかわからない。
渋谷のオフィスでぶっ倒れて、救急車で東京ERの広尾病院に運ばれたベッドの上だった。というのが最低限確認できた事実。
状況がうまく飲み込めない、頭はぼーっとし続けたまま、点滴と、指の酸素系が煩わしかった。何もかも晴天の霹靂というか、さっきまで生きていた世界と違う現実にいるみたいに全てが意味不明だった。
夜深くなると、群馬の両親と兄貴も病院に来てことの重大さにリアリティが増してきた。
病院に運び込まれて、検査をしたら脳みそに腫瘍があったらしい。
そこが悪さして、ぶっ倒れた?のだという。
そのまま入院して様子を見ることになった。毎日点滴をして、脳みその影を散らす薬?なのかな?とても血管が痛い点滴。
「なんでこんな状態になっているんだ?」
あの当時は毎日毎日意味不明。病院にいることも意味不明。
意識もだんだんはっきりしてきて、脳の影の話を個室で聞いた事を覚えている。(今思い出しながら書いているが、当時の記憶が鮮明に蘇らないぐらい不明瞭な記憶)
とてもハキハキ喋る女医さんが、
「五十嵐さんの頭の中の影、薬を使っても散らないので、ちょっと頭に穴を開けて、細胞を採取して病理検査したい」との治療方針を聞かされた。
ちょっと頭に穴を開ける??その時の指の形は「チョコザップのマーク」ぐらいのちょっとだったはず。
後日、病院の地下にある床屋に行って、髪の毛全部剃ってお坊さんみたいになって、担当の女医から「あー、キレイキレイお月様みたい」って頭をなでられ、全身麻酔の手術をした。
手術室って本当にドラマで出てくるみたいな手術室だった。腕のルートに麻酔薬が注入されて、眠くなり、記憶が飛ぶ。目が覚めたら手術室から出て来ていて右の頭が腫れて自分の頭じゃないぐらいの感覚でそこにあり、寒気とよくわからない感情で、身体は弱って元気ではなかった。(オペ後だからね)頭は医療用ホチキスでブラックジャック状態。
ちょっと穴を開けて取る。という言葉は、大ごとな手術だった。9時間ぐらいオペ室に入って、両親も当時の彼女も気が気じゃなかったらしい。
今考えると身内が9時間オペ室にいたら、私も気が気じゃいられない。
両親と嫁さんに相当心配をかけたし、感謝しかないと書いててて思う。
両親もこの時の兄貴の急いで病院に駆けつけた対応を後世まで褒めてる。
有り難う皆さん。
人生は非連続
起業2年目26歳の時にぶっ倒れて、目が覚めたら病院。
病院生活は退屈の極み。楽しみは、週刊誌ぐらいだった。
読書も一通りしていたが、毎日、点滴で左右どちらかの腕にルートが入ってて煩わしいし点滴痛いし。病院は最悪な気分。
カルボナーラを食ってオフィスに戻って、仕事をしていた記憶から、
日常がその時を境にガラリと変わった。
落ち着いたので、病室に当時のPCを持ってきてもらって、起動してみた。
出張準備のエクセルを開いていた。「あ、そうだ札幌出張行くはずだった」
と、倒れて運ばれた前後の記憶はほぼなくて、本当に目が覚めたら病院。病室でPCを開いてその時の記憶がフラッシュバックしてきた。
なんなんだ、何が起こっているんだ。本当に自分に起こったことが意味不明だった。ただ、病院ではまな板の上の鯉で、お医者さんの指示に従うしかなかった。12月1ヶ月入院して、病状はというか脳に何かある以外は全然生活に支障はなく、年末年始は家に帰れることになった。
年明けにまた入院して手術を受けるというスケジュールだったと思う。全身ん麻酔で9時間以上、手術も無事終わり、どうやら脳内にあった影を摘出したらしい。家族に聞くと、「梅干し」みたいのが出てきて見せてもらった。という血の塊みたいなものだったらしい、スマホに撮る余裕がある家族がいなかったので写真がないので(似たような物を載せておく)
あとから聞くと、肉芽細胞という細胞が詰まっていたらしい。そんな異物が私の脳みそにいつからあったのかは不明だった。
未来からのサイン
なぜ、自分だけがこんな状態になったのか?考えても理由は出てこない。
病気は急にやってくるもの。身体は動かしていたしスポーツ好きだし健康な身体だと思っていた。ただ、脳みそは、CTなんて若い頃に撮ったこともなく、いつから腫瘍があったのかは先天的なのか後天的なのかは不明で、結局、仕事中にぶっ倒れて運ばれて脳みそに影があり、それを摘出した手術をしたという事実と、頭の右側にの平仮名の「つ」の字に見える傷が私の現実と頭に刻まれた。
「先天的にあったものか、後からできたものかわからない」という中、
この現実は、私に与えられた罰なのか?
叩けば埃の出る人生は送ってきた、調子に乗っていたかもしれない。悪いこともしてきたんじゃないか、色々考えは巡る中、本を読んだり、この現実を片付ける方法が見つからなかった。ふと、北海道の時にであって可愛がってもらっていたエステの先生、トランス深いスピリチュアル系なおばさん。(ワインの味を変えるという技を持っていた。今思うと気功の使い手)
の言葉で、
「五十嵐くん、それは未来の五十嵐くんからのサインだったのよ」
と言われて、なんか、「おーーーー」となった。腹落ちとはこのこと。
未来からのサイン、それも未来の自分からの!
それって、ファンタスティックだが、なんだか妙な納得感があった。
当時26歳の若造で、起業して2年目東京に進出して銀座に住んで、うまいこと行ってたような気がしてた。
パラレルワールドでもなんでも、未来にいる自分から、26歳の自分に与えた試練というか、何か気づけよってサインって考え方が私を納得させた。
自分からのサインということで、自分のことを一番わかっている本人が、過去の自分に、何かを「気づかせる」為のメッセージやサインだと思うと、脳みそ手術するぐらいのサインが26歳当時の私には必要で、自分で自分の人生に引き起こしたことだ!と思ったら妙に納得したし、自分の中でやっとこの出来事への意味づけができた。
きっと自分が大好なんだろうなw僕。神様の罰という考え方よりも、自分からのサインて考えの方がシックリきた。
決断をする
「未来の自分からのサイン」ということは、なんのサイン(兆し)なんだ?
次は、サインの意味を考え始めた。
何かに気づく必要があると考えた。それは、このままではダメだよってサイン?今を変えろという兆し?なんだろうなと、今までは選択しない何かを「決断」するということが必要な気がしていた。
頭は丸坊主で、痛々しい傷が残るなか、黒いニット帽を被りながら、仕事に戻ると、すごく違和感があった。なんか、前ほどワクワクしない。他人の家に居るようだ。みんな気を使ってくれるし、会社は私が離れた3ヶ月〜4ヶ月ぐらいで他の役員の頑張りもあり成長して、現場が変わってる。
もう、ここには居場所がないように思えた。
自分で立ち上げた会社を辞めようと決心した。
収入がなくなる
ノートに書き殴っていた何歳に何をやるみたいな夢はやり残しだらけだったけど、一回まっさらに戻りたい。なんなら実家の群馬に戻ろうかな。と
やさぐれていた。その時に止めてくれた支えてくれたのが今の奥さん。
「実家、戻ったらきっともう帰ってこなくなるし、それでいいの?」
妻とは大阪で出会って、私はすぐに東京へ転勤して、そのまま今度は北海道に会社を立ち上げに行くと行って、遠距離恋愛を続けていた。当時、大阪に住んでいて仕事をしていた彼女を大阪から呼び寄せて目黒で2人生活を始めた矢先、仕事中にいきなりぶっ倒れたという連絡を私の同僚から受けて、それから毎日病院に顔を出してくれて支えてくれた感謝は計り知れない、入院中の私は、仕事ができないのと痛い点滴の治療のフラストレーションで常に塩対応(機嫌が悪かった)だったと思う。それを心配してくれていつも来てくれたとても心の支えになっていた。人生の谷底を見せても、離れずに支えてくれているこの子と結婚しようと思った。多分あとにも先にもこんなにやさしい人物には出会えないだろう思っていた。ベンチャー役員をやっていて、それなりの生活をしてた自分は病気を機に仕事も無くなって、収入も無くなった。
美容の特命係長
むかし取った杵柄で、美容卸のディーラーみたいなことを始めた。知り合いの社長さんから商品を仕入れをして、個店サロン、個人に売ったり、商品棚スペースをドラッグストアに設置してもらって売れたらマージンを少しだけもらえるような小さな商売を始めていた。
ある時、知り合いの社長さんから、国産ジェルネイルの開発をしたいから手伝ってほしいというオファーを頂いた。
美容系といっても、スキンケア、メイクアップ、エステ商材、理美容商材など多種多様の中、当時ネイルサロンは、スカルプネイルやジェルネイルが流行っていた。そのジェルネイルに使われている原料は、ほぼ、南アフリカから輸入している光硬化性樹脂だった。工業用途でその原料を安く手に入れることができて、輸入が多かった製品群の中で、国内で少し混ぜ物をして国産ジェルネイルとうたえる商品を作るのを手伝って欲しい、と言われその会社の特命係長を任命された。ここでも、昔のツテと、飛び込み営業で、開発中のサンプルを持って実際に店舗で使ってもらって、いま使ってるの輸入品と遜色がないかどうか、試作品アンケートを作って、開発にフィードバックをしてジェルネイル商材の開発を手伝う仕事。元々工業用製品を扱っていた会社の新規事業という形でしばらく動いていた。商品化まではしたが、その後の販路開拓は別に任せた。たまたまエステ機器を欲しがっていた人に中古のエステ機器を販売してあげて、サロンの立ち上げ支援をしてあげたり。昔の杵柄が上手く回っていたが、実は健康の方は超元気というわけでも無かった。
恐怖、目が覚めたら病院のベットの上
収入は少ないが、フリーで美容業界の仕事をゆるくやりながら、人間関係に助けられながら生きていた。そんな矢先。頻度は多くないが、脳を手術した影響か、身体が震えたり、てんかん的な発作が、疲れてたり、お酒を飲みすぎた時に出ていた。
彼女と二人ぐらしだったので夜ベットで寝てると思ったら発作が起こっていたり、焼き鳥をカウンターで食べていたら後ろにぶっ倒れたり。倒れた先の席に、たまたまお医者さんがいたり。(ラッキー)
手術の後遺症で、てんかん発作を起こしてぶっ倒れることが数回あった。救急車で運ばれる頃に目が覚めたり、いきなり救急隊員が部屋に入ってきて連れて行かれたり、
「五十嵐さん、ご自身のお名前、身長と体重、いえますか?」
「はい、五十嵐まさきです。168cmです」
(発作のあとは意識が朦朧としてるので言えないw)
救急隊員の人は、私を見てぜったりもっと身長あるだろと思ってたはず。
ひどい時は、痙攣を止めるために肩に注射を打たれたり、目が覚めたらおしっこの管が尿管に入れられてたり。倒れた日は大変な騒ぎだった。
結果、治ってない。というか、肉芽細胞は取れたけど、脳波の異常で、何かのタイミングでぶっ倒れる人になってしまった。東京ERの看護師さんは、2週間おきにくる私に、「また来たのね」って声かけるぐらい。平気な時は通常の生活ができるので、いつ倒れるかは神のみぞ知るみたいな状態。
人生そんなアンコントロールな状態は嫌だと感じ、治療ができるのかを探った。てんかん発作がある人を治す治療があるということを知り、それをするために主治医の女医さんに順天堂大学病院に紹介状を書いてもらった。
てんかん発作の難治治療?だっけな。を順天堂大学にて受けることにした。
大学病院なんてドラマしか見たことない世界。私の担当主治医さんは、とても柔らかい感じの先生だった。「仁ーJINー」という漫画の先生に似ていたので菅野先生だったけど、仁先生と呼んでいた。治療の為の入院なので、運び込まれた時よりは心の準備もできて今回は色々と前向きな入院だった。
そして治療の為の検査は続く。
未知の体験(脳の検査)
治療の為の脳の検査という日々。
検査室のベッドに寝かされて、股の間の太い血管からカテーテルを入れられた。聞くと、脳みそを半分ずつ眠らせる検査らしい。
私の手術痕のあった箇所には、脳の役割でいうと「言語野」とか「運動野」とよばれる、言語や運動を担当する部門があるらしい。それがちゃんと狙った場所にあるか?を調べる検査。
まず、「花」「病院」「警察官」みたいに、一枚一枚パネルに描かれた絵を認識して声に出して聞かれた。
次に、脳みそを眠らせると言って、次の瞬間、カテーテルから注がれたジュワーと熱い液体のようなものが奥歯の奥から頭に上がっていく感覚があった。その後少しして、同じ絵を見せられた。
認識はしているが、発話ができない。声が出ない。これが言語野の機能ってこと?(とても不思議な体験だった)そんな検査を覚えている。
手術は2回するらしい、1回目の手術は、頭を開けて脳にパネルを埋め込む手術。(それも8時間ぐらいの手術だったらしい)その後、そのパネルを脳みそにはめたまま2週間通常の入院生活をするという。どうやら脳みその動きをセンシングするパネルらしい。その時の私はまるでサイボーグみたいに、手術痕からパネルのコードが出ていて、それを寝る時に、頭の上の機械のコードとつなぐ。というなんとも変な生き物だった。
この時に、お見舞いに来てくれた友人は「今までのガラはきっと死んだ」と思ったらしい。(あの状態から今のような復活を遂げるとは思っていなかったから)
そして、いよいよ、再度開頭手術をしてパネルを取り、その下の脳みそを摘出する手術をすることとなった。今でも覚えているのがその手術の後が、今でも人生でいちばん苦しい時間だった。
鼻から胃まで、1メートルぐらいのカテーテルが入れられて喉の奥に鉛筆が2本ぐらい刺さった感覚。それでICUで目覚めて、一晩中、身体の違和感と闘っていた。苦しくて自分でカテーテルを抜かないように拘束具のような手袋をはめさせられた。あの時ほど苦しい時はなかった。
2度と経験したくない。まさにそんな経験だった。
涙を流しながら朝を待ち、先生が来てやっとカテーテルが抜けたのだが、その長さに驚いた。自分で抜こうにも抜ける長さでは無かったのをおぼえている。その後も痛いところは痛いし。自分の頭でないぐらい感覚なくて、
スッキリしない。そんな入院生活で回復をただ待った。
脳の手術も3回目となると、そんなもんだろうといった感情だった。
後から、たまたま私の手術をした機械(オリンパス製の脳外科用顕微鏡)をメンテナンスする仕事をしている同級生に、「まさき、あの高度な手術からよく無事で戻って来れたね」って言われて、順天堂の仁先生にとても感謝したのを思い出した。
身体は回復に向かっていった。病気の体験を通して学んだことは、
これは、後々ビジネスに復活したとき古い知り合いに言われたことだが、「ガラ、丸くなったね」と言われた。若い頃はもっと尖っていて、なんでも自分でやってやるし、できるぞって意気込みで働いていた。しかし、脳みその病気になり、入院中、看護師さん先生はじめ色々な人にお世話になり全身麻酔手術を3回も受けると、自分のできることなど小さなこと「餅は餅屋」で、自分以外の得意な人や上手な人がやった方がいいことは沢山ある。
と言うことを身に染みて知った。
自分以外のリスペクトと、得意な人が得意なことをやることが大事という考えを持てたことだと振り返る。
社会復帰
ビジネスアイデア
もう一度、美容業界で、個人ディーラーみたいなことをしている中、かつて働いていたこの業界でも、エステティックサロンの市場は、多分、私がいた2003,4,5年ぐらいをピークに減少していて、市場規模4500億円→3000億円ぐらいに市場が縮小していたというニュースか何かを見た。ビジネスで、お世話になった業界に何かできないか?と思っていた。
関連記事で、
「エステサロンに通いたい女性は10人いたら、10人行きたい」と答える。
「エステサロンに通っている情勢は10人いたら3名しかいない」という。
残り7割の女性が動いたら、市場は盛り上がるじゃんと思って、
エステサロン周りをしていた私からしたら、行ったことないなら行ったらいいじゃん、みんないい先生ばかりで、美容が好きな人が多いのにと思い。
「エステサロンのお試し体験」をまとめたメディアでも作ったら商売になるのではないかと思った。
Googleで、「エステ お試し」で検索したら、あるサイトが出てきた。
そのサイトは会員数「祝10万人!突破」と書かれていた。
初めは、1から自分で作ろうと思っていたが、WEBの知識も乏しく、お金もなかったので、もう既に10万人会員のサイトがあるなら、そこのサイトのお手伝いできればいいじゃんと思った。とりあえずやりたいことが一緒だった会社の話を聞きに行こうと、運営会社のHPから「お役に立てると思うので面談してほしい」とメールを送った。次の日ぐらいに返事が帰ってきた。すぐに面接に呼ばれた。
渋谷オフィスの面接
どうやら、そのサイトの運営元は大阪本社の会社だった。東京支社を開設して3ヶ月程で、メンバー募集中だったらしい。しかし、ハローワークでは無く、会社のホームページから応募してきたのは私が初めてだったようで、ずいぶんびっくりしていた。(求人は積極的にしていた)
東京支社立ち上げの部長さんも関西人でコテコテの大阪人。私が大阪で働いていた頃に関わっていた関西の人たちよりももっと「The関西人」って感じで、それこそ「商人魂」の塊のような人だった。
社長さんも出てきて、名刺交換していきなりスクラッチくじ見たいのを引かされた。100枚に一枚、面接無条件通過の「ソウルメイト」というカードがあると言って渡してきた、残念ながら私は「ソウルメイト」ではな無かったが、おもしろい仕掛けをする会社だなと思った。社長はアイデアまんで、お試しサイトについて、私も同じこと考えてました。ってことから、入社したい事情を説明すると、すぐに採用になった。営業職として雇ってくれた。当時は、そのお試しサイトの広告枠を売る(ホットペッパーの枠を売るみたいな)個店向け営業だった。テレアポの電話帳はホットペッパーで、新卒当初にしていた営業を思い出した。
違ったのは、ルートセールスでは無く完全な新規開拓営業、テレアポして、アポイントを取って、商談に行って、その日その場で契約を貰う。
その繰り返し。ゴリゴリの営業会社だった。その頃、iPhoneが出た当初で、メモをiPhoneのメモ帳でとっていたら「携帯いじって遊んでる暇あったら営業行ってこい」と怒られた記憶がある。
先進的なメディアの企業かと思いきや、ゴリゴリの営業会社だった。ここではやりたいことが一緒という目的の一致があったので、このサイトを大きくすることで、業界貢献ができるし、社会にエステに行く人が増える(ブスがいなくなる)と、新卒の頃の初心を思い出して、営業を頑張ることができた。その時に一緒に仕事をした、「部長」と「社長」から、新卒の頃に知りたかった関西人の「商人魂」という物を教えてもらった気がする。会社も6期目になり、大阪本社、東京支社、名古屋支社、福岡支社と、支社は急拡大していき、サイトの運営も順調だった。2012年ぐらいは「フラッシュマーケティング」が流行っていた、ポンパレとかグルーポンとか、ウチの「エステのお試しサイト」もお試しなので大幅な割引率を売りにしていたので、フラッシュマーケティングと同じ分類に入っていた。他のフラッシュマーケティングサイトが、隆盛していくうちにどんどん、サイトユーザーのアクティブ率はピークから下がっていった。お試しサイトは、サイト内の企画と、新規店舗の開拓力が肝なビジネスモデルだった。当時サイトのプロモーションや企画を仕込みながら、新規開拓を行い、サイトの登録数と稼働率を上げる企画担当をしていた。
経営企画室室長
ゴリゴリの営業会社だったので、自慢の営業力でサイトは大きくなり始めていた。私が入社当時4期目の会社だったが売り上げは倍倍で成長しているまさに急成長ベンチャー企業だった。ただ、最初のイメージと違ったのが、
中身は、メディアの枠を売るゴリゴリの営業会社だったということ。
(どこまで本当かわからないが、役員3人の出身はゴリゴリのドアノックの訪問営業。ことわざビデオから、防犯装置から、カツラ、宝石まで、なんでも売っていた会社のトップランナー3人で始めた会社だった、当時の話はマジドラマw)
社長初め、部長、先輩方にも、ITの知識やマーケティングを知っている人は誰一人いなかった。そんな会社で私のような効率化を図ったり、新しいアイデアを発信する人間は珍しいらしく、後から社長に聞いた話だが。
前述の部長が「アイツはちょっと異質なので、一回営業以外をさせてみたい」という打診が社長にあったらしい。
当時、テレアポの管理も自分で管理表をエクセルで作って打ち込んで、アポのサイクルを回していた。他のメンバーは上から下まで電話をかけて出なければ消すの焼畑農業的な営業をやっていた人が目立った。
私は、会社からある売り上げの数字を出されてそれをクリアすれば昇格させてもらえるというチャレンジを得た。当時、自分より売上を出せてた人に同行させてもらって技を知り、それを再現する形でなんとか条件の売上BARは達成できた。そして、営業部から、経営企画室という新しい部門を作ってもらいそこに配置された。社長と二人三脚で事業を伸ばし作っていくミッションを与えられた。(若干営業のロープレとかに飽きていたのでめちゃくちゃよかった)その後、経営企画として、新卒採用のスタート、開発部の立ち上げ、事業部(HR tech)立ち上げをすることになる。
ベトナム出張
ある日、大阪本社と東京を行ったり来たりしていた社長から、
「来週ベトナム行くけど一緒にいけるやつおるかー?」って、話題が上った。私は、躊躇なく「はい」と手を挙げて、「ほな、タイの空港集合な」って言われて、社長はそのまま大阪へ帰ってしまった。
「何しに行くとも聞かないで手を挙げてついてくる行動力」と、
私としては本当に躊躇なく、久々海外に行けるぐらいの感覚で手をあげたのだが、その時の行動がとても評価されたのを覚えている。
成田初のフライトでタイの空港に夜中に着き、社長は関西から来るので待ち合わせはタイの空港とだけ言われていたが、どこで待ち合わせは行ったこともない空港だったのでわからなく、ついた空港で関空便を調べて、到着ロビーの喫煙所を片っ端から探し回った。会えたからいいものの、あの時喫煙所で会えなかったら私はバックパッカーやっていただろう。
タイで一泊して、その後、ベトナムのサイゴンホテルに泊まった記憶がある。社長と二人で男二人旅。まだ入社して1年も経ってない頃だった。
二人でいる時間は会社の歴史や、私の価値観のことを話したり、会社の未来のことについて語っていた。アイデアを出したり、意見をもらってブラッシュアップするのが好きな社長で、私も私のアイデアを社長と語りながらどんどん発展していく時間が好きで、面白い企画が思いついた。(その後、私が事業化してプロダクトになる元の企画)※一緒に思いついたということになってる。
当時、ベトナムに知り合いがいなかったので、日本の友人から紹介を受けた日本人とベトナムでアポイントを取って一緒にご飯を食べた。その時に出会った彼が後々ベトナムと日本で上場企業を作るような人物になったのは、本当にご縁って面白い。
その1年後には会社はその方のご縁でベトナム支社を立ち上げ、開発拠点をベトナムに持つことにもなる。東京支社立ち上げた部長がそのまま今度は、ベトナム支社長になりHCMの街を席巻していく。
そのちょっと前の話、エステのお試しサイトというメディア運営していた会社だったのに、開発を大阪の小さなほぼ個人に外注していた。当時、サイトがTVに取り上げられたりしてトラフィックが伸びていた。ウェブサイトのシステムが、サーバーごと変えないと取材を受けるたびにサイト落ちるという綱渡り状態だった。その状況を打開するために、システム開発がわかる人を雇おうというか、サイトをリニューアルするために、自社に開発部を立ち上げるというミッションを私は担うことになった。ウェブサイトはコピペして作ると思っていて、エンジニアという職種に会ったことない人が大半のゴリゴリの営業会社に、フルスタックのエンジニアを採用して開発部を立ち上げサイトを自社運営することになった。
取締役プレゼン
当時、経営企画として仕事をしていた、社長は面白いことを会社で仕掛けるのが好きで、取締役を1名増やすから(AKBが流行っていたのもあり)選挙をすると言って、「取締役選挙」を開催することになった。
予選はメンバーからの投票で行われ、選考は、役員へ事業アイデアプレゼンで行われた。私はメンバー投票で最後の2名に残り、大阪本社の課長と一気打ちになった。
私がプレゼンしたのは、当時売上10億規模だった会社を10倍成長させる100億円のビジョンだった。(中身は今考えて見ると本当に稚拙だったと思うが。コンセプトと狙うマーケットとアライアンス先等を並べて、戦略的な話ができたのは、当時そんなことを言う奴が社内にいなかったと言うことで)私が取締役選挙を勝ち抜き、100億プレゼンで3名の既存の取締役(大阪の先輩後輩の10年来の付き合いのボードメンバー達)に、入社1年程の私が4人目の取締役として参画することになった。(後々聞けば、私を取締役にするために、周りを納得させるために企画っぽくしたらしい)感謝。自分で立ち上げた会社を抜け、ビジネスにやる気と主体性を失いかけていた時に、私を好きに動かせるために、機会と場所を提供してくれた会社と社長には、本当に感謝している。役職なんてどうでも良かったが、後から入ってきたポッと出の輩が動きやすいように、役員にまでしてくれた。御恩に感謝。
したことない。をへらす
入社1年で営業から役員にまでしてくれた会社が、社名変更に伴うホームページや経営理念のリニューアルをすることになった。制作をお願いすることになったのはあの面白法人カヤック。Webのメディアを運営していた企業だが、社内にネットの知識は皆無。当時私も専門ではないが知りうる限りの知識でカヤックのPJT担当とやりとりしていた。ホームページ内でやりこむ企画と、理念のリニューアル。
前の社名の時の理念は、代表の名前が新子(あたらし)だったのもかかっているのか?「新しいことを通して人々を笑顔にする」というメッセージだった。今回新社名にするにあたり、アイデアを社内からの公募をして、採用されたら金一封ももらえるという社内行事として全社員を巻き込んだ会社リニューアルPJTだった。
カヤックのクライアントチームが提案してきた内容は、ドンピシャ、今までにない新しい内容だった。そして、理念のブラッシュアップに有名なコピーライターさんをアサインしてきた。さすが面白法人カヤック。当時、会議室での打ち合わせと、代表へのインタビューも含め、1週間ぐらいで新しい理念が出てきた。
このとき思うと、先のベトナムへの旅は、この社名変更と新しい理念の深掘りに社長が海外で時間を使う予定だったのだが、私というアイデア出しの大男がついて来てアイデアのブラッシュアップ会になっていったのだと思う。ベトナム旅行の帰りの飛行機(社長とは成田と関空で別便)にて、私は先に帰った社長に、「社長の良いところ悪いところというレポート」を書くように言われ、成田便を待つ間にそのフィードバックを書いてサクッと送って日本への帰路についた。
その内容を認められてか、役員総選挙。取締役までの切符をゲットできたのだと思う。さて、新しい理念だが、カヤックが連れて来た有名なサイトウサン?というコピーラーター曰く、
【新しいもの】ってもう、新しくないんですよ。世の中、新しいことに溢れすぎてて新しくない。
新しいという表現を使用しないで、
会社の想いをこの「したことない。をへらす」という11文字に込めました。いろんな案の紙の最後の一枚にこれが出てきたのを覚えている。
なんかオシャレ。思わず社長と顔を見合わせた。
我々のイメージにぴったりの大好きな理念になった。(実際に評判が良くて、言葉が一人歩きして他社にテイスト真似されたり、他の企業の人も1発で覚えてくれたり、コピーラーターの仕事ってすげーなって感動した。)
HRtech新規事業
新社名にするにあたり、10個の行動指針も新しく言語化された。
しかし、覚えられなかったら意味がない。社員に覚えてもらうにはどうしたらいいか?歌にしたって、毎朝唱和したって覚えないし続かない。楽しくなければ続かない。当時マーケティング用語で「ゲーミフィケーション」という言葉が流行っていた。ゲーム設計のように行動をクエスト系にして楽しみながら、行動変容を起こさせる仕掛けみたいなもの全般で流行っていた。我々は、この10個の行動指針を相互に、実践している人を見つけたら、バッジを送るゲームにしてみた。皆の見本となるような行動指針に沿ったアクションをした人を見つけたら、システムにログインしてバッジを贈る。
・⚪︎⚪︎さんの、笑顔がいつも素敵でオフィスがあかるくなります。スマイルバッジ
・⚪︎⚪︎さんの、営業の最後の数字の追い込み、今月はとてもすごかった。情熱バッジ
・いつも素早いレスポンスで仕事を返してくれて有難う◯◯さん。スピードバッジ
みたいな感じで、感謝と行動が入ったコメントと一緒にWebページ上で相手に贈りたいバリューのバッジを贈る。そんな企画を会社のホームページ上で公開していた。(面白法人カヤックさんがシステム化してくれた)
それを会社のホームページ上でやりとりしていた。
このバリュー浸透(理念教育)のホームページが面白いと話題になり、NHKのクローズアップ現代ゲーミフィケーション特集をはじめ、各種ニュース番組に取り上げられた。その後、誰もが知っている企業から問い合わせもあり、海の向こうのフランスのゲーム会社からメールが来たり、自社でも同じ仕組みを取り入れたいとか、OEMして作って欲しいとか、そのノウハウを教えて欲しいと言ったように、「理念浸透」「社員教育」に困っている企業さんから多く問い合わせがあった、私がこの仕組みを販売するという事業を立ち上げることになった。実際は、社長とカヤックの担当と私とで会議で進めていった企画だが、私が作ったと言っても過言ではないというポジションでこのHRtechの事業化を推進していった。経営計画では1年後にパッケージを作り販売してくという計画だったが、私が問い合わせが来た企業に商談に行き、さっさと契約を決めてきてしまったので計画は前倒しされ、OEMパッケージとして同様のシステムを他社用に変更した仕組みを販売し始めた。企業が大切にしている行動指針や、教育したいこと等をワークで抽出する研修とバッジのやり取りをするシステムのパッケージ販売を「理念浸透パッケージ」という商品で販売していた。これが大当たりで、あるHRのサーベイで理念浸透の場所が弱く出たりすると、対応するソリューションが市場に無いというHR領域の人事にすごく評判がよく、大中小様々な企業の理念浸透のお手伝いをする事業をしていた。
メディアの広告枠を売っていた既存社員では、このパッケージを販売も納品もすることができなかったのでほぼ、私と社長二人とスーパー営業マンの部長と常務で販売していた。私は、稼働前のキックオフや納品に駆り出されることが多く、人事や社長さんと理念の話をする機会が多くなった。より効果的に使ったり、発展系の提案を進める研修やワークショップも開発して販売していった。ちなみに今でもそのサービスは少し形を変えて存続している。
法人営業
HRtechを使った理念浸透パッケージは、TVにも取り上げられて反響がよく、インバウンドで商談獲得ができていた。
逆に、今までのテレアポで販売すると言うような手法が全く通用せず、マーケットも「エステのお試しメディア」の個人店市場ではなく、中小企業、スタートアップ、ベンチャー企業、大企業と、いわゆる社員教育や研修を求めている企業への法人営業がものを言うプロダクトだった。
テレアポからの個人店営業→法人営業は、勝手が違い。
社内で適応できる人材は、社長含め役員4名しかいなかった。会社の得意の営業力は、10分の1になった。既存事業は業績も下がっていった。
法人営業を主戦場に変えてから、企業間アライアンスや、共催セミナーや、営業顧問を使った営業等、紹介やバーターやとにかく手探りに色々な企業と名刺交換して、研修とツールのパッケージ販売をしていた。当時経営者交流会や、展示会にも多数出店していた。その時のつながりが今でも多く、五十嵐は「ありがとうバッジの会社の人」のイメージが強い時もあった。
その際、法人営業、人事領域、研修作成、システム開発の営業を独学で学び取っていった。「法人営業は、面でやれ」って営業顧問の人とかに教えてもらったり、L&Mと一緒に営業に行って組織診断したり、サーベイの会社とアライアンス組んだり、代理店業を生業にした物売りだけだった会社が、自社プロダクトを販売し始めたが、売り上げが追いつかない状況だった。
2回目の独立
当時、色々なビジネス交流会に顔を出したり、主催したりして、FBのつながりで面白い人を一人連れてくる飲み会をするという「30歳超えたらみんなタメ」というテーマの30オーバーなら誰でも来れる飲み会を開催した。その際に出会った、AIエンジニア、ロボット開発エンジニアの話がとても面白く、AIの開発に興味が湧いた。第三次AIブーム、ちょうどディープラーニングの技術が世に発表されて、続々とAI系のスタートアップが産声を上げている最中。
会社は売り上げの低迷と、Saasプロダクト開発、拡販に必死だった。法人毎のOEM開発からSaas版にしたことで、広く多くのアカウント獲得を狙った戦略だったのだが、なにせ、「褒め合う、ありがとうのカード」の市場は当時存在していなかった。今でこそ、ユニポスとか、Tunagu とか、HRtechでピアボーナスの市場が立ち上がり、社内ツール、コミュニケーションツールというマーケットは一定数ニーズがある。が、2014年当初は、サンクスカードという社内の仕組みは、ぶっちゃけて言うとアナログの上でもできる。アナログのほうがいい。という風潮もあった。狙ったように、広告、プロモーション費用をかけてもアカウントは獲得できず、開発費用が嵩み、OEMと研修販売の時より利益も出ず。結局Saasを手売りや紹介でのクロージング営業となっていた。TVに出ていた頃の効果も薄れ、インバウンドの問い合わせも減っていた。そして、Saas版にしたことで単価は下がり。追加の導入研修を販売して、売り上げを立て、納品する毎日に可能性を感じられなくなっていた。
主力だった代理店事業の方は、低迷し人も次々辞めていった。従業員は全税期の半分ぐらいになっていた。そんな中、私が引き抜いてきた人事の部下が辞めた。(この子は、私が最初に起業した会社の内定者だった子で、私が最終面談を行い、大学卒業後の4月からは一緒に働くはずだった子で、病気の関係で私が会社から去っのは、当時の会社に入社してから知り、1年ぐらい働いた後、転職してOLをしていた頃、私と数年ぶりに出会い、今度こそ一緒に働かないかと言うことで働いていた会社を辞めて当時役員をしていた私の会社に引き抜いてきた子だった、人事管掌の私の下でマネージャーにまでなった)そんな部下が人事で採用に絡んでいながら、このままでは会社の未来が見えなくなったと辞めていったことはショックだった。会社の業績を立て直せない自分に不甲斐なさを感じた。そして、私も、私が採用した新卒採用組のメンバーが全員転職できて居なくなったのを機会に、次なるチャレンジをしようと、AIエンジニアを抱え、AIのプロダクトを開発する会社を立ち上げる為に独立した。2回目の独立だった。社長はエンジニアで私は事業開発的な役割だった。(が、この会社はすぐになくなることに)
役員を辞任した会社の社長からは、「うちのプロダクトのAIも開発してくれ」と声をかけてもらって送り出してもらった。さまざまな経験をさせてもらって大好きな会社でとても御恩を感じていた社長だったので、とても複雑な気分だったが、プロダクトの方向性を考慮した結果、外から関わることにした。今でも、納品、導入の研修には駆り出されることがある。毎年社長とはご飯を食べたり、今でも、付き合いは深いBIGBOSSだ。
AIの会社
私は、次のステージとしてAIの会社の立ち上げに参画した。この会社は、ボードの社長ともめにもめ半年で出ていくことになる。ただ、AIと関わる仕事がしたいと思っていたので、大学時代からの友人がCOOをしていたAIカンパニーのお手伝いをさせてもらうことになった。ちょうど、営業用Saasのプロダクトのローンチのタイミングだったので、その事業部の事業開発を担うことになった。垂直立ち上げの時期に販売網の開拓、値決め、セミナー営業、営業マン面接、今度はAIのプロダクトを販売すると言うことで、AI銘柄というフィールドで新しいことへの希望でワクワクしながら仕事ができた。この会社は母体は、AIプロジェクトへSESを提供する会社で、AIの教育事業も持っており、AIの会社としては、揃うものが揃っていた。私が参画して4年後には上場も果たし、(上場前に私は業務委託に切り替えて仕事をしている)事業部は上場後も継続していて、仕事は、今でもプロダクトエヴァンジェリストとして関わっている。(外部の私が最古参)
法人営業デジタル化協会
1年プロダクトを販売していると、私の性格から慣れから来る飽きが寄せてくる。単調なプロダクト営業は立ち上げが終わると飽きる。
私は、共同でセミナー営業をした企業の社長や役員と一緒に、セールステックの協会を作ると言う話に興味が移った。「セールステック等のプロダクトは、販売側のカスタマーサクセスがとても重要且つ工数がかかる」買う側のリテラシーが高くないと、せっかく導入したのに効果的に扱えないものも多い。と言うことで、購入者側の市場の教育をしようと言うことを法人営業デジタル化という名のもとに世の中に提案する協会を10人の発起人とともに設立した。「未来の法人営業を共創する」をテーマに、セミナーやウェビナーを中心に、セールスやマーケティングに関わる人たちが誰でも参加できるラーニンググループをFB上で作り、セミナーの配信やイベントを開催している。発起人の10名は、それぞれ名のある会社の社長やマーケティング界隈の有名な(日経のマーケティングアワードの審査員しているような方)方を招致する位ことができた。
会社をまたいただ業界発展のための協会という繋がりは、なんだか立ち上げていてとても新鮮で楽しい取り組みだった。何よりも、自分の会社をやっている社長や役員さんたちが、一つになって業界を盛り上げようと時間を割いてくれる心意気がとても好きだ。
コーチングを学ぶ
コーチという職業に憧れ。コーチとして仕事をしている人?当時、私がよく知っていたコーチ像は、「すごい会議」のファシリテーターであった。兄貴と慕っていたENERGEZ Groupの共同代表の 秦卓民さん 「すごい会議」は、前職で導入していて、ENERGEZは、HRtechの私の担当クライアントであったので、飲みに行ったり、顧客を紹介してくれたり、ゴルフに誘ってくれたり会社ぐるみで仲良くして、可愛がってもらっていた。その秦さんは、2019年に「Selfish」という書籍を和訳出版された(原書の著者トマス・J・レナードは、国際コーチ連盟を作った人でコーチ)その本の内容を読み進め秦さんへの尊敬も含めてコーチという職業にとても憧れを抱いた。さらに、「1兆ドルコーチ」と言う本も同時期に発売され、ビル・キャンベルの生き方に憧れを抱いた。AIプロダクト販売に飽きて、一般社団法人を立ち上げたのち、「職業コーチになりたい」と次の目標を決めた。
秦さんに、「コーチになりたいのですがどうしたらいいですか?」って聞きに行ったら、「名乗ったらもうコーチですよ」と返され、今までコンサルティングチックな事でお金ももらっていたので、「コーチとコンサルの違いってなんですか?」って質問をした。「コンサルは問題を解決するコンテンツを持ってる人、コーチはコンテンツを持たない」といった内容を教えてもらった気がする。
なるほど。コーチという専門性は、コンテンツは持たないものなんだなと。自分なりに理解した思い出がある。
名乗ったらコーチなので、コーチを名乗ろうか迷っていた頃、ご近所の飲み仲間、海野くんが「コーチングを学び始めた」と言っていたのを思い出した。大塚会に飲みに誘い「どんなところでコーチング学んでるの?」と聞くと、「めちゃくちゃ厳しいコーチングスクール、校長先生が超絶頭が良くてビビってる」ってオーバーリアクションに教えてくれた。「まだ、2期生募集しているか聞いてみるよ」と、後日、説明会の募集動画をメッセンジャーで送ってくれた。その動画を見て私はビビビーっと脳が揺さぶられた。
秦兄貴の勧めで、「自動的に夢がかなっていくブレインプログラミング」アラン・ビーズ著という本を読んでいた。そこには、ブレインプログラミングの手法や、RASという脳の器官があることが書いてあり、脳の自動操縦的やり方、コツってのが書いてあったと思う。脳みそが人とは違って足りていない私でも使い方を覚えれば、人以上にポテンシャルを発揮できるのではないかという俄な期待もありRASという脳内器官がとても気になっていた。
海野くんが送ってくれた説明会動画では、気になっていたRASという言葉が出てきた、ゴール設定解説をのちにコーチングスクールで私のコーチで私にコーチングを教えてくれた師匠である、李英俊さんが、ホワイトボードでわかりやすく解説していた。「この人のもとでコーチングを学びたい」と、学習欲が高まった。
その他のコーチングの書籍には「RAS」なんて言葉は出てこないし、脳を物理的に失った私は、脳科学、認知科学に興味を持っていたのもあり、1発で、李さんの授業が受けたくなった。迷わずMindset Coachingスクールの第二期募集に応募した。(多分、残り1人か2人枠にギリギリ滑り込めた)
コロナ禍で、完全オンラインのスクール。(どうやら、先行組や先に入学を決めていたメンバーは生身の説明会もあったみたい)FBグループ内で、コーチングの最初のお題的な内容が李さんから投稿された。コメント形式で問答をしていく学びが面白くて、李さんとの初めての会話を覚えている。
入学初日のコメントで、コーチになる為エネルギーが爆上がりしたやり取りで、思わずスクショ撮ってました。(関わりのスタンスが既にスーパーコーチでした)このやりとりがあったから、第1期生の先輩であった海野くん、曰く、「めちゃくちゃ厳しいコーチングスクール」を卒業することができた。卒業レポートを提出して卒業式までの2週間。同期のメンバーに合格通知がされていく一方で、私は卒業式その日まで合格のコメントがなかった。
スクールを卒業する手前の2週間、他人の卒業レポートと自分のレポートの違いを見比べている時が一番コーチングと向き合って学んでいた時期。
卒業式のcertification授与の時に、
「ガラのレポートは普通やな」「皆んなの間に入って動ける才能で頑張って」とって特に褒められた訳でもなかったが、目標のコーチになれた事が嬉しかった。持ち前のフットワークで、卒業前に実際同期に一番会っていたのは私でしょう。コミュニケーションはNo. 1だったはず。
コーチングスクールで学んだことは、私の考え方にとても合致して(オーガニックコーチだから?)学べば学ぶほど、病気の後の自分の人生を、生き方を肯定してくれているように思った。「Have toを捨ててWant toに生きる」病気をして気づいたことは、人生は非連続であり、いつ何時目が覚めたら病院のベットにいるかわからない。Have toに時間を費やすよりも、Want toで生きていた方が自分らしい人生が送れる。当たり前のように感じるか、身に沁みて、心底、思っているかが大事だと思う。
後遺症のない人生を生きていれることも(今でも病院の外来に行くが、後遺症だろうなって人によく遭遇する、その度に俺ってラッキーなんだって思う)復活して楽しい仕事ができていることも、私にとっては人生のボーナスステージ。この病気で死ぬ気はなかったけど、「未来の自分からのサイン」に気づき、あの時とは想定外の続きの人生を生きている。それが、未来から見たら整合した私の人生。コーチとして、人生のボーナスステージは他人の支援をして生きること。Have toまみれで生きている大多数の人に、Want toで生きることを伝えること。コーチとは生き様であり、在り方であることを、職業機能としてコーチを選択した時に、その生き方を実践する人生を選んだ。コーチングスクールでは多くの事を学んだと同時に、自分の人生の在り方を見つめ直す機会として、社会人として抽象度を一つも二つ挙げてもらえた半年間だった。
コーチとしてのクライアントワークのことも少し触れたい。私のクライアントは、経営者や経営ボード(CXO)の役割を担う人が多い、特に、COOタイプ、事業を作る側の「CAN」の大きな人たち。彼らのコンフォートゾーンは事業を成長させる、企業を大きくさせる、成長を担うといった重要なポスト。ただ、ふと会社の状況が変わってくると、「本当に自分がやりたかったことってなんだろう?」と、立ち返る時がある。最初のうちは、たんなる壁打ちや、事業の相談で話していることが多いのだが、その延長線上で、コーチングを依頼されることが多々ある。
そんなキッカケでコーチングを受けてくれたクライアントは、「人生最後の日を取り扱う」want toで溢れたホスピスを経営していたり、目の見えない方へのガイドヘルプアプリを盲目のエンジニアを仲間に加えて開発していたり、フルマラソンチャレンジを応援したり、エベレスト登頂を夢見ている社長さんが山事業を始めたり、地元には興味が薄かった人が、地元への貢献やにほんの未来のために、投資を始めたり。エリートサラリーマンを辞めて起業したり。と、クライアントの「新しい挑戦」を生み出し、ご縁と、経験値で立ち上がりを支援して「現状の外側」だった未来へ飛躍している。
未来が大好物
坂本龍馬に憧れた学生時代、学生祭という学生団体を立ち上げて、就活イベントを楽しくしようとしたこと。
自己肯定感の低い女性=ブスという概念を壊したくて、美容業界で、マーケティングを学び、ブスがいない世の中を作ろうとした新卒時代。
美容業界もある意味、未来の自分の美しい姿を売る。(未来売り)の商売なんだとあとから気づく。
褒め合うHRtechで、ポジティブな人を増やそうとしていた病気後のベンチャー役員経験。
AIという外部脳に出会い、衝撃を受けて、AIカンパニーを手伝い始めたり。
コーチという職業機能を得て300人以上ののミラインタビューを実施して、人の未来を聞いてワクワクしたり。ミラインタビューで自分の未来を話すと、不思議とご縁が繋がる。ガラの神通力付き。グータラで、先のことなんて考えるのが嫌いで、早くお爺さんになりたかった若者が、コーチという職業に憧れ。人の未来を取り扱う仕事をしている。
カッコいい日本人になるという目標を立てて、100年後に残る銅像になる活躍をしようとゴールを掲げていた。(元部下には、最悪死に際銅像なかったら小さいのでいいから作ってねと言っているw)
100年先をスコープすると、「AI」「地方」「教育」というテーマがずーと頭の中に巡り。地方創生をそろそろ扱いたくなってきた。というときに、コーチ仲間から声がかかった。
DXWORLD
コーチングを学んで知ったこと、人間にはスコトーマ(心理的盲点)と言われる部分がある。コーチは抽象度を上げて、クライアントのスコトーマを外して本来のポテンシャルを発揮させる。対人支援がコーチングであれば、
対法人支援は、法人のスコトーマとは?を考えた時。それは、既存のビジネス領域にはなく、新規事業や、違うチャンネルにあるのではないか。法人の新規事業開発や、違ったマーケットへのチャレンジ等を支援するのもコーチの役割と定義して「新規事業開発」の仕事は、請負続けている。
さらに上の概念である日本のスコトーマとは?を考えた時。それは、「地方」にあるのではないか?ビジネスを考えた時、意識をどうしても東京・大阪・大都市経済圏に置かれている中で、日本の地方には、まだ目に見えぬポテンシャルが多く眠っている。日本のスコトーマを外すには、地方の意識を目覚めさせる、地方を盲点にしない働きかけが必要なのではないか?と思い。コーチになった翌年2021年から、「DXWORLD」というイベントをコーチ仲間と主宰している。日本のスコトーマである地方は、放っておくと「現状維持を選択」することが大好き。そんな地方に、Web3や、地方のイノベーター・アーリーアダプターの活躍を紹介することを目的にして。現地に足を運ぶ地方巡業とメタバース展示会をくっつけたハイブリッドイベントを既に11都市で開催している。しかし、現状維持を選択し続けるとネガティブなシナリオしか選択できなくなる日本の地方都市は、新しいチャレンジや取り組みをしなくてはいけない。そこを外部から、最先端な技術や、情報や人を紹介し、地方のアーリーアダプターにまで届けて、実践のサポートをする。そんな構想を持って、DXworldも2023年には、一般社団法人化して、これからも地方どんどん働きかけていく。地方と未来をつなぐイベントとして、日本全国に今より明るい未来を創造するお手伝い、きっかけを届けに向かいたい。これは今後とも取り組む活動だ。
サウナと登山とランニングと
いつの頃かららサウナが好きだ。iPhoneの写真を見返すとちょうどコーチングを学び始めた頃からサウナに通っている。私の中で核心がある。
「仕事を頑張ってる人はサウナにハマる」
普段全力投球して、集中し、交感神経優位に仕事をしている人は、ひとときの安らぎに、サウナにハマる。サウナにいる時間は携帯・PCのデジタルデトックスの時間になる。
サウナーの名言で、「肩書きとおさいふはロッカーの中に置いて入る」というものがある。まさに、普段のビジネスロールを忘れて、サウナでは1人の裸の人間として、トトノイを感じる為にやってくる。
そんな癒しの時間を仕事ができる人たちはサウナに求めているのではないか?
登山もはまり、都心から行ける百名山には登ってる。山にはサウナと同じ効果がある。大自然に囲まれデジタルデトックスと、大自然の中では一人の人間でしかない時間を感じる事ができる。だから、サウナ同様、シゴデキ人間は登山にもはまる。そして、ギアに沼る。
ランニングは、一つ決めた事がある。地元群馬で文化の日(11月3日)に開催される「群馬マラソンへエントリーする」一年に一回地元を走る。
3年前人生で初めてのマラソン大会へのチャレンジ。コロナ禍で実家へ帰ってなかった時期があり、群馬マラソンを走るため強引に実家へ帰省し、初マラソンを走り切り、その年の11月19日に他界した93歳祖母に一眼会えた思い出のマラソン大会だからだ。年に一回フルマラソンは走れる身体というものを維持することもゴール設定の一つである。
そして、この三つに追加された趣味が、「ブラジリアン柔術」である。
幽霊部員を入れたら1年半道場へは通っている。半年前に青帯になるとゴールを設定してから、主体的に通い始めるようになり。大会は2回出て、銀メダル4つ。金メダルを取れていない。金メダルを取って青帯に昇格する事が今の目標の一つです。
4万字以上の振り返りを終えて、
自分の人生を棚卸し、通底した価値を見つける為の中で見えてきたこと、
私は人と一緒に何かを立ち上げるのが好きで、新しいことへ突っ込むのが好き。未知なる未来が好きで、優れたアイデアが好き、人が新しいことに挑戦するときに最初に隣にいて、勇気を与えているような人生だった。
(なんとなく上手く行く気がする、上手くいく気にさせる)
20代で起こった病気の経験を思えば、私は、非常にラッキーだということ。
人に支えられた人生だったし、人生いつも先人に可愛がってもらっている。
ご縁で繋がった方々にご縁を結ぶ。私はいつも人と人の間にいることが好きで、人間が大好き。