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空間に貼り付けた物語

(こちらの記事は、昨年12月に開催された川口忠彦さんの個展体験記の続きです)
初めての方はこちらを先にお読みいただくとよりわかりやすいかもしれません。


最初に置かれた小さな作品


2023年12月。東京・神保町のギャラリーコルソ。
入り口を入ってすぐ横手の壁から順路が始まるらしかった。最初の作品は15センチ四方の正方形を黒く塗りつぶした中央に、微かな光を放つ白い星が描かれたアクリルパネル。
案内状の絵などから想像していたいつものファンタジックな絵とは違う、小さなその作品に惹きつけられた。


正方形のアクリル作品


その隣には同じ暗さに揃えられたように感じられるものの、確かに川口さんらしいタッチの大判の絵が掛かっていた。


『闇はやさしくこだまする』


何このギャップ。
黒い小さな作品は一瞬、別テーマの展示をうっかりはずし忘れたのかなと思わせるほど異色だったが、同時に先へと促される道筋もあるようでわたしは次の絵の前へと進んだ。
こういう始まり方は好きだ。

クライマックスを目指す線を辿るのではなく


音声ガイド(会場2巡目で配信)の序盤で「絵だけ並べたら個展というものでもない。個展とは会場を作品のオーラで満たすことだ」と語っていた川口さん。
作品のオーラを醸すために、絵の配置だけでなくどんなことを試みたのだろうか。
展示の形は、ひとつの「思考実験」から始まったのだという。

川口「構想を練っていた頃、個展で展示するために絵本を書くのはどうかと200冊くらい読んで構造分析などをしていた時期がありました。プロットも何十本か書いてみました。でも、これが自分のやりたかったことだとは思えなかったのです。

この会場(ギャラリーコルソ)であれば、壁に30点の絵が掛けられる。ならば30ページの絵本を作ることになるかと思います。
個展に来てくれた人は、その絵本の『お話』が面白ければ面白いほど絵を次々と足早に見ていく。お話が面白いというのは、次が気になるということですから。
私としては1点ずつ何十時間でも見ていられる絵を30点も描いたのに、お話をつけてしまうことによってすべて車窓から眺めるただの1ページになってしまう。それはいやだったんです」

美術館やギャラリーでは、どの程度自分のペースで回遊できるかによって体験の充実度が変わってくるという感じ方は個人的すぎるだろうか。滞在時間も順路も含め。
見る人にゆだね過ぎて散漫な展示空間も困るが、キュレーションが効き過ぎて自由が制限されれば抵抗を覚える。特に、全部見終わったあとに最初の地点まで戻れない展示(たまにある)は好きではない。
そういう意味では絵本の原画であれ何であれ、川口さんの言う先を急がされる展示は苦手かもしれない。

川口「展示した詩のなかにこんなフレーズがあります」

でも/そもそも時間という概念に/大きな欠陥があるとしたら?
ぼくは/あやしいとおもっているよ
過去と現在と未来に分けて/直線的に一方向に/流れているという仮定?
本当は時間は線的ではなく/平面を持ち/空間を持つかもしれないよ?

(画集にも収録)

誰かの少年心が生み出した思考という設定で書いていますが、元となっているのは私自身があるとき『物語の時間は線的だな』と気づいたことかもしれません。物語も、映画も、動画も、音楽も、アニメも絵本も時を経て変化することによる美なんですよね。

そういう時間の経過による美も好きなのですが、私が創りたいのはそのような線的な物語ではないのではないか。
「青い鳥のタロット」が完結したあとバラバラの絵を描き始めて。そのなかにもまとまりがあって、どこかで繋がっていると感じていました。そのようにバラバラなままで、ゆるく繋がっているような繋がっていないような大きな『お話』ってないのかなと考えていたんです」

持って帰ってほしいのは「物語的な、心的体験」


川口「わかりやすい起承転結がある物語ではない、『物語的体験』というものがあるのではないかと思いました。個展に来てくれた人に、何か体験を持って帰ってもらいたいと思ったとき、その体験を心の内側でしてもらえるような空間を作ろうと思ったのが、展示のベースとなりました。私が『物語的な、心的体験』と名づけたものを持って帰ってもらいたいなと。

それをこの空間でどう表現するか考えたとき、物語を時間という軸に展開させるんじゃなくて、空間という軸に展開させたらどうなの? 物語を空間に貼り付けるとしたら? という思考実験からすべては始まったんです。それを仮に『線的ではない物語』と呼んでみました」

――物語を時間ではなく、空間に貼り付けるとは具体的にはどのようなことですか?

川口「たとえば七夕に発表した魚の絵があるんですが……


『7ノ暦ノ祭』

秋の星座である南のうお座が七夕に出現した、「みなみのうおが早まって/秋の星らを連れてくる」という詩を添えました。
会場には数点の遺物のような出土品のようなもののスケッチが資料的に展示してあって、そのひとつが「南のうお座化石」。

「南のうお座化石」

別のところに置いた地図には『この地図上のここで化石が出土した』と示されます。
展示物としては順不同、展示の仕方もバラバラですが、見ている人がそれらの関係性に気づいたとき、その人のなかにドラマ性が生まれる。
私が好む『線的じゃない物語』とはそういうもので、たとえば質の高いゲームにも見られる特徴なのです。

古来から映画や小説でも試みられてきたものではあるのですが、動画や本というメディアはその形式自体がきわめて線的なものであるため、真にそこから解放されたのはゲームメディアの出現が大きいと思います」

個展会場に絵画とは別の「展示品」としてポツンポツンと置かれた、誰が描いたかもわからない数点のスケッチはいかにも古びていて、一度くしゃくしゃになった羊皮紙の皺を広げたような味があった。
会場に「順路」はあっても、そこにストーリーという時間の流れがないのがわたしには心地よかった。絵と資料は別々に楽しむこともできるし、そこに自分なりのストーリーを勝手に作り上げてもいい。

――いわゆる伏線とも違うんですか?

川口「伏線というのは時間の流れのなかで示されて、あとから回収されていくものですよね。線的な物語では、私が『因果の鎖』と呼ぶつながりを作って見せていくことになる。それがどうしても窮屈に感じられるんです。個人的な感覚なのですが。
見せる側がその『因果』や辻褄を提示するのではなく、見る人によって順番が違ったり、見過ごしたりしてもいいし、場所もバラバラで。でも、どこかでそのつながりに気づいた人は、「あ! あそこで言っていたものがここにあったんだ」と想像できて、その人のなかでわっと物語が紡がれていく。自分が見る側に立ったときも、そういうのが好きなんですよね」

――線的な物語とは、終わりを目指していくダイナミズムですね。盛り上げて盛り上げて、最終のクライマックスや、どんでん返しがあっての大団円あるいは悲惨な結末に向けて進行していくような物語は巷に溢れているし、誰もが引きこまれる構造です。
その盛り上がりやメリハリを演出するなら、時間の経過を強調し、埋め込んでおいた伏線を拾っていったほうがよりドラマティックになるとも言えますが、川口さんはそこを目指したわけではないのですね?

川口「たとえば、料理のコースで最後の一皿をおいしく感じてもらうために、それまでさほどおいしくもないものを食べさせられて、終わりに最高においしいものを出されて『おいしいでしょう』と言われても、あまり嬉しくないですよね。たしかに感動はあるけれど、私はおいしいまずいの落差でおいしさを感じるよりも、ずっと心地いいほうがいいと思うタイプ。だから、心地よさのグラデーションが違うだけのほうがいいんです」

――ところで、もしかしたら、展示空間というものと線的な物語は馴染みが悪いんでしょうか。

川口「空間が線になるともったいないですよね。物語によりふさわしいのは本というメディアではないでしょうか。私はそれを画集という形で実現できたのですが、画集を作ったあとに空間というメディアを手に入れたことが自分にとってはものすごく大きかったと思います」

豊かな体験ができる空間を用意したい


もうひとつ、川口さんが個展という体験を意識していた背景にはファンを満足させたい気持ちがあったという。

川口「具体的な準備に入る前から、個展というのはただ作品を見せる場じゃなくて空間であり、その空間を通じた体験を用意するのだというところまで考えていました。体験を用意するという考え方は、もともとゲームを作っていた経験から来ています。
初個展の頃からゲームのファンが来てくれたんですよね。バイタリティがある人たちが多く、北海道や四国といった遠方からも来てくれた。そういう方々を迎えるのであれば、遠方から来た甲斐があったと思ってもらえるものにしないと、といい意味でのプレッシャーも感じます。ファンの方に鍛えられたんですよ。
そうなると絵だけでなく、全空間に責任を持たないといけないなと意識して、小一時間は滞在して楽しめるような形にしようと」

――来られる方の熱量に応えようという、おもてなしの気持ちもあるんですね。

川口「当然です、ピュアな気持ちで来てくださるわけですから。そのためのひとつの秘策として音声ガイドを思いつきました。もともとは遠方から来た人が一巡したあとも、もう一巡、ゆっくり滞在できるようにというのが狙いで。当初は20人くらい聞いてくれればいいなと思っていたんですが、かなりの人が聞いてくれたのは嬉しい誤算でしたね」

――会場を一巡して、絵のことをもっともっと知りたいと思ったとき、音声ガイドのことばは手がかりになりますからね。

川口 実際には絵の説明的なことは何も語っていないのですが(笑)。

――でも、わたしのように「目の前にある作品世界がどのようにできたのか」を知りたい人も多いでしょうから。音声ガイド、次回の個展でもあるのではと期待しています。

最後に置かれた小さな作品


展示された絵画とつかず離れずの音楽が漂うなか、作品1点1点と向き合い、資料的な展示物も見ながら会場を回遊する。わたしのようなひねくれ者でも、一応順路通りに回ってみる。
最後にかかっていたのは、最初の作品と同じサイズ、正方形の黒いアクリル作品だった。ただ、最後の作品の中央にはひとつの白い円ではなく、無数の光の集合。爆発したかのような、小さな白点の群れが描かれている。星雲なのか。終わりなのか。ビッグバンなのか。

それを見たとき、「ああ、ここが終わりであり、始まりなんだな」としっくり来た。
一巡した終着点には音声ガイドをストリーミングできるQRコードが設置されていた。
始まりと終わりがぷっつり途切れるというよりも、開かれた円環に招き入れられたような……。もう一回、音声ガイドを頼りに回ろうか。

こういう始まり方は好きだ、と思った。

✧✧✧

川口忠彦さんの2023年個展『わたしたちはみな孤独 ひとつの例外もなく』の体験記、今回は空間篇でした。
次の第3回でひとまず完結します。お楽しみに!

(なお、作品画像と個展会場写真は川口忠彦さんからの提供を得て掲載しております)

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