「普通」じゃなくていい
たぶん、多かれ少なかれ人は何かしらの
「特別」を目指してるんじゃないか、と思う。
何かの分野で「特別」な人になりたい、とか
誰かにとって「特別」な存在でいたい、とか
「特別」なことができる自分でありたい、とか。
それは自然なことだと思う。
そこには「より良くありたい」
という願いがあるだろうし
「人に認められたい」
という欲求もあるだろうから。
そもそも人はみんな、
顔も形も考えることもできることも
今まで生きてきた経験も何もかも
1人として自分と同じ人はいないから
ホントは誰もが「特別」だ。
だけど、「特別」がもつ意味が
時には人をおかしくさせることもある。
たとえば周りから
「普通」がいい、
「普通」の方が安全、
と言われ続けているような気がすると
他人の言葉が自分の心に棲み込んで
「普通じゃないといけない」
「普通じゃないとダメ」
と思い込んでしまうことがある。
そしたら「普通」とは違うと自分が感じること、
何かができないとか、
人より劣ってるとか、
人とは異なる考えとか、
それを出してはいけないと思ってしまう。
「普通」ってやつは
定義も真実も実は何もない、
単なる色んな人の思い込みの塊だ。
たまたま自分の周りにあった
「普通」の思い込みの集合体を
真実だと自分に擦り込んだことに他ならない。
誰もがユニークな存在なのに
それを無視して
なんだかよくわからない「普通」
ってものになろうとしたら、
どうしたって無理が生じる。
できることもできないことも
人によって「違う」ということが、
それで当然なのだということが、
ぽっかり忘れ去られてしまうだろう。
自分が特別だということを忘れてしまうと
自分は「特別」なのだということを
誰かに思い出させてもらいたくて
他人に認めてもらうために
「特別」になろうとすることもある。
自分の本音を押し殺したり、
無理して頑張り過ぎたり、
誰にも頼れず1人で抱え込んだり。
他人が求める「特別」になろうとすると
自分が苦しい。
でももっと苦しいことは、
「普通でさえ自分は認められない」
と思ってしまった時だ。
すると、
他人を傷つけたり攻撃したり、
悪いことをしてみたり、
かわいそうな人になりきったり、
できない人を装ったりする。
特別な人にもなれない、
普通な人のままでもダメ、
そしたら残る方法は
人とは違う特別な方法で
「特別」な人になるしかなくなってしまう。
こんな悲しい方法しか
選べなくなってしまうほど
その人を追い込んだのは
普通とか特別とか、自分への誤った価値感だ。
自分を偽ってまで「特別」になる必要は
どこにもない。
たとえ自分に嘘をついて他人に認められても
ますます自分と他人に嘘を重ねて
いつまでたってもどこまでいっても
「まだ足らない」
「まだダメだ」
と欠乏感に駆られてしまう。
「普通」じゃなくていい。
普通なあなたに価値があるのではなく、
あなた自身に価値がある。
特別な「何か」になろうとしなくてもいい。
自分が気づいてないだけで
あなたはすでに「特別」な存在なのだから。
誰も「あなた」にはなれないし、
あなたも他の誰かになることはできない。
自分も他人も「特別」なのだと気づいたら、
「普通」であることの意味なんてなくなるだろう。
あなたが「特別」を目指すというのは
つまり、
「自分らしくいる」
ということだ。
それはもうすでに、そこにある。
自分が気付くだけで、
自分に許してあげるだけで、いい。
あなたにはできないことが
たくさんあるかもしれないけれど、
それ以上に
あなたにしかできないことは
もっとたくさんある。