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「ゼロ距離」行ってきた

今日は写真展の話

お仕事で2回ほどお会いした藤里一郎さんの写真展が目黒で今日からあって、久しぶりに写真展というものにお邪魔してきた。多分写真展に足を運ぶのは7~8年ぶりになるんだと思う。
もちろん、写真美術館やメーカーのギャラリーは行った時に見るようにしているんだけど、特定の写真家さんの写真展は本当に久しぶりで、どんな作品に出合えるんだろうというワクワクと、入りづらい雰囲気だったら嫌だなというドキドキが入り混じった何とも言えない感情も久しぶりだった。

藤里さんの25周年の節目の写真展の被写体だった夏目響さんが、今回もモデルとして写っていて、こじんまりとした「ロッコール」というギャラリーの中には1000枚のチェキが隙間なく展示されていた。

面白いのがそのすべてのチェキが持って帰れる、というか、買って帰れること。もちろんチェキなのですべて一点もの。まさに世界に一つしかない芸術作品を自分のものにできるというのは魅力的だと思う。
最初は「藤里さんの作品を買える(リーズナブルに)」という気持ちでお邪魔した事は否めない。というか、そのつもりだったのだ。最初は。

ギャラリーに入って最初に見えた景色は壁だった。
次に見えたのはギャラリー内でニコニコしている藤里さんだった。
そして最後に見えたのは壁一面に張り付けられたチェキの山、山、山だ。

あまり広くないギャラリーは昔のワンルームを改装したような作りで、玄関に当たる入口の正面はすぐに壁だった。そこには今回の写真展の告知用のポストカードを引き延ばしたパネルが貼ってあった。

視線を右に振ると、ちょこんと座った藤里さんがいつもの笑顔で座っていた。どうもと挨拶をすると、ニコニコしながら前回の現場の話を振ってくれて、ちょっとそれに返事をして、早速写真を見せてもらうことに。

で、写真だ。
今まで見てきた写真展とは違う展示だった。
何しろ一枚が小さいうえに、コンパクトなギャラリーの至る所に等間隔で大量のチェキが貼ってある。どこから見始めていいかもわからずに、とりあえず自分でスタートを決め、一枚一枚見始めていった。

最初に感じたのは、藤里さんの記憶の中に入り込んでいく感覚だった。カメラという媒体を借りて、藤里さんの視線を追体験して、藤里さんの記憶を追いかける。そういう表現なのかと。
ただ、そう感じたのは最初だけで、その視線やその記憶がまるで自分のものであるかのように錯覚してゆく。まるで体験した事のない出来事を、あたかも自分の事のように感じ始めてゆく心地よさだった。

ふと、空白のスペースが目に入った。

そうだ、この写真展は作品を買って、持って帰れるのだ。
その瞬間、正直に言ってぞっとした。決して解像度が高くない記憶のような写真たち。自分の物のように感じていた記憶が、この場所から失われて二度と戻ってこないのだ。忘れるって言うのはこういう事なんだろうか。忘れられるっていうのはこういうものなんだろうか。かわいく、優しく微笑みかける笑顔のチェキが途端に恐ろしく見えた。

藤里さんの写真をずっと追いかけているわけではないので、正確かどうかはわからないんだけれども。
藤里さんの撮る女の子はどこかカノジョ感がする。
画面の向こうで僕と付き合い始めたばかりの彼女がいるような気がする。触れそうな気がする。そしてそれは他人事ではない気がする。
現実の女の子と付き合った時に、感じていた気持ちを思い出させてくれる。

今回の写真展でも同じような気持ちがふっと湧いた。
逆光の、笑いすぎていない写真を剝がして、手に取った。
昔付き合っていた女の子のチェキなんだ。この写真が思いのほか良く撮れて、この写真をきっかけに写真の道に入ったんだよ。ずいぶん昔に別れちゃったけど、幸せになってたらいいな。なんてストーリーが浮かびそうな写真を藤里さんの元に持って行った。

夏目さんの一瞬を自分のものにしたような気持ちになって、写真展を後にした。

感想を書くだけのつもりが怖くなっちゃった。藤里さんの「ゼロ距離」は夏目さんの素敵な瞬間に溢れた写真展でした。僕の感想が合ってるのかどうかはご自身の眼で確かめてください。

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