「独楽吟」抄(『志濃夫廼舎歌集』橘曙覧、井手今滋編、一八七八)
【引用】Wikisource「独楽吟」より十五首選
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橘曙覧(一八一二~六八年(文化九~慶応四年))
橘曙覧略歴
橘曙覧は一九一二年、現在の福井県に生まれる。二歳のときに実母が没し、母の生家である府中の山本家に引き取られて養育を受ける。十歳のときに継母、十五歳のときに実父を失い、出家を試みるも福井の実家に引き戻される。十八歳のときに京都に向かい、頼山陽門下の儒学者児玉三郎の塾に入り儒学を学ぶも、再び実家に呼び戻される。伯父の助力を受けながら家業を継ぐが負債を抱えていく。二十一歳のときに三歳下の酒井直子と結婚する。二十二歳のときに伯父、二十六歳のときに叔母を失う。二十五歳で長女、二十六歳で次女を授かるが、ともに一歳を待たずに病没。二十八歳で三女の健女を授かるが、疱瘡に罹り四歳で没する。
三十三歳で飛騨高山に向かい、本居宣長の門人田中大秀に入門。ここで生涯の友人となる富田礼彦(いやひこ)と知る。三十五歳で足羽山の麓に移住し門弟に教授をはじめる。なお、同年に長男の今滋、翌年に次男の咲久(菊蔵)、三年後に三男の早成が生まれ、五人家族となって家庭を築いていく。
足羽山の家を黄金屋(こがねのや)と称し、貧窮の生活をはじめる。歌集の巻頭歌は
である。「あらし」は「嵐」と「在らじ」の掛詞であり、曙覧壮年の気負いや厭世観が感じられる。曙覧の隠棲に際して妻は親戚から離縁を勧められたが聞かなかった。
三十七歳で山を下り、福井郊外の三橋に家を新築して移転する。藁葺で二階建ての小さな家であり、藁屋と号した。七年後に火災で焼失し、平家として再建、終生をここで暮らすことになる。
寺子屋を開き、寺子・門弟の礼金とわずかな書き物の代金を収入源とする。生活は極めて困窮しており、ある歌の詞書には「塩を無くしてかへかしといひけるに、銭なくして買へざるなり」とあるほどであった。この時期に詠まれたのが連作「独楽吟」である。
四十三歳のとき大病を患うが治癒する。四十九歳のときに学友の富田礼彦と再会。五十歳のときに門弟二人と長男今滋を連れて旅行する。京都で歌人の大田垣蓮月と出会い、以後没するまで交流を続けた。
五十四歳のとき、福井藩主松平春獄が曙覧の家を訪れる。このとき春獄の命令で藁屋を「志濃夫廼屋(しのぶのや)」と改名した。
前年に春獄から煙草を拝受しており、五十六歳のときには藩主松平茂昭から人格を称えられて十俵の扶持米を賜った。五十七歳の五月に病床につく。越前藩に会津征討の命が下り、出征する門下の藩士を激励する歌を詠んだ。王政復古の勅令を喜んだが、同年八月二十八日、明治改元の十日前に死去。没後、長男今滋が橘曙覧自選の第一集~第五集に「福寿艸」を補遺として加え、『志濃夫廼舎歌集』を一八七八年(明治一一)に刊行。
【参考文献】
辻森秀英『定本橘曙覧歌集評釈』(明治書院、一九九五)
奥村晃作『ただごと歌の系譜』(本阿弥書店、二〇〇六)
受容・主要歌人の一首評
まず『和歌文学大系 74』の解説から受容史をみてみたい。なおここでは触れないが、解説者は近世歌人のなかで曙覧を特別視することに疑義を唱えている(曙覧は人間関係に恵まれていたため歌集が出版された。同程度の歌人はほかにもいただろう。という考え。)。
明治初期に出版された『志濃夫廼舎歌集』(一八七八)は、正岡子規「曙覧の歌」(一八八九)によって絶賛される。歌集を子規に貸したのは佐々木信綱である(「福井の一日」)。信綱が『近世和歌史』「徳川末期」(一九二三)において曙覧を高く評価したことの意味は大きい。昭和前期になると皇国史観が相まって評価が定着した。
なお、大正末期に「曙覧研究会」が発足されていたらしい。
青空文庫では子規「曙覧の歌」のほか、折口信夫「橘曙覧」「橘曙覧評伝」を読むことができる。前者は曙覧の勤皇の志について述べたもの。後者は評伝のあと『志濃夫廼舎歌集』から歌が抄出されており、折口の評価を見ることができる。
以下、国会図書館デジタルコンテンツの全文検索機能を用いて、主要歌人が橘曙覧の一首評を抜き出してみたい。ここでは戦前の書籍に限る(雑誌は手に負えなかった)。本noteに既出の歌は選ばない。茂吉のみ例外的に数首にわたる鑑賞文を乗せた。
連作鑑賞(1)「蕎麦いだしてもてなしけるを……」
〔通釈〕蕎麦の実の上皮の角をとったように角ばっていないまるい礼彦のもてな方よ。大勢が円座を作って蕎麦を沢山食べて腹一杯になった。
〔語釈〕「帰るべきなり」帰らなければならぬことだ。「衣手の」枕詞。
〔通釈〕飛騨の国は幾重にも重なった山の向こうである。君も再び来ないだろう、我もまた君の国へ行くことはできないだろう。
〔語釈〕君も越前には来ないだろう。我も飛騨へは行くことはできないだろうと思うけれども、また偶然に逢うこともあるだろう。
※語釈・通釈はは辻森秀英『定本橘曙覧歌集評釈』(明治書院、一九九五)による
連作鑑賞(2)「聚蟻」
〔語釈〕「にはたづみ」は枕詞。「天」には「雨」が掛かっているか。
〔歌意〕いつ雨が降るか知らないではいられないと、皆殺しにあった蟻は懲りただろう。
〔歌意〕微弱な蟻も協力すれば、自分の千倍の重さの物も揺さぶることができる。
〔語釈〕「つはものの法」は『韓非子』のこと。「千丈の堤も、螻蟻の穴を以て潰ゆ。」を踏まえている。
〔歌意〕盾と矛を伏せて敵を待つ方法を説く兵法に登場する土の穴の蟻だ
〔語釈〕「瓤(中子)」はウリ類の果実の種を含む中心部分。
〔歌意〕地面に落ちて朽ちた果実の中子に黒ずむませ蟻が群がっている
〔歌意〕餌を見つけて群れを呼びに一匹が走ったと見ているうちに、長々しい蟻の行列ができている
〔歌意〕穴は必ず物陰に掘る、蟻は上手に軍法を会得しているので
〔歌意〕蟻はすぐさま縦に横に群れを伸ばす、巧妙に軍法を身に着けているので
〔歌意〕何か用事があるように蟻と蟻がうなずきあって西へ東へ走っていく
〔語釈〕「たまりえぬ」は「堪り(=我慢する)」と「溜り(=集まる)」の掛詞。
〔歌意〕花のように広がった一粒の雨のわずかな音に、蟻は我慢できずばらばらになった。石の上のことだ。
※語釈・歌意は久保田淳監修『和歌文学大系 74 布留散東・はちすの露・草径集・志濃夫廼舎歌集』(明治書院、二〇〇七)を参考にした
連作鑑賞(3)「蝨」
〔語釈〕「ひる」は「放る」で卵を産む、産みつける意。「神世」は伊邪那岐命・伊邪那美命の神産みを指すか。
〔語釈〕「おもふどち」は気の合う友達の意。「ちぢむ蝨」に自分を重ねる。
〔語釈〕「恥見する」は恥をかかせる意。
※語釈は久保田淳監修『和歌文学大系 74 布留散東・はちすの露・草径集・志濃夫廼舎歌集』(明治書院、二〇〇七)を参考にした
連作鑑賞(4)「此わざ物しをるところ……」
〔語釈〕「此わざ物しをるところ」は銀の採掘に従事している現場を指す。「洞のうち」は銀山の坑道。
〔歌意〕日光の当たらない山の坑道に入って銀を採掘する。
〔語釈〕「赤裸」は「まはだか」と読む説もある。「あらがね」は精錬する前の鉱石。
〔歌意〕全裸の男たちが群がって粗金の銀塊を打ち砕く、槌を振るって
〔語釈〕「さひづるや」は「から」に掛かる枕詞。「からうす」は唐臼で、臼を地面に埋め杵の一端を踏んで動かす。ここでは銀鉱石を粉砕するのに用いる。
〔歌意〕唐臼を備えて、きらきらと輝く銀塊をついて粉にする
〔語釈〕「筧」は水を引くために多く竹筒でつくられた水路。
〔歌意〕懸樋をわたして引く谷川の水に粉にした銀塊を浸し揺すれば、白露のような銀が手にこぼれてくる
〔歌意〕黒煙を群がり立たせて手も休めずにふいごの風を送って熔解させると、銀がなだれおちてくる
熔解すると灰と分離した白銀の玉が鮮やかに固まって残る
〔語釈〕「荷緒」は馬や車に荷物をくくりつけるための縄。
〔歌意〕銀の玉を数多く箱に入れて、縄で固定して馬を走らせる。
〔語釈〕「御世」は天皇の治世を敬っていう語。
〔歌意〕銀の荷を背負った馬を引き連れて貢を献じる御代の栄華よ
連作鑑賞(5)「病床にありけるままに……」
〔歌意〕満杯の器の魚に鰭を振らせ、海川を見れない自分の目を喜ばせる
〔歌意〕顔の上で水を弾いて飛び跳ねる魚に目を向けることさえ眉がくたびれるのだ
〔語釈〕「広沢池」は現在の京都市右京区広沢にあるため池を指す。寛朝僧正が遍照寺を創建した際につくられたとされ、古来月の名所として人々に親しまれていた。
〔歌意〕窓を通った月が映る水に魚が飛び跳ねている、私の枕元にある広沢池だ
〔歌意〕小さな魚の跳ねて飛ぶ音に、眠るでもなくうつらうつらと寝ている目を開いた。