![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/83341850/rectangle_large_type_2_96dc7fe89d55e66f238a411c5eea4410.jpeg?width=1200)
バロメッツ ――羊を生む植物のはなし
スキタイの羊、リコポデウムなどとも呼ばれた、伝説上の植物、それがバロメッツである。主に中世ヨーロッパで想像された。
バロメッツは、黒海沿岸、中国、モンゴルなどの荒野に分布する植物である。その実からは羊が生まれる。この未は蹄まで羊毛でできており、たくさんのウールが採れる。肉はカニの味がするという。
この奇怪なる植物、バロメッツについて、我らが南方熊楠先生が触れておられるので引用してみよう。
『旧唐書』に払菻国に羊羔ありて土中に生ず、その国人その萌芽を伺い垣を環らして外獣に食われぬ防ぎとす。しかるにその臍地に連なりこれを割さけば死す、ただ人馬を走らせこれを駭せば羔驚き鳴きて臍地と絶ちて水草を追い、一、二百疋の群を成すと出づ。これは支那で羔子と俗称し、韃靼の植物羔とて昔欧州で珍重された奇薬で、地中に羊児自然と生じおり、狼好んでこれを食うに傷つけば血を出すなど言った。『古今要覧稿』に引いた『西使記』に、〈ろう種の羊西海に出いづ、羊の臍を以て土中に種うえ、漑ぐに水を以てす、雷を聞きて臍系生ず、系地と連なる、長ずるに及び驚かすに木声を以てすれば、臍すなわち断ち、すなわち能く行き草を噛む、秋に至り食すべし、臍内また種あり〉というに至りては、真にお臍で茶を沸かす底の法螺談で、『淵穎集』に西域で羊の脛骨を土に種うえると雷鳴に驚いて羊子が骨中より出るところを、馬を走らせ驚かせば臍緒を断ちて一疋前の羊になるとあるはますます出でていよいよ可笑おかし。
十八世紀の仏国植物学大家ジュシューいわく、いわゆる植物羔とは羊歯の一種でリンナースが学名をポジウム・バロメツと附けた。その幹一尺ほど長く横たわるを四、五の根あって地上へ支ささえ揚ぐる。その全面長く金色きんいろな綿毛を被った形、とんとシジアの羔に異ならぬ。それに附会して種々の奇譚が作られたのだと(『自然科学字彙』四巻八五頁)。予昔欧州へ韃靼から渡した植物羔を見しに、巧く人工を加えていかにも羊児ごとく仕上げあった。
さて、いくつか補足しよう。
『旧唐書』の「払菻国」は、唐の時代に使われた地名である。東ローマ帝国、またその首都であるコンスタンティノープル(イスタンブールの前身)付近を指す、とする説が有力だが、アフガニスタン北部を意味することもあるようだ。
南方先生がいう「ポジウム・バロメツ」とは、タカワラビ(またはヒツジシダ、キンモウコウなどとも呼ばれる)のことである。学名は Cibotium barometz 。
根茎の部分に明るい茶色の、柔らかな毛が生えており、たしかにむくむくとした生き物のように見えるシダの一種である。暖かい地域に自生し、日本では沖永良部島以南の琉球諸島でみられる。
シジアというのは地名だろうが、どこを指すのか判然としない。シリア、と読んで良いのだろうか。
何はともあれ、南方先生をして「お臍で茶を沸かす」と言わしめたバロメッツであるが、その原型となった植物にはおおむね二つの説があるようだ。
ひとつは十二支考でも触れられていた、タカワラビこと Cibotium barometz である。ニッポニカのタカワラビの項を少々引用しよう。
……密な毛に覆われたタカワラビの根茎と葉柄基部とを細工するとヒツジのように見えるため、中世のヨーロッパではこれを、マンデビル J.Mandevilleの著した『東方旅行記』に出てくる「タターレアン・ラム」、つまり「ヒツジのなる木」とみなしたという。
もう一つの候補として考えられているのが、ワタだ。ご存じの通り、木綿の原料になる植物である。Wikipediaなどではこちらの説が採用されているようだ。
バロメッツが想像された中世ヨーロッパでは、気候と技術の関係上、ワタの栽培はあまり広まらなかった。当時、繊維の主力をなしていたのは羊毛である。
ヨーロッパで使われた木綿は、一大産地インドからの輸入品だった。ヨーロッパでは栽培されない、繊維を生み出す植物から、「羊のなる木」が空想されたというのである。
どちらの説も、それなりに信憑性がある考えだ。ふたつの植物が伝聞された結果、バロメッツが生まれた、という可能性もあるだろう。
ところで、ひとつ気になるのは、バロメッツの「味」である。
この不可思議な羊の味は、カニに似て美味であるという。
ワタやシダと、カニを結びつける線が、私にはどうしても思い浮かばないのである。これは、バロメッツを食べた男爵の証言によるものだというが、はたしてどのような経緯で、カニ味の羊(植物生まれ)が誕生したのであろうか。
謎は深まるばかりである。
バロメッツについては、ベルトルト・ラウファーとヘンリー・リーの『スキタイの子羊』という書籍が詳しいという。未読であるので、読み次第この項は加筆する所存である。
この記事は、筆者の知的好奇心を刺激してやまない世界中の各事象について、備忘録的にまとめているマガジン『奇怪なる百科事典』の一項である。他の項も覗いてみたいという物好きな御仁は、下記のリンクより目次をご参照いただきたい。