『ウエスト・サイド・ストーリー』を2/16に観た
当初2021年12月公開と宣伝したので、それが2月にずれ込み2/11公開。心待ちにしていた映画。2/16このころは、まだ寒い時期だった。ヨーロッパの状況がどうなるのか日々緊張が高まり、心配でなかなか行く気になれなかったが、公開からほぼ1週間して意を決して出かけた。
観終わって、音楽にもダンスにも引き込まれ、終わったら体がホカホカ。
悲しい終わり方だけれど、全体的にアドレナリンが出る映画。なんといっても音楽、ダンスが素晴らしい。
キャスティングは2018年明けから。映画公開は2020年の夏ごろに報道された。そのときスピルバーグが監督すると知り、なぜ今頃?と思ったけれど、ダンスや映像を現代版にアップデートされ、最初から引き込まれた。2時間、音楽の素晴らしさ、躍動的なダンスや衣装の色・構図にワクワクして、自然とエネルギーが高まってくる。
どんな映画?
だれでもどこかで聞いたことのある曲、タイトルは知っている有名ミュージカル映画。
スピルバーグ監督が1961年版の映画をリメイクするという。1961年版映画は、1957年にブロードウェイの舞台で演じられたミュージカル。その大元は、シェイクスピアが書いた『ロミオとジュリエット』にある。
映画推しの記事
舞台設定は1950年代のまま、ストーリーも大枠同じ展開で、場所や人物設定などディテールを変えて、いまの観客にわかりやすくしている。音楽はほぼそのまま使い、曲順を一部変えたり、歌詞を変えているようだった。新しい曲も1曲あったか。ダンスは大きく刷新され、野外でのダイナミックな群舞が増え、それを演じ踊るダンサーの層の厚さ、レベルの高さに目を見張る。
カメラワークやライティングが素晴らしく、色彩に惹きつけられる。これは撮影監督のヤヌス・カミンスキーによるもの。
新しい要素
居場所 前作は街の中の縄張り争いをしているポーランド系ジェット団と、プエルトリコ系シャーク団の対立がある。それは基本的に変わらないが、2021年版では町の改装のため住む場所が無くなり、生活の基盤がなくなる不安から、居場所がキーワードとして強調されていた。
これは2022年3月現在、戦争状態が重しとなり安心して住める居場所の重要性は高まっている、世界各地にある避難民の問題と重なる。また日本でも、福島などの放射能汚染・災害で居場所を奪われた人たち。また2020年東京オリンピックのために立ち退きさせられた都営住宅・霞ヶ丘アパートの方々にも当てはまる。
ジェット団のリーダー リフは、ジェット団であることに固執している。一生ここに所属することが支えになると信じているようで、それがなければ根無し草になるらしく、団同志の戦いに入れ込んでいる。
銃 61年版ではラストでマリアが銃を手に取るところで銃の存在にフォーカスが向く。21年版では、中盤から何度か銃を使うのか?というセリフのやりとりがある。
明らかに、アメリカでの銃規制が進まない現状への問題意識。
エスニック 前作はほぼ白人で占められ、わざわざドーランを塗って肌の色を濃くして演じていた。1950年代のアメリカ映画界がそうだったのだ。いまからみればそれは異様で、人種や肌の色の程度は幅広いことが法的に求められ、人々の感覚としてもスタンダードになっている。さらにスペイン語のセリフ場面がいくつかあり、そこでは英語の字幕はない。アメリカ人がスペイン語を話そうとすることは実際珍しい。
LGBT 1961年版では、ボーイッシュな女の子がなかなかジェット団に認めてもらえないという役どころが、情報収集役として貢献して仲間に認められる。今作ではLGBTな若者だという設定でくったくなく会話になっていた。
ただアラブ圏では、この場面が問題となり上映されていないそうだ。アラブ圏の文化からすれば先を行きすぎていて受け入れ難いということだ。関係個所だけカットしたバージョンで観てもらいたいくらい、とても残念に思う。
宗教色 これがほとんど消えた。 61年版ではキリスト教の神の元、ジェッツ団もシャーク団も平等だから、と並ぶ場面があったが、宗教色は消えた。宗教の持つ力がこの60年でぐっと弱くなったからだ。これから宗教に変わるもので、人々の支えになり、人々を結びつけるものは何なのだろう?
トニー役が、前科があり仮釈放の身だということは、新しい設定だ。
マリア役、レイチェル・ゼグラー。歌の高音の伸びがすてきで歌の魅力を伝えていた。オーディションで3万人から選ばれた一人で、父親はポーランド系、母親はコロンビア系だという。
主人公マリアのお姉さん役、アリアナ・デボーズ。野外ダンスシーンなど印象的。ダンスが上手で、強い目の演技が印象的。ヒスパニック系アメリカ人。英国アカデミー賞で助演女優賞を受賞。
なぜスピルバーグが撮ったのか?
いまなぜこの映画を撮ったのかという問いを持って映画を観ていた。
1. FOR DAD / 父へ捧げる
とエンドクレジットにあった。
スピルバーグ監督は1961年版のこの映画を、父親と観に行ったそうだ。その後、両親が離婚して離れ離れに暮らす時期が長くあり、スピルバーグは何か割り切れない思いを父親に対して持っていたようだが、この作品を父親へ捧げた、ということは何か気持ちの上で一区切り着いたのかもしれない。
映画もサウンドトラックも身体にしみこんでいる映画へ、深い愛とレスペクトがあふれていた。
2. 映画の作り手へのバトン
もうひとつ。エンドクレジットのなかで、FOR DADと同じフォントで書かれていたものがこちら。
スピルバーグが今を生きる若者たちに、様々な仕事を提供したこと、イコール、チャンスを作ったということ、それ自体が誇らしいことなのだ。エンドロールには、ヒスパニック系・ユダヤ系などの名前が多く、韓国・日本の名前もわずかに見て取れた。
3. 20世紀から21世紀へのバトン
旧作の映画の普遍的なメッセージ「争いや憎しみは何も生まない。」ことを伝えたい。それも自分が培ってきた映画技術・技術の進歩をふんだんにつかって。それは男女の愛に限らず、社会の問題にもつながり、だからこそこの映画が幅広い年代・多くの人に訴求する。旧作には現代にそぐわない点がいくつかあるので、2020年代の観客にも十分訴求力のある作品にリメイクして、" 旧作の素晴らしさ、変わらぬメッセージを現代の若者にも伝えたかった。20世紀から21世紀へ「バトン」を渡すための映画をつくりたかったのかもしれない。
大きすぎた期待
これだけ良かったのだから、普通、映画みたときに満足するレベル。だけど私はちょっと物足りなかった。
期待しすぎだったのかもしれない。
現代のリアルは、経済的にも、家族のつながりも、仕事につくことも、さまざまに厳しい状況がある。それを乗り越える原動力は何か、何をよりどころにできるのか、対処する方法、そのどれかを示してくれるのかと期待していた。(マトリックスでは「愛」だった。) トニーが意識高い系と揶揄されながらも、ヴァレンティーナをメンターとして、自分を育てていこうとする姿勢がそれに当たるものかもしれない。
そこに完結な答えがあるわけではない、
Black Lives Matterがあり、少数民族の弾圧も常態化し、いまや戦争も始まってしまったいま、スピルバーグに答えを求めるのでなく、自分達で考えていかなければならないこと。そういうことなのだろう。
1961年の映画といちばん異なる設定、というかキャラクター付けされていたのは、チノだ。主人公マリアの婚約者という設定は同じ、しかし凡庸な印象のチノがやったことは、かなりかっこいい。シャッターを上げた場面。ここは縄張り争いのレベルを超えた行動だ。
最終曲
トニーやチノたちが慌ただしくするなか、バレンティーナ(リタ・モレノ)がSomewhereを歌い、自分のこれまでを振り返る味わい深いシーンがある。アイルランドの夫と、プエルトリコから来た自分との夫婦でドラッグストアをやってきて、人生を築いていったこと、ここに文化をつくってきたことの回想。これはこれで前作にない新しい意味が感じられた。ただそのために、この曲はラストシーンでは歌われなかった。
(1961年版では歌はほとんど役者ではなく別な人に吹き替えられていたので、今回リタ・モレノが歌う意義は大きい。)
最後は歌詞なしのSomewher。トニーが、死んだと聞かされていたマリアを目にして、お互い走り寄ろうとしたところで、チノに背中から撃たれ、マリアが嘆き、バレンティーナ(リタ・モレノ)が駆け寄り、パトカーが来て、チノがバレンティーナ(リタ・モレノ)に付き添われて自首するためパトカーに近づいていく場面で終わる。
バレンティーナ(リタ・モレノ)が寄り添うことは1961版にはないので、厳しい現実に母性が添えられ、出所したらまた気にかけてくれるだろうなと思わせる救いがある。マリアが呆然と歩き、オーケストラが奏でるSomewhereは美しい。けれど、はかない。ここにSomewhereの歌詞がないと希望が感じられない。
61年版は、Somewhereの歌詞が、愛の元、新しい世界をつくっていこうとマリアに歌わせる。現実の世の中はそうはならなかったけれど、この時にかすかな希望を感じさせるものだった。若い人が作っていくことに期待した部分があったのだと思う。期待される若い世代はエンパワーされる。
それだけ曲の力は大きいと感じた。
21年版は寂寥感いっぱいで本当にやるせない。母性が少しだけ表現されているが、現実はそういうものだというリアリティを突き付けられて、はい、終わり。あえてそこで空手形を出すことはしないのが、スティーブン・スピルバーグ監督なのか。それだけ現実の厳しさが突き付けられているということか。
素晴らしい映画で拍手をしたいのだけれど、ストーリーの展開がそうはさせない、という雰囲気が映画館に漂った。
原作をレスペクトし、現代的リアリティを際だてる
●カメラワーク
細かいことや技術的なことは無知だが、あの構図・ビビッドな色・影の使い方など、とても印象に残る。ヤヌス・カミンスキーが撮影監督をしたことで実現しているらしい。
●曲解説
1961年版のサウンドトラックを聴きまくった時期がある。それほどにこの曲はすごい。音楽をきいているだけで場面を想像できるくらいなのだ。作曲したのは、レーナード・バーンスタイン。
彼はクラシックの指揮者であり、クラシックとポピュラーを股にかけた作曲家であり、若手を育てた教育者でもある。小澤征爾の師のひとりはバーンスタインだ。
「トゥナイト」を歌うトニーとマリア、アニータ、「クインテット」を歌うシャーク団とジェッツ団、この二曲が絡み合い、うねりながらひとつの曲になるところは、オペラのような醍醐味がある。
●比較 1961年版と2021年版
本筋は変えず、場所・歌の順序・役柄設定などディテールを変えて現代版にアップデートしている。いくつも比較サイトがあるようで、そのなかでコンパクトにまとまっていたのたこちらのリンク
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ラストシーンについて個人的には、『ドライブ・マイ・カー』の終盤の劇中劇で、『ワーニャ伯父さん』のセリフ「それでも毎日を生きていきましょう」という言葉は今の私たちに響く。大変な毎日でも、それでも生きていきましょう。そのメッセージの温かさ、地に足がついていて、覚悟とも諦観ともいえる普通の人からの言葉。『ウエスト・サイド・ストーリー』の終わり方より、ずっと今の私たちにフィットしているように感じた。
米国アカデミー賞の期待としては、助演女優賞:アリアナ・デボーズ、撮影:ヤヌス・カミンスキーが受賞すると嬉しいなぁ。
現代版にビビッドな画面をつくれたのは大いに撮影監督(そしてそのように活躍できるようにしたスピルバーグ監督)の力が欠かせない。またアニータ役として61年版リタ・モレノ、21年版アリアナ・デボーズと、いずれもが受賞することになったら素晴らしい。うーむ、監督は・・・この記事を書くからにはスピルバーグ監督推しとするところだが、日本人びいきで滝口監督を希望。
幅広い年代に受け入れられる映画。もしよかったら1961年版も観てみてくださいね。『ウエスト・サイド・ストーリー』はきっと世代を超えて受け継がれていきます。