天からタイまで
タイA-1
私が普段移動するときの話を聞いて欲しい。私は毎日、平均1時間自転車をこいでいる。でも、自転車に乗っている時間が好きじゃない。ついでに歩いている時間も好きじゃない。
自転車の上では何もできない。本も読めないし携帯もいじれないし、手元に書くものを用意せずに考えるのが苦手なのでレポートも作れない。音楽を聴こうにも、両耳にはイヤフォンをさせないので、楽しくない。本当に暇で嫌になる。桜や月がきれいだなあ、と素直に感動する時だってある。でも、大抵はいつも通り、よくある景色でつまらないと思ってしまう。
だから、私はよく、その時見えているものに何かちょい足ししたり、ひねったりしてどうにか楽しくならないか、と妄想している。感動していなくても感想を無理矢理思い浮かべて暇を潰す。一人で歩いているときもよくそうしている。
外国に行けば、すべてが初体験になるのだから、無理して感想を持とうとしなくても感じるはず。そして頭がシゲキされれば新しいことをたくさん思いつくのではないか、と思った。ただし、何を思いついてどうしたいのかはよく分からないけれど。そんなフラフラした動機だったし、お父上お母上から援助金をもらうことを考えると、安く行ける外国ならばどこでも良かった。そうして行き先をタイに決め、1人で1週間行ってみることにした。
3年ぶりに飛行機に乗ることになった。
折角だから日記を書こうと思い買ったノートを、機内では膝にのせていた。1ページ目にこんなことを書いていた。
「私にはまだやっていないことがたくさんあるんだ!!!!」
離陸の時、死ぬかもしれないと思ったのだ。
不安になった理由はいくつかある。まず、乗務員さんが男女ともにルックス抜群であったこと。エアアジア航空は乗務員を見た目で採用してしまっている可能性があった。緊急時に必要な運動神経やら体力やらの心配をしてしまった。また、バードストライクも心配だった。どのくらいの確率なのかは知らないが、とにかく鳥が突っ込んだら死ぬのだ。鳥で私の生死が決まるのだ。絶望を感じた。
命を守ってくれるはずの緊急用ベストも、不安の種だった。使い方をタイ語で説明され、通路の遥か彼方で実演され、なんの情報も入ってこなかった。飛行機が落ちたら、ベストを想像上の使用方法でなんとかするしかないようだった。
そもそも1人で海外に行って無事に帰宅している自分を想像できなかった。常に忘れ物やうっかりミスが多い私が、出国ゲートも無事に通過して飛行機に乗っている。かえって雲行きが怪しかった。どのタイミングで重大な事件が起こるのか、心配でたまらなかった。タイにつく前に事が起これば、つまりは死ぬのかもしれない。自分は何を目指しているのか、答えすら出ていないのに死ぬなんて。受け入れたくない。やってないこともたくさんある。秘密基地を作り終わってない。ロシアにも行ってない。いつかできる予定の彼氏と花火大会にも行っていない。
死んだ時の準備をしていなかったことも後悔した。結局書かなかった遺書、やはり書くべきだった。グーグルドライブの死後委託設定をしておけばよかった。母に憎まれ口をたたきながら家を出てくるんじゃなかった。私が死んだら、私の記憶は全部消えて、生前の日記から推察されるしかなくなるのか。まだ死んでもいいと思えるほどのおもしろいことできてない。機体が上向きになったのを感じて少し泣いた。金髪カップルの隣で1人で泣いた。
ただ、泣きはしたものの、気持ちを盛り上げるための演出として出てくる涙だった自覚はあるのだな。私は涙には2つの種類があると思っている。止めようと思っても出てきて止まらないやつは本気涙、実は止まるけど出てくるやつは盛り上げ涙と命名している。盛り上げ涙なのだった。日本から出たらとても感動するに決まっている、という思い込みで涙したに違いないのだった。
でも、感動するための旅だったのだから、それくらいは自分に許す。
機体が安定すると涙も引っ込んだ。
5時間後、着陸した。ぞろぞろと列を作って降りていく。機長に一言挨拶をする機会くらいあっても良いのに。と思った。ディズニーの乗り物のように乗り終わってからスクリーンに機長が現れる儀式くらいはあってもよいのに。全員死の危険を乗り越えたというのに、淡々としたものだ。拍手したい気分になりはしないのか。切ない気持ちになりつつ、乗務員さんたちに小さく会釈しながら飛行機を降りた。無表情を装ったけれど、勝手に「生還者」になったような気分になっていた。
でも、表面では分からないだけで、私と同じような不安を感じた人もいたんじゃないだろうか。飛行機が無事着陸したら、隣の人と握手して降りてゆく、そんな場面が見てみたいと思った。折角「わかるわかる~」と言い合える相手だったかもしれないのに、他人だからと、すれ違いで終わるのは勿体ない気がした。実際私も話しかけてはいないけど。一人だから思っただけかもしれないけど。
飛行機から空港に入ると、お仏壇のような香りが漂っていた。それがタイの香りのようだった。
死ななくて良かった。