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ベートーヴェンの生涯
はじめに
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、古典派音楽を大成した作曲家として広く知られています。その影響力は今日でも絶大です。ここでは、その偉大な作曲家の生涯を見てみましょう。
ベートーヴェンの生涯
1770年12月16日、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領(現在のドイツ)のボンで生まれました。彼は音楽一家に生まれ、幼少期から音楽教育を受けました。父ヨハンはベートーヴェンを「第2のモーツァルトにする」という思いから、厳しい音楽教育を施しました。その結果、10歳の頃には、教会のミサでオルガンを演奏するほどに成長しました。
その頃、ベートーヴェンはネーフェに師事しました。これは非常に重要な出会いでした。ネーフェからクラヴィーア、オルガン、通奏低音、作曲などを学び、才能を伸ばしました。ネーフェはベートーヴェンを「成長を続ければ、必ず第二のモーツァルトになるだろう」と評したそうです。ベートーヴェンはネーフェへの恩を生涯忘れなかったそうです。
1787年、16歳頃にモーツァルトに師事する目的でウィーンに留学しましたが、2週間ほどで母の危篤の知らせを受けて帰国しました。そのためベートーヴェンがモーツァルトから直接指導を受けた可能性は低いと言われています。またその頃から父ヨハンがアルコール依存症になり、家族を支える役割をベートーヴェンが担うことになりました。
1792年、ベートーヴェンはハイドンに師事しました。しかし、ハイドンは多忙であり、ベートーヴェンのために十分な時間を割くことができず、ベートーヴェンもハイドンから出された課題を全てはこなさなかったようです。それでもハイドンはベートーヴェンのために何とか力になりたいと思い、生活費を支援し、ボン宮廷にもベートーヴェンへの奨学金を仕立てるよう頼んでいました。ベートーヴェンは後年、「ハイドンから学んだことは何もなかった」と述懐しています。しかし、ハイドンの作品や指導を通して多くのことを学んだと考えられます。
ベートーヴェンは20代後半ころから徐々に難聴に悩むようになりました。一時は自殺も考えましたが、芸術家として生きていくことを決意しました。その後も彼は素晴らしい作品を創造し続けました。
そして、1827年に56歳で亡くなりました。
ハイリゲンシュタットの遺書
ベートーヴェンは31歳のころハイリゲンシュタットの遺書と呼ばれる有名な手紙を残しました。これは難聴に悩むベートーヴェンが、自殺を考えるほど悩みましたが、芸術家として生きていくとことを決意する、決意表明書のような趣があります。
ベートーヴェンの創作活動
ベートーヴェンが生きたのは市民が台頭してきた時代でした。そういった中でベートーヴェンの音楽には次のような特徴があると、音楽学者の片山杜秀氏は著書の中で述べています。
・わかりやすい
・うるさい
・新しい
以上3つの特徴をあげています。これは聴衆がそれまでの貴族だけでなく、市民に広がったためです。また産業革命を経て、日常における音が大きくなってきた、と言うことも影響しています。
またベートーヴェンは創作活動において3つのジャンルを大切にしていました。下記にその3つのジャンルを列挙します。
・ピアノソナタ
・弦楽四重奏曲
・交響曲
ベートーヴェンはそのいずれのジャンルにおいても不朽の名作を創造し、後世に多大な影響を残しました。
こうして現在においても、演奏機会が最も多い作曲家のひとりとして、多くの聴衆の心を動かしています。
以上です