何にも出来ないからnoteしてみる
ここ数年辛いことが多くなった。
きっかけは多分アレ、だとは思うけど幼少期からの負の積み重ねもあるだろう。
まず、自分には何にもないと思う。
私の人生の登場人物は何でも出来るように見える人ばかりだ。
どうして主人公である私は何にも出来ないんだろう。
スキルもなければ恋人もいない。自分自身を磨こうという気力もない。
価値がない人間だと思っているから。
人の気持ちもわからないし、大多数の人々と違うことが多すぎる。
早く人間になりたいと毎日思っていた頃もあったけど最近ではそれも諦めている。
自分を咎める日々を送っているが、もちろん幸せな日だってありはする。
ただ、辛い日と幸せな日の比率がおかしいことに嘆いているだけかもしれない。
仕事もしんどい、家庭もしんどい、今年で30歳になることもしんどい。
死にたいの代わりに「しんどい」「つかれた」を使う毎日。
急に「死にたい」なんて言ったら驚く人がこの世界にはたくさんいるからだ。
死にたいなんて思わない人からしたら理解できないだろうし、
同じように死にたい人からしても、公共の場で死にたいなんて口に出すなんて気が狂ってると思われるかもしれない。
死にたい死にたい言ってるだけでかまってほしいだけだろうと思う人もいる。
10人で同じ景色を見ると10通りの感想があるように、
「死にたい」と聞いて思うことも10通りの意見があるのだ。
私が仮に誰かから死にたいと聞いたらどう思うだろう。
父とは10年以上前から別居しているが、以前はよく電話口でこう話していた。
「おまえに会えないと生きてる意味がないから死んでしまいたいよ」
確かその言葉を聞くと私は「そんなこと言わないで」なんて言って宥めていたが、
電話を切って思うことはいつも
「私が生きていてほしいと思うエゴで生かされている父は可哀想なのかもしれない」だった。
父が死ぬと私が悲しい。
悲しくならないために生きていてほしい。
ひどいのかよくわからない。
何を言いたいかもわからなくなってしまった。
なんかそんな感じのことが言いたい。
私が死にたいと言っても母に泣いてほしいのではない。
ただ寄り添ってほしいわけでも違うと思う。
死にたいタイミングで誰にも邪魔されずに死にたいだけだ。
誰かがそばにいるということはストッパーになっている。
それは私にとって良いことか悪いことかわからない。
でも気まぐれでnoteを書き出した。
この気持ちを文字で起こすともやが晴れるかもしれない。
母も泣かずに済むかもしれない。
こんな気持ちを今日は書いてみたけど、
明日はどんなことを書いたら良いのか・・・
何かテーマがあるならそれに沿って書いてみるのも良いかもしれない。
冒頭で記したアレもいつか書いてみようかな。