自分を不要と思う人は、それ以上に自分にとってこそ不要な人だった

SNSで、あるオンラインサロンに属している。

そこでのモヤモヤがどんどん膨らんでいき、
今月はほとんど関わらず、距離を置いて様子を見ていた。

このサロンの主から見て、私はどうやら「存在のない人」化したらしい。
理由は、あまりに低レベルな人生の葛藤を未だにやっていて、
自分たちとは交わる必要がないから。
そして、お金にもならないから(サロンは年間契約してるのだけど)。

ある出来事が起こった日から、
私が何か反応を示してコメントを寄せたものについては、
その人がいつもやるような、ご機嫌な「あらありがとう~」は一切なくなった。

そして今私は様子を見ていて、
主の気持ちに水を刺さないように、ただただ参加することを控えているが、
そのサロンの現状にとてもご満足で、
「最近サロン間の交流もいい感じになってきていて」とのことだ。

鈍感力が強い人なわけではない。
それどころか、非常に細やかな人だ。
そして、私の今抱いているこういう感情についての取り扱いを
熟知して、人に指導もして、
ともすると自分が傷つける立場にすぐになりうることについて、
自覚的でいよう、感情にいつも謙虚でいよう、とまでしている人だ。

そういう人なのに、
そして私はその人が例えばプライベートで自分を優先するがために、相手へのぞんざいな対応を自分で許したり、するような、甘えのある関係ではないのに、
私については
「この人を無意識にぞんざいに扱ってしまったことを自覚した。
けど、いいんだよ。」
と、たまたま自覚的になったときにそのように思いながらも、
その後あっさり自分を許し、受け入れて、
「はい完了」とされてしまうのか。
そしてさらに、私が「いた」ことすら
何もなかったことになることができるのか。
そういう思いを私は持っている。

偶然重なったのだと願ったけれど、
7回様子見して、6回ヒットしてしまったので、
もうこれ以上は私自身に鞭打って、
気のせい、気のせい♪と信じ込ませて、
フラットでいる、ということを、
私は選択できなかった。

「みなさんに返事できなくて申し訳ないんだけど」
という愛にあふれた気持ちも、
ぞんざいにしてもいい人について、記憶から消えたから言えてしまったのでしょうね。
そう思ってしまった。

上述の一件は、今まさに自分の身の上に起こっていることなので、
咀嚼して、消化を完了するにはまだ時間がかかる。

でも、今これを書いていて気付いたことがある。

咀嚼方法について、
こういった生きづらさに対応するために、
今までは、自分の潜在意識を見ていく、ということをしていた。

その方法で行くと、私は世界観として
「私は人に蔑まれる」
というものが深く根付いているから、
「ほらやっぱりそうじゃん」と思う材料ばかり目につくようになるのだ。

今まで私を「蔑んできた」人はたいがい権力者で、
(というか、多分私がそういう場合にばかり注目していて)
私は、生き延びるために、笑顔を湛えながら心で泣いて、
ピエロになって、世を渡ってきた。

でも、最近少し考え方が変わってきて、
「私は人に蔑まれる」
→「だとしたら、その人と関わる必要なんてないんじゃない?」
という思いが出てくるようになってきた、やっと。
やっと。

そして、その思いが出てくる少し前から、
確か今年に入ったくらいから、
何だかそういう自分を殺した関係が
ことごとく削ぎ落とされていってるのだ。

順番が逆なんだなぁ。
「生き延びるためにしがみついてきた関係が強制的に剥がされる」
が先、
「自分を大事にしてくれない人とは関わる必要ない」
と気付くのが後。

先に気付ければ、楽にさっさと、
要らない関係を手放したのにね、苦笑。

最終的に、私の周りには、
どなたが変わらず、いてくれるんだろう。

誰もいなくなるかもしれない。

それでも、
生き延びるために自分が自分を一番蔑み、軽んじてきた
今までよりは、ずっとマシなのだろう。

生きていけないかもしれない。
死ぬかもしれない。

「今死ぬなら、それはそれでいい」
そう思うようになった最近だから、
手離せるようになってきたのかもしれない。

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