人を嫌いになってもいい
こんにちは、アラサーOLきよこです。
ここ最近は周囲の人に恵まれていたので長いこと「人を嫌う」という感情を忘れていました。
しかしながら困ったことに業務上どうしても関わらざるをえない嫌な人が登場してしまいました。
どんなに頑張っても人類全員受け入れるなんて無理ですよね。
今日は、人を嫌いになってもいいじゃない、というお話をしようと思います。
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私は無宗教ですがキリスト教の教育を受けています。
キリスト教の教えとして「隣人を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」というフレーズは聞いたことがあるのではないでしょうか。
つまりどんな相手も許し受け入れなさいという無償の愛(アガペー)です。
別に私は信者でないのでその教えを守る必要はありません。
でも教育とは恐ろしいもので、なんとなくどんな人でも受け入れられる人が人徳者なのだなと、人を嫌ったり疎んだりする感情を持つこと自体が良くないことなのだと長いこと思っていました。
人間はそんな綺麗な生き物じゃないと知っています。
でも、自分がそのようにあれたらいいなとは思っています。
そもそも負の感情というのはとてつもないエネルギーが必要です。
私のように日々低燃費で生きている人間にとっては、出来るだけお近づきになりたくない感情でもあります。
しかしながら、やっぱり私はそんな出来た人間ではありませんでした。
人間は良い面、悪い面合わせ持っていて、一面だけ見て相手のことを決めつけるのはよくないことでしょう。
それは重々承知の上で、それでも好きとか嫌いとかってそんな理性的なものじゃない。
コントロール出来ない本能的なものです。
私は意味もなく、例えば相手の見た目だけで嫌ったりしているわけではありません。
この人は自分のことを傷付ける、と判断した時に嫌いになります。
多分誰でもそうだし、それって一種の防衛本能だと思うのです。
理性でコントロールして左の頬を差し出す必要がどこにあるでしょうか?
そんな相手とは距離をとった方がお互いのためにいいのです。
稀に話し合って手を取り合えるケースはあるかもしれませんが、大体人のことを傷付ける言葉を使う人はそのような機微には疎いもので、極めてレアでしょう。
「嫌い」「煩わしい」「関わりたくない」「妬ましい」そういう負の感情を持ってしまって、ああ自分は嫌な人間だな…、と自己嫌悪に陥ることも多々あります。
しかもそれが「悪い人じゃないんだけど…」みたいなパターンはなおさらです。
悪気なく、自覚なく人を傷付けたりイラッとさせる人は一番質が悪いのです。
嫌いなものは仕方ありません。感情をないことにすることは出来ないのです。
そしたらもう心の中で存分に嫌いだと思うしかない。
思うだけなら誰にも迷惑はかけませんから。
あとは人間として最低限失礼にならない程度に距離を取りながら適当に接すればよい。
そういうことに最近ようやく気付いて、負の感情を持ってしまうことに対して自己嫌悪に陥るのはやめよう、と思いました。
もし負の感情によって自分が人を傷つけてしまいそうになったら、ノートに感情を書き殴ってみるのが良いかもしれません。
私はストレスがたまってどうしようもない時のための、絶対誰にも見せられないノートがあります。
今はnoteにこうやって書くことで、少しずつ自分の感情を素直に受け入れることが出来るようになってきている気がします。
嫌う話とは少し違いますが、友人に「人を傷つけたかもと悩む人は、優しいからきっと大丈夫だよ」と言われたことがあります。
人を嫌ってしまうことに悩む人は、きっとちょっとくらい人のこと嫌いになっても大丈夫です。
嫌いな感情は抱えながら、むやみに自分を責めずに、他人のことは傷つけずに、明日も清く生きていきたいと思います。