出来ないことを直視することは怖いという話
こんにちは、アラサーOLきよこです。
今日は「出来ないことを直視することは怖い」というお話をしたいと思います。
高校の頃、現代文で「山月記」を習いました。おそらくどの教科書にも載っているのではないかと思います。
当時の感想は、プライドの高い人は大変だな、くらいのものでした。
ただ、今になってふと日常の中で思い出すことがあります。
己の珠に非ざることを惧れるが故ゆえに、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。
中島敦、驚くほど的確に人の心を抉ってきます。
私は自分を珠と思ったことはないのでその部分だけは異なりますが、全力で取り組んで出来なかったら本当に能力がないことが露呈してしまう、それはなかなかに恐怖です。
今までの人生、無理かもしれないと思ったことから逃げてばかりだったように思います。自分が好きな趣味でさえ、本当に全力で取り組んだことはあっただろうかと考えるほどです。
昔は、楽器も絵も運動も好きでした。でもいつの頃か、ああ、自分よりはるかに上手い人がいる、と思った瞬間やめてしまったように思います。そのまま続けていれば、今頃は憧れの人たちに近づけていたかもしれないのに。
なぜ、全力で挑む前に逃げてしまうのでしょうか。
李徴ほどでなくともちっぽけなプライドもあるかもしれません、誰しも少なからず負けず嫌いな気持ちもあると思います。
でも、「出来ない」自分と真正面から対峙するのは、悔しい、よりも、怖いという印象が強いです。
「出来ない」こと、それ自体は良いも悪いもなくただの事実です。
しかし、それが証明されることで、可能性として残されていた道が明確に一つ潰えるわけです。
元々人間という生き物は「失う」ことに敏感だと思っています。半ば本能的に失うことには恐怖を感じると思うのです。人を失うことはもちろん、物を捨てる時でさえ多少の苦痛が伴います。
才能がないことが証明されてしまうと、それまでの努力も自尊心も未来の可能性すら同時に失うと、思ってしまっている気がします。
そしてそれはやっぱり怖い。
さらに、その「出来ない」を乗り越えるには、自分の弱さや怠惰に負けない努力が必要なのです。
何もしなければ、苦労もなく、失うこともありません。代わりに得るものもありません。
自分にとって楽な道に進みたくなるのは至極当然のことだと思います。
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出来ないこと、敗北や失敗を恐れる人に対して「自分に期待しすぎ」という言葉を聞くことがあります。
自分への期待値を高く設定している、という意味ではその通りだと思うのですが、個人的には少し違和感を感じます。
ここで言う「期待」はどちらかというと自分の能力を過信しているように見受けられますが、実際には「このラインまでは出来ねばならない」という自分へのプレッシャーに近いと思っています。
例えば、受験であったり、仕事で求められるスキルや資格。自分だけでなく他の誰かの期待も背負っていたり、世間的に求められる要求レベルだったり。
小学生の逆上がりだって、「小学生として求められる世間的な要求レベル」だと思うのです。
つまり、自分に課している要求は、もしかしたら他者の期待をも上乗せした「期待」なのかもしれません。
それを思うと、スポーツ選手のような、常に人の期待を背負って勝負している人たちは本当に尊敬に値します。
私は今でも試験が嫌いです。
TOEICの点数が落ちていることを確認するのも怖いし、勉強してきた資格に落ちたらどうしよう、と震えます。
でも、他人の見えない期待を背負わなければ、実は失うものは意外とないかもしれません。
私が日々直面している程度のものは、可能性を失うことはきっとなく、何度でも挑戦すれば良いのです。
きっと何事も成せる。
そう思えば、少し心が軽くなるような気がします。