短歌の調べを考える――窪田空穂の歌論から
はじめに
先日公開したnoteでは、窪田空穂の評の実例から短歌を読むときの観点を整理しようとした。
さて、空穂の歌論を読むと、彼は「調べ」を特別に重視していることがわかる。
窪田空穂が「殆んど歌の全部」という調べとはどのようなものだろうか。調べについては、新しいものでは『令和5年版 短歌年鑑』所収の座談会「「調べ」の現在」でも検討されているが、十分な答えが出ていないように感じられた(この座談会については5.調べの現在で詳しく言及している)。
このnoteでは空穂が考える三つの調べを検討し、そのうちの一つを短歌の調べとして位置づけることを試みた。そして、この短歌の調べを踏まえると、短歌を読み評するための新たな観点が得られる……かもしれない、と筆者は考えている。
1.様々な調べ
窪田空穂は大きく分けて三つのものを「調べ」だと言っている。なお、空穂は「調べ」と「調子」をほとんど同義で用いている(使い分けている箇所もあるが、全体で統一されているわけではない)。
ここで空穂は、作者の「感情の調子」と「言葉に表わしたもの」としての調子をどちらも調べ(調子)だと言っている。作者の心情と短歌の言葉にそれぞれ調べがあるというのだ。
「「調べ」その物である音」とは、短歌の言葉にある調子のうち言葉の音楽性のことだ。
実は空穂のいう〈言葉に表現された調子〉にはもう一つあり、筆者はそれこそが空穂の言いたかった短歌の調べではないかと考えている。
ひとまずこの三つを次のように分類しておきたい。
●作者の調べ●
●言葉の調べ●
●短歌の調べ●
2.作者の調べ
作者の調べとは「気分の凝集」のことだ。
空穂はこのあと、「如何にして自分の気分を凝集させるべきか」について、洋画家の写生旅行と芭蕉・西行の旅を例に挙げる。
こうした旅行について、空穂は次のように述べる。
つまり、景色を新鮮な目でとらえて、その心の動きを凝縮させたものが調べだというのだ。これは作者の心にある調べだ。
しかし、これを「調べ」と言ってしまうわけにはいかない。このnoteでは短歌の調べだけを「調べ」と言う必要がある。
この作者の「気分の凝集」である調べを、ここでは〈心境〉と呼ぶことにしたい。
3.言葉の調べ
言葉の調べは、言葉の持つ音楽性のことである。先の引用では「「調べ」そのものである音」と言っているが、短歌が言語の表現である以上、それは言葉の音ということになる。
一般的に、調べと言えばこの言葉の調べを指す。たとえば『現代短歌大事典』では調べを次のように定義している。
つづけて、高野公彦は「韻律」という語を検討する。「私流の考えをいえば、「律」はリズムである。「韻」は言葉の響き合いである」と述べたあとで、「韻と律の融合したものが「韻律」であり、また「調べ」である」「あえて区別するならば、「韻律」は「韻および律」という二つの音楽的要素をいい、一方「調べ」は「韻および律」の音楽的効果をいう」としている。
では、調べが韻律であるとして、短歌の韻と律とはどのようなものだろうか。
律は、まず五音・七音・五音・七音・七音という定型の音数律を指す。しかし、短歌は常にこの音数律に従うわけではない。この音数律からブレようとする技法……字余り・字足らず・破調・句跨り・句割れ、自由律……までを律(リズム)として考えることができる。
韻としてまず考えられるのは、日本語ラップのようなはっきりとした押韻や、それに近い対句・リフレインだ。短歌においては、空穂が「百間の大き弥陀堂ひとしきり煙みなぎり京の日くれぬ/与謝野晶子」の評で触れていたように、しばしば子音・母音の反復が押韻として指摘される(この場合はイ段音の反復(つまり母音iの反復)だ)。
しかし、「「韻」は言葉の響き合い」と考えるからには、韻をより広い概念として捉える必要がある。たとえばある音の連なりが、音楽のようにある感情を呼び起こすという可能性は否定できない。また、一首の中で音の響きが変われば、それを転調として指摘することが可能だろう。ここまでを広く短歌の韻ということができる。
引用していなかったが、空穂はしっかりと短歌の韻と律を調べとして指摘している。
ここで空穂は「調べ」と「調子」を区別して用いており、前者が次に述べる短歌の調べ、後者が言葉の調べである。「語呂、調子」「快い調子」という言い方からわかる通り、それは言葉の響きの良さを指している。
ここで空穂は短歌の音数律を調べだと言っている。
つまり、言葉の調べとは短歌における韻と律である。これらを〈韻律〉と呼ぶことにする。
※韻律という言葉は、一般には音数律と押韻のみを指す。ここでいう〈韻律〉は広義の韻律であり、一般にはこれを調べと呼んでいる。
4.1.短歌の調べ・定義
さて、作者の〈心境〉や短歌の〈韻律〉とは異なる、短歌の調べとはどのようなものだろうか。たとえば空穂は次のように言う。
ここでかぎ括弧をつけて語られている「『調べ』」こそが、空穂が短歌の調べとして考えようとしたものである。しかし、「心境の生き加減」が「外へ現われている」もの、という表現ではあいまいなところが残る。
「調子というのは」「言葉にあるものではない」と言われると、3.言葉の調べで引用した空穂の記述と矛盾するように感じられる。しかし、空穂が様々な調べを同じ「調べ」「調子」と呼んでいることを考えれば、これは矛盾ではない。ここで空穂が考えている「調子」は短歌の調べのことである。
空穂がいう短歌の調べとは、「感情そのもの」にあり、「感情を言葉に伝えた、その言葉」の向こうにあるものだということだ。
空穂はこれを次のように言ってもいる。
どのように「現われ」ているのかと言えば、それは短歌の言葉に現れているのだ。
つまり、短歌の言葉から感じられる作者のリアルな心境・感情、短歌の言葉に現れている作者のリアルな心境・感情を、空穂は短歌の調べだと言っているのである。
これを踏まえると、空穂の次の指摘が理解できるようになる。
ここで空穂が言っていることをnoteの言葉で整理すれば、「流暢一点張りの言葉」は言葉の調べ――〈韻律〉――が良いとしても、それは作者の調べ――〈心境〉――に繋がらないから、短歌の調べとしては失格だということだ。
ただ、ここで〈韻律〉から感じられる〈心境〉が短歌の調べなのだな、と考えるのは間違いである。なぜなら、〈心境〉につながるのは短歌の〈韻律〉だけではないからだ。
4.2.短歌の調べ・再定義
短歌の調べとは、短歌の言葉から感じられる(に現れている)作者のリアルな心境・感情のことである。そして、この短歌の言葉は〈韻律〉に限定されるものではない。
これを〈韻律〉に限定してしまうと、あたかも空穂が短歌の音だけから〈心境〉を読みとっていることになってしまう。この考え方はあまり現実的ではない。
実際、空穂は短歌の調べについて次のように言っている。
「材料に離れて存在しているのではない」「意味と即して離れずにいる」というところが重要だ。空穂は短歌の調べを、その意味や内容に貼りついているものだと捉えているのである。
先の引用でも、「調子ある言葉というのは、既に感情を言葉に伝えた、その言葉の持っているもの」という言葉があった。ここでも「その言葉」と言っており、〈韻律〉に限定しているわけではない。
つまり、空穂は短歌の意味や構造に関係づけられた〈韻律〉に現れている作者の〈心境〉に短歌の調べがあると言っているのだ。
図示してみよう。
●短歌の調べ●
【作者】 (作者〈心境〉)
|
【短歌】(意味・構造〈韻律〉)
作者の側から考えてみると、作者は何かに心を強く動かされて短歌をつくりはじめる。うまくいけば完成した短歌には作者の〈心境〉が表現されているだろう。これは(作者⦅心境⦆)→(意味・構造⦅韻律⦆)の流れだと言える。
次に読者の側から考えると、読者は与えられた短歌の響きをその全体と結びつけながら感じとり、そこに作者の心境を読みとることになる。これが(意味・構造⦅韻律⦆)→(作者⦅心境⦆)の流れになる。
……と考えたいのだが、より現実的な読者の読みとしては、まず読んだ歌を秀作とする価値判断があり、そのあとに歌から〈韻律〉を導いているのではないだろうか。つまり、読者は歌から直観的に作者の〈心境〉を感じとり、その解釈を裏付けるものとして〈韻律〉を"発見"しているのだ。読者にしても歌に現れている作者の〈心境〉を第一に感受しているのである。
あくまで中心となるのは〈韻律〉と〈感情〉のつながりだが、その背後には短歌の意味や構造、そして作者そのものが関わってくる。これが空穂の考える短歌の調べの全体像である。
4.3.短歌の調べ・再々定義
さて、空穂の短歌の調べを現代に通用させるためには、一つ大きな問題がある。短歌に現れているのが作者の〈心境〉であるという点だ。
端的に言えば、この考えが成り立つためには「短歌は作者の感情表現である」という前提が作者と読者の間で共有されていなければならない。周知のとおり、現代短歌はそのような位置にはいない。
逆に言えば、この点を修正しさえすれば空穂の考える短歌の調べは今も通用するというわけだ。
では、作者の代わりに誰の〈心境〉と言えばいいのか。……しかしこのnoteでは、○○の声だと答えることはできない。なぜなら、そのためにはかなりの手続きが必要になり、話が大きく脱線してしまうからだ。
一つだけ検討しておこう。たとえばこれを作中主体の〈心境〉とすればどうだろうか。実は作中主体とは短歌の世界で使われる言葉で、次のように定義されている。
問題はないように思える。では、次の短歌はどうだろうか。
この歌には、先の定義にあった「実体験的な詠風から読者が感じられる主人公」は見当たらないし、「それを客観視的に視つめながら描き、あるいは感情を吐露する仮想的な作者」も存在しない。「快速電車が通過します」というアナウンスを聞いている人物を作中主体だと考えることは可能だろうが、それはこの歌の読みを強く限定する。あくまで短歌に現れているのは駅のアナウンスだけで、そこに聞き手はいないからだ。さらに言えば、短歌の調べとは短歌の言葉に現れている〈心境〉を指すから、アナウンスの聞き手の〈心境〉を想像するのは無理がある。
しかし、この歌に誰かの〈心境〉――と言えなければ、感情――を感じることは出来るように思える。どのように考えればいいのだろうか。
大切なのは短歌の言葉の向こうにある何者かの〈心境〉であった。
空穂が『短歌のあゆみ』において、この歌を「悲痛な調べ」と評するためには何があればいいのだろうか。それは、作者(のように見える一人称)でも作中主体でもない。この歌から悲痛な〝声〟が聞こえてくれば十分なのではないだろうか。
そのように考えると、先の中澤系の歌も同じように考えることができる。この歌からは作者や作中主体の〝声〟は聞こえない。しかし、駅のアナウンス(音声)の感情を持った〝声〟は聞こえるのではないだろうか。
中澤系の歌で感情を持った〝声〟が聞こえるのは下の句からだ。「3番線快速電車が通過します」までのアナウンスは、読者が普段聞くものとほとんど同じであり、そこに音声は聞こえても感情を帯びた〝声〟は聞こえない。下の句に至って、定型文を裏切ることで感情を帯びた〝声〟が聞こえるようになるのだ。
ようやく4.2.の定義と図を改訂することができる。
4.2.では、短歌の調べを短歌の意味や構造に関係づけられた〈韻律〉に現れている作者の〈心境〉と呼んだ。これを、短歌の意味や構造に関係づけられた〈韻律〉に現れている、何者かの〈心境〉に繋がる〝声〟と定義しなおそう。そして、図を次のように訂正する。
●短歌の調べ●
【短歌】(〈心境〉に繋がる〝声〟)
|
(意味・構造〈韻律〉)
【作者】がどのように思っていようと構わない。読者はあくまで【短歌】を読むからだ。また、〝声〟の主が問題なのではない。〈心境〉を感じさせる〝声〟が聞こえることが重要なのだ。
このように考えると、先に「読者は歌から直観的に作者の〈心境〉を感じとり、その解釈を裏付けるものとして〈韻律〉を"発見"している」という記述が真実味を帯びてくる。読者は〈韻律〉を読みとるのではなく、まず〈心境〉に繋がる〝声〟を聞いているのだ。
さて、最後の問題が残っている。〈心境〉がしっかりと伝わってくるような〝声〟が聞こえる短歌の調べとは、つまり、〈心境〉(に繋がる〝声〟)が聞こえるような〈韻律〉(に関係づけられた短歌の意味や構造)とはどのようなものを指すのだろうか。具体例に踏み込もう。
5.調べの現在
『令和5年版 短歌年鑑』には「「調べ」の現在」という座談会が収録されている。メンバーは今井恵子、加藤治郎、林和清(司会)、小原奈美の四名だ。
まず、今井恵子は調べについて次のように語っている。
ここでいう調べは「広い領域にわたる用語」という意味で、このnoteの短歌の調べと重なっているように思える。
次に、加藤治郎は調べを「読者側の茫漠とした音楽的体験」だと述べている。noteの定義に従えば、これは〈韻律〉を指している(あるいは、これが今の一般的な調べの定義である)。
次に、座談会では参加者の四人がそれぞれ近年の調べがいいと思う歌を五首ずつ挙げていく。
今井は「四句あたりに重心が来る形」が「短歌らしく私には感じられます」という私的な短歌観を述べたあとで、音の響きや文の構造から四句目に重心がある歌を多く選んでいた。
この歌について、今井は「理屈っぽく言えば、声の存在が徐々に景に移行して、四句の「緑の障子」で景が完成する」と述べている。
加藤はこうした今井の評に対して、「今井さんのお話ですと、総合的な短歌の享受、イメージや意味も含めた議論になってきて、調べそのものの分析とは違うという印象を持ちました」と述べている。前述のとおり、ここで加藤がいう「調べそのもの」は〈韻律〉を指す。また、今井はこれに「音楽性だけを取り出すことが私には出来ない。加藤さんは、今奇しくも「分析」という言葉を使ったんですけど、音韻は分析できても、調べはもっと総合的なもので分析できないという気持ちが私には強くあります。」と返している。
今井の考える調べは、noteの短歌の調べが前提としている短歌の意味や構造に関係づけられた〈韻律〉という考えと重なっている。異なる点があるとすれば、短歌の調べには何者かの〝声〟があるということ、そして調べは総合的なものではあるが、あくまで〈韻律〉の分析が根幹にあるということだ。先に抜粋した短歌評において、その〈韻律〉について全く触れられていないのは評価できない。
筆者は、この歌に期待や焦り、待ち構えるような〝声〟を聴く。それは、今井が指摘しているような文の構造にとどまらず、そこから見えてくる光景、初句・二句の「近くなる」の反復からくる臨場感、そして「ほそく」「開けおく」のhosoku、akeokuの押韻、……、などの複合的な要素から導かれるように思われるのだ。
もうひとつ、加藤治郎の評に触れておきたい。
加藤はこの歌について、「この歌から口語独特の調べを見ていくと、これは促音、詰まる音の美しさなんですね。上の句は「みぞれ」という美しい調べがあって、下の句は促音の入ったリズミカルな調べに転調する。「そうやって会わなくなっていった」かなり意図的に下の句は口語の特徴である促音を使っているんじゃないか。」と述べている。ちなみに促音のリズム感についてはのちに林和清が「口語短歌においては促音のリズムがすごく活かされている」と再度言及しており、話が逸れるが口語短歌に対するこの指摘は記憶しておく価値があるように思う。
加藤の分析は、今井の評とは逆に韻の分析に終始してしまっている。まず秀歌だとする価値判断があり、そうした歌の特徴として〈韻律〉があるという考え方であれば(つまり、〈韻律〉自体が何らかの心情を示すのではなく、単に強調や心地よさを表すのだとすれば)、大きな問題はない。しかしその場合でも、この歌からどのような〝声〟が聞こえるかを考えなければならないし、話が〈韻律〉に終始してはならないように思われる。
筆者はこの歌に悲しい〝声〟を聞く。韻について言えば、加藤が分析しているような下の句のリズミカルな響きが、階段を駆け下りるように遠ざかっていった〈君〉の姿を想像させる。律については、初句と二句、二句と三句の間には「、」があり、三句以降の加速するようなリズムに対してゆったりとした印象を受ける。これには「みぞれ」の音の響きの美しさが関わっているのかもしれない。
「雪はみぞれに、みぞれは雪に」と、二句までは繰り返される自然現象を語っているだけだ。しかし、そうした当たり前の、自然の些細な変化のなかで、〈君〉とはトン、トン、トンと「会わなくなっていった」。〈君〉の姿は見えなくなり、悲しみだけが残る。加藤が「転調」と指摘しているものは、音だけではなく短歌の意味・構造からも指摘できるものである。
加藤治郎の分析は韻の分析である。たしかに調べの分析は韻と律から出発しなければいけないが、そこで終わってはならず、必ず〝声〟の持つ〈心境〉に結びつけられる必要がある(その結びつけが「この歌からは○○という心情が感じられます。それは、……という押韻の響きの良さなどからもたらされているものです」という形をとるのだとしても)。今から考えれば、一般的な定義としての調べは「秀歌にありがちな押韻の規則」というほどの意味になっているのかもしれない。noteで示したように、空穂はそのようには考えていなかった。
わたしたちが短歌を読むとき、その歌から切実な〝声〟を聞くことがある。実際には、読者はその歌の全体を踏まえながら韻律を感じとったうえで感情のこもった〝声〟を聞いているのだ。この〝声〟を、〝声〟から感じられる〈心境〉を、ここでは短歌の調べという。
6.短歌の調べをどう生かせるか?
さて、こうして短歌の調べについて考えてきた。この考えはわたしたちの評に生かせるだろうか。
まずは〈韻律〉の分析だが、韻も律も、それ自体が持つ効果を指摘するのはやや難しい。noteで触れたやりかたとしては、短歌の意味や構造と一致する韻(音の響き)の転調、そして母音・子音の反復が生むひとまとまりの響きが生み出す効果を考えることになるだろう。しかし、短歌の調べと呼ぶためにはそれを〈心境〉までつなげる必要がある。
短歌の調べを〈心境〉を感じさせる〝声〟だと考えたほうが、調べを指摘するのは容易になるのではないだろうか。少なくとも一般的な評の現場では、〝声〟の主のまとまった感情が響いてきたら、それは調べがいい歌なのである。そこには必ずしも押韻が転調がなくてもいい(音の響きや律がそうさせているとも言えるのだから)。これは今のところ、読者の直観で判断すべきものだ。もちろん〈韻律〉を無視していいという意味ではない。
noteの目的はここにある。構造が複雑でなくてもいい、意味が重層的でなくてもいい。感情のこもった声が聞こえる歌を、リアルな声が聞こえる歌を、切なる感情が聞こえる歌をいい歌とする、その評価軸を短歌の評の現場に伝えたかったのである。
本来ではここでTwitterの短歌を引用すべきだが、控えておこう。それは筆者がこれからTwitterやnoteで実践していきたいと思う。
ここではいくつかの有名な歌を引用しておきたい。
これらの歌に、「ハロー」や「煙草いりますか」と呼びかける人物の〝声〟を、そこから見えてくる〈心境〉を聞いてほしい。
もちろん、〝声〟は肉声、つまり会話体の短歌に限定されるものではない。この歌からは、いわば地の文から「海」に来ている作中主体の〈心境〉が見えてくる。
この歌の作中主体の〝声〟にはどのような感情がこもっているだろうか。「戴冠の日」や「風の日」という劇的な場面には目もむけず、「遠くのことや白さ」を考える作中主体からは、どこか達観したような、いやニヒリスティックな、それでいて読者が経験したことのあるような心情が描かれているのではないだろうか。
参考文献
かっこ書きはnoteで言及しなかったもの。
『窪田空穂全集 第7巻 歌論Ⅰ』(角川書店, 1965)
・『短歌作法』第六編
・『作歌問答』歌の調子とはどういうものか
・『歌の作りよう』第四章
・『短歌作法入門』第一章 歌の調べとは何ぞ
・『短歌のあゆみ』三 万葉集
(『短歌に入る道』三 歌の形式、「ロ 調べ」「ハ 語と調べの関係」)
『窪田空穂全集 第8巻 歌論Ⅱ』(角川書店, 1965)
・「歌論歌話」歌の調と綜合力
(「歌論歌話」羽曳野歌話)
『現代短歌大事典』(三省堂, 2000)
『短歌年鑑 令和5年版』(角川文化振興財団, 2022)
奈良県立万葉文化館「万葉百科」(2022年7月9日閲覧)