「メシマズ母」へのオマージュ
料理が不得意な人を「メシマズ✖✖」と言うらしい。そういう意味で私の母は立派な「メシマズ母」だった。
母が作る味噌汁はまずい、と子どもの頃から思っていた。
でもまずいのは味噌汁に限ったことではなかった。母親が作る料理はたいていまずかった。
そう話すと大抵の人は苦笑して「そんなことはないでしょう」と言う。だから、母親の料理のまずさについて説明することになる。
まず切り方がまずい。
サラダの具に、にんじんがよく登場したが、これは煮物か?と思うほど太く切ってある。だから青臭いにんじんの味がそのままする。玉ねぎもよく登場する材料であったが、やはり厚い。しかも、生だからかなり辛い。このおなじみのにんじんと玉ねぎのサラダが出た時には、子どもながらに最悪の気分であった。
他の料理に目を転じると、同じにんじんと玉ねぎが味噌汁の中に、サラダと同じ形で入っている。その隣の肉炒めにも入っている。要は、一緒に切って使いまわしている。なぜ全部に同じ材料が入っているのか、せめて形は変えるなどと、工夫をしないのか、と抗議をする。
ああ、どうして世の中には「作った人に感謝して食べましょう」という美辞麗句があるのだろうか!
これは美味しいものを作る人に対して言う言葉ではないのか?
料理がまずくても、その言葉に従わなくてはならないのだろうか?
そこで、私は仕方なく味噌汁をすする。
味は、薄くてぼやっとしている。
市販で売っているダシは化学調味料が入っているからいやだ、という理由で、母は自分でダシを作る。作り方が適当だから、マズくなる。煮干は入っているが、水の量が多すぎて、パンチにかける。そこに「塩分が気になる」とかで、少ししか味噌を入れない。ダメ押しで先ほどの太いにんじんと玉ねぎが入っている。
食べたことが無い人にこの味噌汁の説明を試みれば、少し魚くさい塩味のお湯に、煮物のごとくにんじんと玉ねぎが浮いている、そんな感じではないか。
ここまで話すと、この話を聞いた人は大抵気の毒そうな顔をして、一途の望を託すようにこんなことも言う。
「お前のオヤジはどうなんだよ。そんなに言うほどまずかったら怒るだろ」
私が薄い味噌汁と格闘している時、横では同じ味噌汁を父はうまそうにガツガツ食べている。お代わりなどもしている。
そう、父は「味オンチ」なのだ。しかも大酒飲みで、大抵酔っ払っている。
酒が第一、食事は二の次。食事はお腹を膨らませる目的でしか考えていない。味もこだわらない。そういう幸せな事情で、母の手料理に文句をつけたことなど一度もない。
私は子供ながらこんな母の料理の味が我慢ならなかった。考えてもみてほしい。毎日マズイものしか出てこなくて文句を言うと「嫌なら自分で作れば?」と母から一笑される。
結局、他の物が食べたければ子供ながらに仕方なく自分で作ることになる。「私が求める味はこれなんだ」と、証明するように私は母へ料理を作り続けた。
その後、私も仕事のために家を離れた。
そして、食に関してちょっとした指導ができるほど技術や知識を習得した。人前でも料理をして指導することもある。
しかし、そうやって一方的に披露したからといって、何なんだろうか、そう思える時もある。
家を出る前、私が料理を作ると、父と母はめちゃくちゃにほめてくれた。
私はそれを当然のことのように振舞っていたが、実は心の中ではとても嬉しかった。
母は、素直に美味しいと言ってくれたと思うが、今思うと褒め方はかなり大げさであったように思う。
そうやって私をうまくのせて、料理への関心を高めさせていたのである。私はそれにまんまと乗せられたのである。
今でも実家に帰ると、母は私が作った料理を大げさにほめてくれる。
でも、今だから分かる。
作った人に感謝して食べてもらうほど、料理人にとって嬉しいことはない。
人に喜んでもらうために料理を作る、それは料理の基本である。
母はそんな重要な事を教えてくれた。
でも、気が付いた時には、母も年でもう私の料理も少ししか食べられない。
母はいつまで私の料理をほめてくれるのだろうか。
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