靴を揃える
私は、娘が生まれたときに、せめて自分の履物くらいは揃えられる人間になってほしいと思った。
しかし、「履物を揃えなさい!」と叱り飛ばすのは何だか違う気がした。
私は、子どもたち(時には妻も)が脱いだ靴を毎回、黙って揃えるようにした。そうすれば、次に靴を履く時に、必ずキレイに揃った状態を見ることになる。これを、とにかく黙って続けた。
すると、上の子はもう中学生だが、今では黙っていても自然と靴を揃えて上がるようになっている。小学生の下の子も徐々にではあるが、靴を揃えるようになってきていて、僕は心のなかで「しめしめ」と思っている。
10年がかりの作戦ではあったが、ちょっとうまくいったので一人で喜んでいる。
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『履物並べから学んだ人生観』田村一二 氏
私は六人の息子を持っているわけですが、
彼らがまだ小さいとき、どうしても履物をきちんとそろえられなかった。
叱っても、そのときはそろえるが、
すぐに元通りに戻ってしまうのです。
それで、私が尊敬する糸賀一雄先生にお尋ねしました。
「しつけとはどういうことですか」と。
先生は、
「自覚者が、し続けることだ」
とおっしゃる。
「自覚者といいますと?」
と聞くと、
「それは君じゃないか。君がやる必要があると認めているんだろう?それなら君がし続けることだ」
「息子は?」
「放っておけばいい」
というようなことで、家内も自覚者の一人に引っ張り込みまして、実行しました。
実際にやってみて、親が履物をそろえ直しているのを目の前で、
息子がバンバン脱ぎ捨てて上がっていくのを見ると、
「おのれ!」とも思いました。
しかし、糸賀先生が放っておけとおっしゃったのですから、仕方ありません。
私は叱ることもできず、腹の中で、「くそったれめ!」と思いながらも、
自分の子供であることを忘れて、履物をそろえ続けました。
すると不思議なことに、ひたすらそろえ続けているうちに、だんだん息子のことも意識の中から消えていって、そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。
外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている自分に気がつきました。
さらに続けていると、そのうちに、そういう心の動きさえも忘れてしまい、ただただ履物を並べるのが趣味というか、楽しみになってしまったのです。
それで、はっと気がついたら、なんと息子どもがちゃんと履物を並べて脱ぐようになっておりました。
孔子の言葉に、
「これを楽しむ者に如かず」
というのがありますが、私や家内が履物並べを楽しみ始めたとき、息子はちゃんとついてきたわけです。
私事で恐縮ですが、ここに教育の大事なポイントの一つがあると思います。
口先だけで人に、
「こら、やらんかい」
とやいやいいうだけでは、誰もついてきません。
自分が楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を、私は履物並べから学んだ次第です。
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挨拶にしろ、靴を揃えるにしろ、身を美しくする「躾(しつけ)」というものは、やり方はいろいろあるだろうが、やはり大切なのは教える側の「在り方」であると思う。
「やり方」より「在り方」
親として手探り状態の子どもとの関わりであるが、これからも楽しみながらやっていきたいものである。
今日もnoteを読んでいただき、ありがとうございます。
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