昔の女
羽を折られてカゴに入れた鳥は、脚と嘴が強くなるのだろうか。
てっきり、私もそのカゴの中の鳥になるもんだとばかり思っていたが、気がついたらカゴが朽ち果てていたので、驚きというものである。
カゴの中には、私が認識する限り、二羽の鳥がいた。
カゴの中にいた鳥のうち、一羽は死んでしまった。
死んだ鳥は、カゴこそが自分の居場所だと思い込んでいたようだ。
朽ちかけたカゴの中でカゴの中の鳥らしく、最後までやかましく鳴いていた。
もう一羽は、今が人生で一番幸せと言わんばかりに堂々と囀りながら大空を羽ばたいている。
彼女の羽は、カゴに入る際に折れたと見せかけて、その実、ちっとも折れてなどいなかったのだ。
私は朽ち果てたカゴの周りをウロウロして、自分にも備わった嘴で残骸をつつきながら、たまに壊れたカゴについて、あれこれ思案したりする。
◆◆
我が家はいわゆる伝統産業を営んでいた関係で、祖父母と、絵付けのできる母親、父親で、敷地内にいくつか建物を建てて暮らしていた。
バブルは崩壊していたものの、私の幼い頃は景気も良く、だからなのか、家族仲も悪くはなかった。
家族を食わせるだけの金はすでに稼いだ祖父
その祖父を支えてきた祖母
みんなから大事にされ愛された、後継である父
祖母の指令のもと家庭の細々した作業をこなし、また自身の経歴を生かして家業を手伝う母
初孫の私
次に後を継ぐだろう弟。
今書き出してみても、構成は悪くないだろう。
土曜日は家族6人で外食し、日曜の朝にはやはり家族全員が好きなパン屋で各々好きなパンを選び、ブランチした。
お茶を淹れるときには、皆が好きな紅茶葉を選んだ。
日曜の午後にはキッチンで作業するのが好きだった私がケーキやクッキーを焼き、弟は庭で虫取り、父は野球を見て昼寝し、祖父はブランデーを飲んで葉巻を吸った。
その間に母や祖母は家を掃除したり、帳簿をつけたり、家の手入れをした。
家には、祖父が買い付けてくる、一枚木でできた何かや、やけに育てるのが難しい変わった植物、ツルツルした石でできた置物、大きい革製のソファーのセット、細かいガラスの酒器、複雑な形の照明などがあり、かなりの頻度で母親がそれらを丁寧に拭いていたのを覚えている。
家のことは祖母と母、定期的に呼ぶ業者が管理しており、隅々まで埃のない家だった。
祖父のために祖母は家事に手間をかけ、祖父母の目があるから嫁である母も家事に手間をかけた。
代わりに、祖父は祖母を定期的に買い物に連れて出た。百貨店、デパート、海外・・・家には外商が出入りし、祖母は好きな宝石を買った。
まあ、そこそこ幸せだったのではないかと思う。
◆◆
いわゆる「家父長制」を支持する人たちは、多分ここまでの世界しか知らないのではないか。
家父長なる人物が経済的にも健康的にも安定している時は、表向きにはそれほど大きな問題になることも少ない。
このシステムがうまく機能しているうちは、仮に何かあったところで、それは第三者がうかがい知ることでもない程度に、うまく取り繕えるからだ。
だけど、実際には、他人の、あるいは本人たち自身の目に見えない細かいヒビが入っていて、何かをきっかけにして崩れ去る、怪しい「準備」も進んでいるものだ。
今にして思うと、祖父が毎週末祖母を買い物に連れて行き、好きなものを買わせるというのも、祖母が若かった頃に、先代(つまり、舅と姑)にいじめ抜かれたことについて、何かしらの負い目もあったのではないかとも思う。
それは後々、叔母から、そして母から聞いて分かったことである。
兵庫から京都に嫁いできた祖母は、自営業者の嫁、という立場で家の中に置かれ、若いうちから先代である舅や姑に毎日嫌味を言われながら、商売を手伝い、何人もの職人の食事の世話をし、後継である父と、その下に叔母を生んだ。
産後も間もない中で、彼女には日々叱責と仕事の山が降りてきていたそうだ。
その傍ら、長男である父は実質、先代の舅や姑に取られたようなものだったようで、彼らが父に好きなだけ金やお菓子を食べさせ、通常の三食を与えるのにも難儀する始末。
逆に言えば、産んだばかりの父を可愛がりたかった祖母は、父の幼少時の子育てから「排除」されていたに等しく、彼が小さい頃の母親としての仕事を、彼女は奪われていたのではないかと思う。
祖母はそれもあって、先代が死んでからは、父に執着するようになったのではないか、と私は踏んでいる。
その傍らで、次に生まれた叔母もまた、「跡取りになり得ない女児」として、誰からも見向きされない子供時代を過ごした。
「お小遣いもお菓子もお兄ちゃんばっかり貰ってたわ。私のことなんか、誰もみてなかった」
叔母は、今でも私と会うと、そんな愚痴を漏らす。
私は初孫ということに加え、幼少期は「大人から見て可愛らしい子供の容貌」をしていたため、弟が生まれるまでは、祖母に猫可愛がりをされた。
祖母は未就学児の私を、宝塚劇場や歌舞伎、知り合いのいる茶会などに連れて行き、そこで私が皆から「人形のように可愛い」「おとなしくて利口だ」と称賛されることを喜んだ。
ある一時期においては、祖母は実子である叔母よりも、孫である私を可愛がっていたのではないかと思う。
祖母から子供を取り上げたり、教育方針に口出しをする舅も姑も、もういなかった。
代わりに、彼女自身が、姑のポジションとなっていた。
母は今、思い出したように言う。
「あんな風に、おばあちゃんにアンタのこと好きにされるのはしんどかった」と。
◆◆
私の家族の危ういユートピアは、私が小学校高学年の頃に祖父が初期癌を発病し、同時に、鬱病を患ったことで、明らかなひび割れが生じた。
働き者だった祖父は、一日中ぼーっとし、医者からやめるように言われているタバコを大量に吸い、ブランデーではなく、安い焼酎をたくさん飲むようになった。
独り言が増え、猫背が悪化し、仕事や経営者の集まりや会議にもあまり参加しなくなった。
そんな祖父の姿に祖母は耐えられなくなったのだろう。
祖母は頻繁に祖父を私たち孫孫の前で罵るようになった。
「働かない怠け者」
「鬱病は甘え」
「あんな風になったらオシマイ」
今では鬱病患者にこれらの声がけをすることは一発で「アウト」という認識が浸透しているが、平成前半期はそんなでもなかったし、今よりももっと〈精神科にかかる〉ということのハードルが高かった。
精神科通いになった身内を恥ずかしいと思うのも、今はあまりない認識だが、当時、とりわけ古い人の間では割とよくあった認識のようだった。
そして、それらの罵詈雑言を浴びせつつも、祖母はやはり、祖父のために懸命に働いた。
薬は一包一包、オブラートに包んで整理し、朝昼夕に飲む薬はきっちり整理された。
無気力に寝転ぶ祖父の隣で、祖母は掃除に精を出した。
無気力な祖父に何を言っても響かないとなると、母や私は「その分」の叱責を祖母から受けた。
私や母親が罵られるのを横目に、父親や弟は当然のようにそこから逃げ出し、寄り付かなくなった。
少しボーッとした子供だった私に、祖母は怒りを向け、その 「中間管理職」 的ポジションに陥った母もまた、私に強い怒りを向けた。
「アンタがだらしないから私まで怒られる」
「アンタが○○もできない人間だから私達が恥をかく」
成長に従って、ストレートでツルツルしていた髪に少しずつクセが出てきた上に、背丈だけがひょろひょろ伸びてしまった私は、祖母がかつて自慢げに連れて歩いた「お人形さんのように可愛い」孫ではなくなっていた。
ある日、私が風呂に入っていると、大きな裁ち鋏を持った母と祖母がどかどか入り込んできて、突然頭を掴んで鋏を突きつけ、髪をつかんで切ろうとすることがあった。
捕まえられた場所が水場で滑る上、自分が裸で皮膚がむき出しであることもあって、大きな鋏に強い恐怖を感じ、懇願して容赦を乞うた。
彼女たちからすると「直してあげなければならない」というだけだったのだろうし、ボサボサに伸びた髪で外を歩かれるのは「恥」だったのかもしれないが、私にとってはただただ恐ろしい出来事でしかなかった。
鋏を突きつけられた、汚らしい濡れ鼠のようで、我が身が情けなかった。
祖母が愛したお人形さんのような小さな「私」はもういない。
背は縦に伸び続け、「真っ白で綺麗だ」と頬擦りされた肌も日焼けしたし、「日本人形のようだ」と褒められた髪は色が抜けて茶色がかり、クセが出始めていた。
呆れた顔でみる大人の女二人の前で、申し訳ない気持ちで一杯になった。
◆◆
夫である祖父が鬱病になり、息子である父は家から、祖母から、ますます逃げるようになった。
家に寄り付かなくなった父親は外で飲み歩き、その額はツケ払いとして日々膨らんで行っていた。
たまに突然、どこかしらから清算のための連絡があり、母や祖母はそのたびに、まとまったお金(数百万円単位)を工面したようだ。
祖父が病気をする前にあった一塊の金は、数百坪ある自宅の維持や、その他土地管理、上記父親の飲み代、父親が導入を決めた家業の設備投資費用に次々使われ、反面、「入り」はほとんどない状態となった。
母は何度か、以前働いていた母方の祖父の会社に戻るとか、働きに出るということを打診していたようだが、そのたびに渋い顔をされたようだ。
「嫁が働きに出て、家の中のことを誰がやるんだ」
その意識が強かったのだろう。
先細りの家からは、出費ばかりが増えた。
鬱病の祖父に目もくれない父は、勝手に不必要な機材のリースや膨大な電気を使う設備の契約を次々結んでくる。
「帳尻」を合わせるために、祖母は、母や孫の行動の一挙一動を取り締まるようになった。
行き場を失った鬱憤は特に、「背ばかり伸びて鈍臭い、お人形のように可愛くはなくなってしまった残念な私を矯正させる」ことに注意が向かったようだった。
蛇口をひねれば「水道代もったいない」
電気をつければ「電気代もったいない」
祖母の金切声を聞くたびに、生きているのが嫌になった。
私が生きているだけで金がかかる。
金がかかると一々祖母の精神が不安定になる。
私を罵る時の祖母は、明らかに何かに怯えており、子供ながらにそれがずっと疑問だった。
彼女は間違いなく、「思い通りに育たない」私を憎んでいるのだろうが、憎いだけでここまで怒るか?
引っ叩かれながら、幼い頭の半分では「本当の目的は何にあるのか」考えていた。
母は祖母が私を引っ叩いて引きずる様子を「アンタが悪いんやで」と合いの手を入れながら見ていた。
そういうことが始まると父親は「食欲がなくなるからやめてほしい」と言いながら飲みに行ってしまう。
そんな両親の姿も、私の記憶にはっきり残っている。
「この人達はどういう気持ちでこの光景を見ているのか」という気持ちはやはり頭のどこかにあった。
◆◆
真夜中に起き出した私がリビングに行くと、祖父がジャバジャバと焼酎を注ぎながら言った。
「アレは、キチガイみたいなもんやなァ」。
鬱病といえども、祖父は認知の面においては冷静なのだと思った。
とはいえ、鬱病を患った彼もまた、必要以上に家族に関わる気はないようだった。
◆◆
私が中学に上がった頃に、祖父は余命宣告を受けた。
肺癌から骨転移し、もう手の施しようがないということだった。
余命宣告は悲劇的ではあるが、突然死よりはずっと良い。
その日から、祖父が亡くなる日に向けての「清算」が行われた。
そこで父が家族に黙っていた借り入れが次々と明らかになったが、幸いにして、我々に残される予定の金はそれを上回っていた。
ついに祖父が亡くなった日、喪主だった父親は葬式に出なかった。
酒の飲み過ぎで体調が悪いという理由だった。
小学校高学年になっていた弟が泣きながら父親に掴みかかった。
家に寄り付かない父親の陰で、祖父が弟の父親の役割を果たしていたのかもしれない。
弟は祖父に懐いていたので、父親を許せなかったのだろう。
私は葬式のために休んだ部活のことを考えていたから、悪い意味で父親に似てしまった。荒れた学校で校内暴力に晒されていた私は、いつしか友達のいる部活に依存するようになっていた。
祖母と母は葬儀屋との打ち合わせや生前に世話になった地元議員、関係各位への挨拶でばたついていた。
◆◆
祖父のいなくなった家の中を、祖母は金切声をあげながら相変わらず、ピカピカに磨き上げる。
彼女のいうことを聞く人はいる一方で、彼女を評価する人はいなくなってしまった。
祖父の世話をすることがなくなり、また、祖父を罵ることができなくなった祖母の鬱憤は目に見えてたまっていった。
もう、彼女を買い物に連れて行き、「好きなものを買っても良い」という人はどこにもいない。
それどころか、祖母は日々支払いに追われる羽目になった。
父は、祖父の死後も行動を改めることはなかった。
むしろ、さらに自由に行動するようになったと言っても差し支えがない。
電話がかかるたびに祖母も母も怯えていた。どこの誰から、いつ何百万返せと言われるか分からない。
家には続々と内容証明が届く。
一体何したらそんなことになるのか。
母は私に耳打ちした。
「ああいう人は、ホンマは商売やらんと、サラリーマンしてた方が良いねんけどな。商談するときに、人件費だのなんだのの経費差し引いての利益がすぐに分からへんみたいやねん。」
「営業行ってはるけど、掴んでくるのはお金にならへん仕事ばっかりやろ。ウチの実家じゃ考えられへん。お祖父ちゃんやったら絶対受けへん仕事ばっかりや。プライドが高いから、断れへんのやと思う。」
母は何度か口を出そうとしたことがあるそうだが、そんな時には祖母までもが「嫁は口出さんとけ」というので、見送ったそうだ。
父の妹である叔母の方が、余程そちらのセンスはあるが、彼女は早々に結婚して家を出て、税理士事務所で働いていた。
女の子供の居場所など、あの家にはなかったから、納得である。
彼女が身内以外の経営者相手に、税の計算をしているのかと思うと皮肉なものだ。
父親の浪費に、潜在的にはヒステリーになるほどの憤りを覚えつつ、それでも祖母自身、嫁や娘に舵取りをさせないというのは、信仰のようなものだろうか。
「なんだかんだ言って、おばあちゃんは誰よりも息子が可愛いんや」
「文句言ってても、パパが使ったお金はおばあちゃんがどうにかしてしまうから、パパもナメてるところがある。結局親がどうにかするから、パパもお金用意する側の苦労が分からんままなんや。」
母は飲み込んだ言葉や意見を私に色々教えてくれた。
聞きながら、私は「一理あるなぁ」と思っていた。
他方で、その母のスタンスは、私が祖母に引っ叩かれているのを「アンタが悪いんやで」と言いながら傍観しているところに通じるものがあった。
こういう、ある種の卑怯さと逞しさがあるから、あんな家でも気が狂うことなく、「嫁」という役割を続けられたのだろう、と私は考えた。
それでいうと、田舎から若くして嫁いだ祖母にはその知恵や立ち回りが足りていなかったともいえる。
◆◆
二羽いた鳥のうちの一羽は、とっくの昔に、カゴに綻びがあることに気がついていた。
カゴのあちこちには隙間ができていたし、鳥達に気を配って、餌を取り替えてくれる〈ご主人様〉はもういないようだった。
〈ご主人様〉の代わりに、夜な夜な大きなネズミがカゴの中を荒らし周り、好き勝手に鳥の餌を食っては出て、食っては出て、を繰り返すようになった。
老いた鳥は、そのネズミがいつか、かつての〈ご主人様〉に育つと、心のどこかで信じていた。
もう一羽の鳥は、大きなネズミが自分たちに餌を運んでくれる〈ご主人様〉にならないことを知っていた。
もう一羽の鳥は、老いた鳥を気の毒に思って、カゴがまだカゴであるという、小芝居をうっていたに過ぎない。
ネズミの餌も、老いた鳥の餌も、カゴの綻びに気がついた鳥が隙間から外に出て準備するようになっていた。
老いた鳥は、カゴが壊れれば壊れるほどますますうるさく囀った。そして、鳥ともネズミともつかない私をつつき回した。
老いた鳥は悲壮なまでに、カゴの中の別の生き物をつつき回し、カゴの中で足を踏ん張っていた。
翼を折って入ったカゴ、羽毛をむしられながらもカゴで暮らすことを選んだ鳥にとっては、カゴが朽ちていくのは堪え難いものに違いなかった。
これまでカゴで暮らしててきた、サンクコスト、みたいなものがあるのかもしれない。
いよいよカゴが朽ちた時、老いた鳥もその寿命を終えた。
カゴの破片を突きながら、鳥ともネズミとも言えない私は思案した。
誰がカゴの中の鳥を作り出したのか。
最初はやっぱり、〈ご主人様〉だったのだろう。
綺麗な声で鳴く鳥を、一日中そばに置いて、卵を産ませたいと思ったし、当時は鳥を捕まえてカゴに入れておくのが、ごくごく一般的だったのだから、それはそうだろう。
しかしながら、カゴが崩れ始めても、鳥がもう必要とされなくなっても、鳥はカゴの中の鳥のままだった。
鳥は長きにわたるカゴの生活で、新しく来た鳥をつつきまわして、鳥が鳥であることを他の鳥に教え込んだ。
〈ご主人様〉が鳥をカゴに入れるときに羽を折ってしまったもんだから、自分と同様に、他の鳥も飛べないものだと、はなから決めつけていたようでもあった。
若い頃に羽が折れたら、そりゃ飛ぶことだって、知らないはずだ。
鳥は、鳥であること以外の人生を知らぬままに死んだのではないか。
鳥であること以外の自分を知らぬままに死んだのではないか。
ネズミとも鳥ともいえない私はまた、鳥とカゴについての思案を続ける。
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