遊民的中国レポート【3】見送る母に望むことと、はじめてのルームメイト
政府奨学金の合格通知が届いたタイミングで私は母親に留学をする旨を告げた。
母親は素直に喜んでくれた。
というよりも、どちらかというと安心したのかもしれない。
わたしはそれまで、金銭問題や父親の問題、そして姉弟間格差の問題について、母親に理不尽な口撃を仕掛けることが多かったのだ。
父親のやらかしたことの「後始末」をしながら家事子育てをしていた彼女に、家族の一心の期待と、私の反抗心が寄せられていた。
当時、父には特段の感想もなかった。
「頼りにならない人間」には、憎しみすらもわかないのだろう。
頼りになる方に、期待も憎悪も寄せられるのかもしれない、と今にして思う。
家庭内の経済状態が落ち着くにつれ、私と母と関係も好転していった。
◆◆
出立前の土曜日、母は近しい親類を集めて、彼女の自腹で私を見送る会を開いてくれた。
わたしは素直に、家族や近しい親類と食事を楽しんだ。
その会に、父親だけは参加しなかった。
母親は勿論彼にも声をかけたが、「用があるから行かない」とのことであった。
すでに母親の扶養に入り、酒と女以外に大した趣味のない父親には、それほど重要な用はなかったので、単に参加したくなかったのだろう。
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初めての海外旅行から約一年後、三つ目の中国入国スタンプを押してもらい、二回目の上海浦東国際空港のイミグレを抜けた私は、一年間の留学生活に入った。
大学は、上海市から比較的近い某都市の「国家重点大学」を選んだ。
「国家重点大学」は、中国政府が認定したいわばエリート校である。
日本で言うところの旧帝国大学、のようなイメージだろうか。
留学前から、行けるのであれば、日本人があまりいない中規模都市の国家重点大学、と決めていた。
日本人コミュニティに頼りたくなかったし、重点大学に来ている「同世代」の優秀な人たちを見ておきたいと思ったからだ。
もしかしたら将来の「上司」もいるかもしれないし。
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関西国際空港まで見送りに来てくれた母親に
「もし私が死亡などしても報道はしないように」
と告げた私は、当たり前に何事もなく現地入りし、数百元で依頼した大学側からのピックアップバスを待った。
今でもその傾向があるが、当時は、邦人が海外で死亡した場合、ネットで被害者である故人やその家族がバッシングされることがあり、私はそれを何よりも恐れていた。
特に女子学生の場合、面白半分に有る事無い事を言われるリスクが高い。
政治情勢が悪いなかで同国で死のうもんなら、より一層「面倒なことになる」ことは容易に想像がついた。
母親に望むことは、国内で面倒な取り上げられ方をされたくないから、私に何かあっても決して騒ぐな、ということだけであった。
なお、病気にしろ事故にしろその他にしろ遺体や傷病者の搬送には金がかかるので、ドケチな私も海外留学保険に入った。
安いところの安いプランを選び、15,6万円だった。
結局、在中時には健康を害することはなかった。
代わりに、買ったばかりのデジカメを盗られることがあり、その補償で保険の世話になった。
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空港には私と同様にピックアップを待つ複数の日本人がいた。
東京の女子大からの2人の女子大生と、九州からの男子大学生。
男子大学生のKくんは海外経験豊富で、すでにユーロ圏の大学に半年在籍しており、そのハシゴで中国に留学に来たと言っていた。中国語もきっと半年で取得できると言っていた。
二カ国を続けざまに留学するなんて、色んな人がいるものである。
ユーロ圏帰りで語学に自信があるからか、彼は上海から留学先の某市までの道中、約300キロメートルのあいだ、英語を通して運転手やスタッフとの通訳を買って出た。
休憩や現在地を告げるアナウンスを、彼は律儀にアナウンスし、東京からの女子大生はきちんとそれを毎回褒めた。
わたしは「この程度の英語ができぬのは我が身の恥やな」と思ってむっつりしていた。
実際に、彼の英語は発音も良く、上等だった。
何となく、さっさと中国語を取得したいと思った。
そういえば、のちのち彼は、「自分が経験した『海外』の中で、中国が一番面倒くさい」と言っていた。
私は中国以外の外国を知らないから、良くも悪くもその面倒臭さを知らないまま一年が過ぎた。
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夜遅くに、留学先の大学に着いた。
現地時間ですでに23時を過ぎていた。寮のカウンターで、デポジットを払わされ、ルームカードキーをぶっきらぼうに渡された。
デポジットかかるとか聞いてねぇな(⌒-⌒; )
と思いつつ、600元を支払った。
※日本円で一万円弱だったかと思う
今思うと大した金額ではないし、むしろ一年の入寮にしては良心的だとすら思うが、当時のわたしは今にも増してケチケチしていたため、少しでも「想定外」の出費があれば、すぐに気が立った。
「貴方のルームメイトはコリアンだよ、多分もう寝てると思うから、静かにね」
と英語で言われたのは分かった。
どんな子なんだろう。
やはり、生粋の韓国人と関わることもそれまでなかったので、少し緊張した。
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薄暗い部屋を開けるとベッドの上に転がる小柄な女の子がいた。すでに眠りにつこうとしていたようで部屋は真っ暗だった。
おそらく彼女も当日に着いたのだろう、スーツケースはそのままそこに放置されていた。
起こすのも悪いな、と思って、暗闇で荷物を開けた。
部屋は小綺麗で普通のホテルのようだけど、かなり狭く(ア⚪︎ホテルみたいだった…)、トイレも風呂もなかった。
トイレも風呂も、ビルの端にある共用のシャワールームと和式トイレを使わなければならなかった。
下水方面に少し神経質なわたしは、今後1年間の生活を思い少し不安な気持ちになった。
不安ながらも着替えを取り出してシャワールームに向かう。
「海の家」のシャワールームみたいな感じだった。
とりあえずお湯が出たので、それは安心した。
※東北などはシャワーの稼働時間に制限があると聞いていたから。
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部屋に戻ると明かりがついていた。
ルームメイトとなる韓国人の女の子は滑らかな英語でわたしに話しかけてきた。
「よろしくね、わたしの名前はH。韓国の中でもちょっと珍しい名前なの。覚えやすいでしょう。これからよろしくね。」
私より一歳歳下で、韓国のK大学法学部の学生だった。
後で知ったが、K大学は韓国の私立の中でもトップクラスの大学らしい。
※トップは言うまでもなく、ソウル大学である。
ソウル大学以外の学生は、みんな彼女を褒めた。
わたしは彼女を通して、韓国の学歴社会っぷりを少し感じることとなった。
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つづく
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