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パレスチナ問題の解決はなぜ難しいの?と思ったら読む記事

この動画の文字起こしです。

第一次世界大戦中、レーニンがソヴィエト政権の樹立を宣言し、「平和に関する布告」を出し、秘密外交を否定しました。そのため、ソヴィエト=ロシアはそれまで各国と結んでいた秘密協定をすべて暴露したのです。

ここでは英仏がロシアと共同で、オスマン帝国領土を分割しようと取り決めていたサイクス・ピコ協定も白日の下にさらされました。他にもイギリスはユダヤ人にパレスチナの居住地の確保を約束していました。そしてアラブ人にはアラブ人の国を約束して、オスマン帝国を内部から崩壊させようと民族運動を支援していたのです。これは三枚舌外交と呼ばれ、批判されました。そして一般に、これが現在にまで続く「イスラエル=パレスチナ紛争」の発端であると考えられています。日本ではパレスチナ問題と呼ばれるのが一般的ですが、より中立的なイスラエル=パレスチナ紛争という表現をこの動画では採用します。

1981年、一橋大学の世界史の第2問にこのような問題が出題されました。

パレスチナ問題は現代の世界できわめて
解決の困難な問題のひとつといわれているが、
この問題の困難さを歴史的に説明せよ。
その際、つぎの語をかならず用いること(300字以内)。

シオニズム バルフォア宣言 中東(パレスチナ)戦争

この動画ではイスラエル=パレスチナ紛争の困難さについて、考察しながらこの問題の歴史を解説していきたいと思います。

パレスチナ地方

もともとこの地は「カナン」などと呼ばれており、聖書において神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれています。つまり宗教的に重要な土地なのです。また、旧約聖書において、紀元前11世紀から紀元前8世紀までイスラエル王国というユダヤ人の国があったとされています。「イスラエル」という国名は、ユダヤ民族の伝説的な始祖ヤコブが神に与えられた名前が由来です。

パレスチナという名前は、イスラエル人が入ってくる前にここに住んでいたペリシテ人の名前が由来と言われています。イスラエル王国はその後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。イスラエル王国はアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされ(前722年)、南のユダ王国は、メギドの戦い(前609年)でエジプトに負けて、エジプトの支配下に置かれました。さらに東より攻めてきたバビロニアの支配下に置かれ(前597年)、10年後にはバビロニアに滅ぼされました。

ここからこの地は周辺の巨大な帝国に飲み込まれていきます。古代ローマ帝国のもとではユダヤ属州やシリア属州となり、ユダヤ人の反乱がおきた後、ユダヤ属州はシリア・パレスチナ属州へと再編されました。

7世紀にはイスラームの勢力拡大に伴って、シリア側とエジプト側の抗争の地となっていきます。11世紀の十字軍ではエルサレム王国というキリスト教国家が建設されますが、エジプトにあったアイユーブ朝のサラディンがこの地を取り返し、16世紀にはマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国の支配下に置かれました。オスマン帝国の支配下ではこの地はシリアと呼ばれました。
こうして第一次世界大戦が始まると、この地は大きな変貌を遂げていくのです。

ユダヤの視点

ユダヤ人にとってこの地は宗教的に重要なイェルサレムがある場所です。紀元前10世紀ごろからエジプトやバビロニアに滅ぼされるまでユダヤ人の国家が存在していたのです。それ以降、ユダヤ人は厳しい苦難の歴史を経験してきました。差別や偏見による被害も受けていましたが、19世紀にはいるとユダヤ人もヨーロッパ社会で溶け込んで生活できる方へと社会は”進歩”していました。

しかしその進歩がまやかしでしかなかったと明らかにしてしまう事件が起きます。それがドレフュス事件です。ユダヤ人のヘルツルはフランス人が「ユダヤ人を〇せ!」と叫ぶ姿を見て、衝撃を受けます。そして「ユダヤ国家」という小冊子を書いて翌年にはスイスのバーゼルでシオニスト会議を開催しました。こうしてシオニズム運動が始まりました。

これはローマ時代に世界各地にディアスポラ(離散)してしまったユダヤ人が故郷で国家建設を目指すという運動です。ここに第一次世界大戦が起きると、イギリスはお金持ちも多いユダヤ人から資金援助を受けるために、バルフォア宣言を発します。

イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の民族ホーム(A National Home)の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う。ただしパレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民的及び宗教的諸権利を害することのない範囲であるべきだ。

という内容で、ロスチャイルドへ送られた書簡でした。とはいえ、ユダヤ国家の建設を全てのユダヤ人が熱望していたわけではありません。各国ですでに地位を築いているユダヤ人はあまりこれに関心を示さなかったし、最も厳格な正統派はのちに建国されるイスラエル国のあり方に反対運動まで起こしています。

アラブの視点

一概には言えませんが、この地にもともと住んでいたアラブ人を、イスラエルに対抗する目的からパレスチナ人と呼ぶことがあります。アラブ人がこの地に住み始めたのは、7世紀以降のことです。イスラームの支配とともに、この地に住んでいた人々のアラブ化が進んでいったのです。

これ以降彼らは様々な大国の支配を受けることになりますが、政治的にも地理的にも商業的にも重要な位置にあるだけでなく、人の移動も多かったため、色々な民族が入り混じっていきました。パレスチナ人はこの地に1000年以上も住み続けていくことになります。

19世紀ごろ、民族主義が強まっていき、ユダヤ人のシオニズム運動が活性化すると、オスマン帝国領だったこの地にもユダヤ人がやってくるようになります。そしてアラブ人もオスマン帝国からの独立を考えるようになります。当時オスマン帝国ではムハンマドの曾祖父ハーシムの血を引くハーシム家38代目当主のフセインがメッカの太守を務めていました。

そして彼は機会があればオスマン帝国から自立することを考えていました。第一次世界大戦が勃発すると、1915年にオスマン帝国を内部から崩壊させたいイギリスとアラブのリーダー、フセインは「フセイン=マクマホン協定」を締結します。

「イギリスは一定の修正を加えて、メッカのシャリーフによって要求されている範囲内すべての地域におけるアラブ人の独立を認め、それを支援する用意がある。(メルシナとアレキサンドレッタの両地域、おおびダマスクス、ホムス、ハマ、アレッポよりも西に位置する地域はアラブ独立国家からは除外される)」

などのほかに、イギリスのアラブへの指導や、適切な統治形態の支援などが記されていました。こうしてフセインたちは1916年にアラブの反乱を起こし、ヒジャーズ王国の成立を宣言しました。さらに1918年にはフセインの子ファイサルがダマスクスを占領し、シリアの独立をも宣言しました。この過程で反乱に参加したのがアラビアのロレンスでおなじみのロレンスです。
しかし、この後、英仏露がオスマン帝国領土を分割しようとするサイクス・ピコ協定、ユダヤ人に国家建設を認めるバルフォア宣言が存在したことが明らかになります。

サイクス・ピコ協定ではフランスの勢力圏、フランスの直接統治圏、イギリスの勢力圏、イギリスの直接統治圏、ロシアの直接統治圏を定めるとともに、国際的な共同管理のエリアも定めました。文面を正確に読み解くと、イギリスの三枚舌外交と呼ばれる3つの約束には確固たる矛盾があったわけではありません。

しかし、各国がどこを狙っており、本当にこの地にアラブが望むような独立は手に入れられるのか、という不信感が掻き立てられることとなりました。しかし、アラブにとって真に問題なのは、もう一つの問題、アラブ同士の抗争だったのかもしれません。アラビア半島にはオスマン帝国の支配が及ばず、ハーイル付近を拠点とするラシード家と、ナジュド地方リヤドを拠点とするサウード家が主導権争いを繰り広げていました。1918年にフセインがアラブ世界の統一を狙い始めたころ、サウード家のイブン=サウードがその敵として立ちはだかったのです。

フセインはイブン=サウードの軍に攻め込みますが、フルマの戦いで大敗北を喫します。しかしサウードはイギリスに介入されることを恐れて、一時的に和睦した後、北部のラシード家の制圧を成功させました。

一方、フセインの三男ファイサルは1920年に大シリア立憲王国の独立を宣言しましたが、フランスがこれを崩壊させ、イギリスはファイサルを保護してイギリス委任統治領イラクのトップへと就任させました。さらにフセインの次男アブドゥッラーがヨルダン川東岸へと軍を進めると、この地をトランスヨルダン(ヨルダン川の向こう側という意味)として彼を首長にし、裏から操ろうとしました。

このころ、フセインはトルコ革命により空位になっていたカリフの座につくことでアラブ世界の統一を狙いますが、イブン=サウードは逆に軽々しくカリフを名乗ったフセインを非難し、フセインをよく思わない人々を立ち上げる口実に利用しました。

こうしてヒジャーズ王国はあっけなく滅び、イブン=サウードがメッカへと無血入城したのです。この争いにおいて、エジプト方面のイギリス軍はハーシム家フセインを支援し、インド方面のイギリス軍はサウード家を支援しました。結果、アラブ人両派はイギリスに踊らされ、最終的にサウード家の勝利へと帰結したのです。

このサウード家がサウジアラビア王国へとつながっていくのです。

イスラエル=パレスチナ紛争の難しさはどこから来ているのでしょうか。1つがユダヤにとってもキリスト教にとってもイスラーム教にとってもイェルサレムが宗教的に重要な場所であるということです。ユダヤ人にとってこの地にはかつて伝説的なイスラエル王国がありました。しかしローマ帝国の支配下でユダヤ人は各地に離散しました。7世紀にイスラーム勢力がこの地に侵入したのに伴って、この地は主にアラブ系の人々が住む場所になります。そこから1000年以上が経過し、ユダヤ人がシオニズム運動を始め、第一次世界大戦においてレーニンが唱えた「民族自決」という概念がユダヤ人の国家建設を後押しし、アラブ人の独立をも後押ししました。

ここにイギリスによるいわゆる「三枚舌外交」が絡むことで、国際情勢の震源地へと変貌を遂げていきます。しかし、この問題の根深さはこれだけではありません。

第二次世界大戦後、現在に至るまで問題は複雑化を続けています。さらに詳しく見ていきましょう。

イスラエル国の誕生

1918年、イギリスは委任統治領パレスチナの占領を開始しました。場所はヨルダン川西部のみで、高等弁務官にはイギリス人のハーバート・サミュエルが就任しました。彼はユダヤ人でもあったため、約2000年ぶりにパレスチナを統治するユダヤ人と評されました。また、占領開始当時、ヨルダン川東部のトランスヨルダンはアラブのハーシム家が統治していました。こうしてパレスチナにおけるユダヤ人とパレスチナ人の対立が強まっていきました。例えば1929年には嘆きの壁事件で増加するユダヤ人移民に反感を持ったアラブ人がユダヤ人を襲撃し、イギリスがアラブ人を鎮圧しました。ユダヤ人もイギリスに反感を持ち、アラブ側ももはやイギリスを信用しませんでした。

事態が動いたのは、ナチス=ドイツによるユダヤ人へのホロコーストです。ユダヤ人をパレスチナに避難させる動きが出てきますが、イギリスはユダヤ人の移民制限を解除しなかったため、ユダヤ人の反英闘争は激しくなります。結果としてホロコーストでユダヤ人の多大なる命が奪われ、国際世論がユダヤ人に同情的になりました。

さらにイギリスもこの地の統治を諦め、国際連合にゆだねることにします。こうして行われたのが「国際連合によるパレスチナ分割」でした。内容は、パレスチナの全人口197万人に対して60万人にすぎないユダヤ人に、パレスチナの約57%を与えるもので、アラブ側に明らかに不利でした。こうして1948年にイスラエル国の独立宣言が行われたことで、アラブ側はイスラエルに戦争を仕掛け、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が始まりました。

パレスチナに住んでいた住民は各地に逃れ、パレスチナ難民と呼ばれるようになります。結果的にイスラエルは分割案よりも多くの土地を占領し、事実上それらをもとに国家建設を行ってしまいました。残されたのはヨルダン川西岸地区と、ガザ地区のみでした。イスラエルの国家の正当性はこの戦争に勝利したことによってのみもたらされたものであり、ここにこの問題の困難性の一つが潜んでいます。

またアラブ諸国は自分の国の弱さを露呈させることとなり、エジプトでは1952年に王政を打倒する革命が勃発。これはイラクにも波及していきました。

第二次中東戦争

1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したことにイギリス、フランス、イスラエルは反発し、第二次中東戦争(スエズ戦争)が始まりました。イギリスはインドルートを確保したかったし、スエズ運河の株主でした。フランスはアルジェリアとの戦争においてナセルが裏にいると疑っていました。イスラエルはシナイ半島の領有権をめぐってエジプトと揉めていました。いずれもこの時代の国が戦争するには十分な動機です。

この戦争はエジプトに不利に進みました。しかし、国際世論はエジプトに味方しました。まずアジア・バンドン会議で勢力をつけていた第三世界、インドネシアやインドはこれを非難しました。さらにハンガリーへの弾圧で国際的な非難を浴びていたソ連も、これをごまかすために英仏とイスラエルを非難します。さらにアメリカも56年に大統領選挙を控えており、朝鮮戦争やインドシナ戦争で国民が反戦的なムードだったため、この戦争を批判しました。

こうして英仏とイスラエルは国際的に孤立し、国連の総会によって撤兵に追い込まれました。当然、ナセル大統領はアラブ世界の英雄だと考えられるようになっていきました。こうしてアラブ民族主義はさらに加速し、ハーシム家が治めていたイラクへも影響が及びます。

1958年、イラク革命によりハーシム王政が打倒され、イラク共和国が誕生します。こういったアラブ民族主義はレバノンにも影響を与え、親米的なキリスト教政権に対するアラブ人のレバノン暴動が発生します。これにアメリカが介入しますが、国際的な非難を浴びて、すぐに撤退を強いられました。

PLOの誕生

パレスチナ難民の中には、イスラエルを敵視し、アラブによる領土奪還を目指す運動が盛り上がります。こうして1964年にパレスチナ解放機構が成立しました。

これを警戒したイスラエルは、1967年に第三次中東戦争(6日間戦争)を起こし、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、シナイ半島などを一気に占領し、圧倒的な勝利をおさめました。この戦争の結果、ナセルの権威は失墜し、サダト大統領が誕生しました。

サダトは1973年にイスラエルへの奇襲攻撃を成功させ、第4次中東戦争を開始しました。イスラエルはすぐさま反撃しようとしますが、アラブ諸国はイスラエルに味方する国には石油輸出禁止・価格引き上げをする石油戦略を展開し、オイルショックを起こします。

こうしてエジプトはシナイ半島を取り返す方向で交渉を進めますが、ガザ地区やヨルダン川西岸地区はイスラエル人の入植が進んでおり、この地域を手に入れることは困難を極めることとなりました。

ファタハの時代

1969年、PLOのトップに過激派のファタハを率いるアラファトが就任しました。PLOはヨルダンのパレスチナ難民キャンプを拠点に過激な攻撃を繰り返しましたが、ヨルダン王政が打倒されることを恐れたヨルダン政府がキャンプを襲撃し、ヨルダン内戦が起きます。こうしてPLOは拠点をレバノンへと移しました。

第4次中東戦争(1973)でエジプトがイスラエルから占領地を奪還できなかったため、これ以降エジプトはイスラエルとの和平を模索し始めます。こうしてアラブ側の足並みが乱れていくのです。

1975年にはレバノンでも内戦が起きました。1977年にはサダトがイスラエルを訪問し、78年にはカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相と和平に合意し、79年にエジプト=イスラエル和平条約を締結。PLOやアラブ諸国はエジプトのこの単独行動に強い不満を抱き、サダトは暗殺されてしまいます。アラファトもこれに激しく反発し、レバノンからイスラエルを激しく攻撃していきました。

こうして1982年にイスラエルはレバノン侵攻(第5次中東戦争)を始めます。これをうけてPLOはレバノンにいられなくなり、チュニジアへと拠点を移しました。そのためアラブ側は手づまり状態に陥りましたが1987年にガザ地区の民衆がインティファーダという運動を開始します。女性や子供までもが武器を持たずに立ち上がり、イスラエルはこれに手を焼きました。

アラファトの失墜

なぜあれだけ過激にイスラエルに反対していたアラファトは和平への道を探ったのでしょうか。一つは権力・名声への固執かもしれません。1991年に勃発した湾岸戦争でイラクはイスラエルへも空爆しました。アメリカなどはイスラエルに対して反撃しないように要請したため、大事にはなりませんでしたが、アラブ諸国がイラクを支持しなかった一方で、アラファトはイラクを支持したためアラブ世界での権威を落としていきました。

その後、父ブッシュとゴルバチョフは中東和平会議をひらき、イスラエル代表とパレスチナ、レバノン代表が顔を合わせました。イスラエルの反対でPLOは代表をおくりこめませんでした。しかしPLOがいなかったからこそ、この会議は何ら進展しなかったのです。

こうして1993年にノルウェー外相の仲介で、イスラエルのラビン首相とアラファトが和平に関するオスロ合意に達します。これをうけてクリントンも両者をホワイトハウスに招き、パレスチナ暫定自治協定が実現するのです。
しかし、ことはそう簡単に終わりませんでした。

歴史において「もしも」は禁句である、とはよく言われることです。古くから続くパレスチナ地方の対立の火種は、第一次世界大戦のころに激しく燃え上がり、現代における解決不能の問題の一つ、イスラエル=パレスチナの問題が生まれました。いったい、何が変われば、このような悲しい争いは生まれなかったのでしょうか。禁句であったとしても、そう考えずにはいられません。

1990年代にこの問題は、解決へと着実に向かっていました。しかし同時並行的に、より問題の深淵へと足を進めた時代であるとも言えます。
21世紀に入ってからのイスラエル=パレスチナ紛争を考えていきましょう。

アラファト政権の腐敗

アラファトは1990年代にパレスチナ暫定自治協定に合意し、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ自治が開始されました。こうしてチュニジアにいたPLO幹部はパレスチナへと戻るのですが、彼らの中では政治的な腐敗が蔓延し、非民主的な政権運営が蔓延っていました。

これに反発したのが若い世代です。この時期に勢力をつけていた八マスは究極の目標としてイスラエルの滅亡を掲げ、イスラーム原理主義に忠実で、妥協を拒みました。そして若い世代は八マスを支持し始めるのです。

イスラエルでは和平をしたラビン首相が暗殺され、2000年にイスラエルの急進派党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教の神殿の丘に立ち入ったことで、第二次インティファーダが発生します。これを率いたのは八マスでした。

これを受けて2001年にはシャロン政権が誕生し、パレスチナへの強硬路線を敷くようになります。これを複雑化させたのが、2001年の同時多発テ口です。これをうけてアメリカがアラブ過激派を攻撃し、アフガニスタンへの侵攻を開始すると、シャロンもアラファトを軟禁状態にします。

アメリカの中東介入

さらにアメリカはパレスチナ和平へも介入していき、イスラエルのシャロン首相とパレスチナ自治政府のアッバース首相をブッシュが仲介し、アカバ会議をひらき、中東和平ロードマップを作成しました。2004年には失意のアラファトがこの世を去ったため、穏健派とみられるアッバースがPLOの後継者となり、和平への期待が高まりました。また約束に沿ってシャロン首相もガザ地区からイスラエル軍の撤退を実行(2005)しました。こうして二国共存という路線が模索されていくのです。

しかし、ヨルダン川西岸地区は手放さなかったことで対立は続き、八マスが更に台頭し、2006年にはパレスチナの総選挙でガザ地区の第1党となりました。首相にはイスマーイール・ハニーヤが就任しました。

こうしてヨルダン川西岸地区はファタハ、ガザ地区は八マスという具合にパレスチナ側は分裂してしまうのです。またイスラエルはレバノン南部でテ口活動を行うヒズボラを攻撃(2006)し、ガザ地区の八マスにも爆撃を加えました(2008)。2009年にはイスラエルで最も強硬派のネタニヤフが政権を握りました。

こうしてイスラエルもパレスチナも妥協を断固拒否する体制が出来上がり、二国共存は非現実的なものとなっていきました。八マスはイスラエルの消滅を目指しているし、イスラエルの中でも大イスラエル主義が根強く残っており、ヨルダン川西岸地区からの撤退を強く拒み続けています。

ここからはご存じの通り、紛争が止まらず、2023年にも戦闘状態に入っています。2000年代以降の犠牲者数を比較してみましょう。圧倒的にパレスチナ側の方が多いです。このアラブ側の軍事力の弱さもまた、この問題を深刻なものにしています。近代兵器を備えたイスラエルの前に、パレスチナ側は圧倒的に無力であり、それはテ口を不可避的に生み出します。

イスラエル=パレスチナ紛争の困難性

この問題の難しさについて整理してみましょう。センシティブな話題であり、個人的な見解を含むため、参考程度にお聞きください。

まずは複数の宗教にとって重要な土地であったことです。ここは宗教という2つの異なる世界観がぶつかり合う土地なのです。2つ目に軍事的に弱いアラブの方に1000年以上住んでいたという正当性があることです。イスラエルには圧倒的な軍事力がありますが、一般にイスラエル存続の正当性は中東戦争を経て勝ち取ったという事実によるものです。3つ目にアラブ側の内部対立です。そもそもパレスチナ地方に住んでいたアラブ側は民族的に多様でした。ここに宗教的な要素や政治的な要素が絡まり、一枚岩ではなくなっています。4つ目は国際情勢です。例えば、戦後世界で世界をリードしていた米ソは人道的な観点からパレスチナ人を支持しつつも、決定的な行動に出なかったことです。アメリカの産業資本家層にユダヤ人が少なくないという事情も影響しているかもしれません。5つ目はイギリスによる「三枚舌外交」です。明確に矛盾していないとはいえ、このイギリスによる外交はこの問題をより一層深刻化させました。

6つ目が国民国家という枠では捉えられない超国家の時代の到来です。例えば、八マスはスンニ派のイスラーム原理主義組織で、軍事組織と社会奉仕組織を有しています。しかしイスラエルと対等な「国家」とは到底言えません。また八マスはある種、イデオロギーのようなものです。組織を崩壊させればなくなるという類のものではないでしょう。

7つ目が情報の錯綜です。2010年代に入ると社会は情報通信技術の恩恵を受けるようになり、SNSやインターネットが高度に発達していきました。ファクトチェックの行われていない個人の感想の域を出ない感情的な情報がSNS上に蔓延し、対立をより深刻なものとしていきました。例えばA国とB国が戦っていて、A国の犠牲者が1万人、B国の犠牲者が100人でも、B国の犠牲者の家族が涙ながらにA国の残虐性を訴えて、拡散に成功すれば国際世論が動きかねません。八マスの報道官は2017年、「八マスは過激ではなく、現実的だ。ユダヤ人は憎んでいない。我々の土地を奪い、命を奪ってくる勢力と戦っているのだ」と述べ、イスラエルは「八マスは世界をだますことに失敗している。イスラエルに数々のミサイルを発射するのが彼らの組織だ」と対抗しています。どちらが正しいのか、気軽に判断することはますます難しくなっています。

8つ目はホロコーストです。ヒットラーが悪の独裁者の典型的イメージと結びついているのに大きく貢献したのがまぎれもなくホロコーストでしょう。ヒットラーへの悪のイメージが人口に膾炙すればするほど、ホロコーストという事実が取り沙汰され、ユダヤ人の厳しい境遇への理解と共感が生まれます。これがイスラエル国の建国という既成事実を生み出してしまい、事態の複雑化を招いたと考えられます。

9つ目は両者間の経済的な格差が大きく、パレスチナ側が経済的にイスラエルに依存する形になっており、対等な交渉主体になっていないことです。パレスチナのイスラエルへの輸出は2010年代後半の時点で8割に上るとのデータもあり、もはやイスラエルなしにパレスチナは経済を維持することができません。ビジネスにおいても、お金を払ってくれているお客さんには頭が上がらないのが基本的な構図です。ましてや他に買ってくれる人がいないのであれば、相手への依存はますます強まるでしょう。

最後10個目は「憎しみの記憶の連鎖」です。ある戦争やテ口が起きるということは、多くの子供が大好きな父親を”敵”に奪われることを意味します。もしくは、成人前後の若い愛する息子を奪われたという両親を大量に生み出すことを意味します。ある女性は愛する恋人を失い、ある男性は幼馴染や親友、パートナーを失うのです。教師は教え子を失い、祖父母はかわいい孫を失うのです。その記憶は死ぬまで消えません。憎しみは何よりも強いエネルギーになります。たいていの楽しいことはすぐに遠い過去の記憶になるのに、強い憎しみは何年たっても昨日の事のように思い出せてしまいます。
もしも、人類が強い過去の憎しみをも乗り越えて、許し、平和な未来をつかむというところへ歩み出せるのであれば、この問題もいつかは終わりを迎えるのかもしれません。

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