いわゆる"異常"な人に話しかけてみた。〜普通とは何か〜
あなたは今までの人生で、「なぜか発狂している人」を見かけたことがあるだろうか。僕は何度もある。
いつも通学で使っている小道があるが、そこには「うおおおおおおお!」と一人で大声を上げながら同じ場所を往復して歩き続けているだけのおじさんが毎日いる。
学生時代は絶対にシャトルラン学年1位だったろう。
この間は、電車で「ふざけんな!」と叫びながら電車の扉を蹴り続けているおばさんがいて、しばらくすると駅員さんに連行された。
たぶん、失恋したのだと思う。
こないだスタバで勉強している時に横に座っていた人は「きえええい、ちょっとやばいよ」「きえええい、ちょっとやばいよ」という言葉を無限にブツブツ呟いているお兄さんだった。
出川哲朗の「やばいよやばいよ」を思い出した。
さて、私たちの多くは「このような人たち」をみたときに、「うわ、変な人がいるな」というような感覚を抱く。
実際、上に挙げた3つの例においても、周りにいた人々の表情を観察すると、例外なく怪訝そうな顔をする。
眉を顰め、目を逸らし、距離をとり、足早にその場をさる。
🤨
こんな感じの顔だ。この絵文字はだいぶふわっとしてるけど。実際はもっと怖い顔をする。
さて、この現象は一体何だろうか。
私たちはなぜこのような人々に対して嫌悪感を抱くのだろうか。
そんな中で僕の脳裏にはある言葉が思い浮かんだ。
「狂気の歴史」
この言葉はフーコーというおじさんの大著のタイトルの言葉で、僕はこの本を本当に気に入っている。
自信を持って「難しいし長いけど価値観が揺らぐほど面白い」とオススメできるので、覚悟がある方は買って読んでみてほしい。
フーコーの言っていることをすんごく薄めると、「理性とかいう発想が生まれたから狂気は嫌悪されるようになっていったんじゃないか」みたいな話だ。
理性という言葉は世界史を学んでいるとよく理解できる言葉だと思う。
(天野) その場合の理性というのはどういうものなんですか。人間を人間たらしめているものを理性と呼んでいるのか。動物と隔てるものとして。
(平野) 精神医学的な理性の定義は、人間らしさとか自己の中のもう一つの理想となるロールモデルみたいな存在ですね。人間の心はフロイトの時代からそうですが、無意識の状態でいつも意識の中に入ってくるものを自我が止めていて、そうしないと人間が知覚する外界と内的な欲求と理性の整合性が取れない。その整合性を取るために自我が何とかしようとしている。その中の一つのコンポーネントが理性だと。
(天野) 脳の一つの働きとして。
(平野) 人間の脳には理性がある。スーパー・エゴというやつですね。
(田中) スーパー・エゴの方が理性なんですね。面白い。無意識ではなくて。
(鈴木) 「我思う、ゆえに我あり」みたいに、私たちは人間だから自分を内的に知覚して言葉で共有できる。でも実は動物に意識や理性がないことを誰も証明はしていなくて、僕たちは人間が特別だと思い込んでいる可能性もある
出典:https://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/pub/267/315/2/4
太字に注目して欲しい。「人間らしさのモデル」というような表現が使われている。
理性という概念自体はすごく捉えづらく、いろいろな文脈を含む言葉であるため一概に言い切ることは危険だが、理性は「普通とはこうだ」という考え方をはっきりと誕生させたとも言える。
「普通の人間はこうだ」が決まったから、それまで楽に生きてこれた狂人は「普通じゃない」というレッテルを貼られるようになったわけだ。
(その前の世界では魔女とか神がかりとか言われてた?)
例えが適切かはわからないが、道端で全裸だと「異常な人」である一方、銭湯で着衣して浸かり始めたら「異常な人」だと周りに思われるだろう。
要するに、「普通とはこうだ」の考え方が今とは異なれば、「道端で発狂している人が普通な人」で「真顔で黙々と歩いている私たちが異常な人」となる可能性もあった。
しかし現実は逆だ。
道端で発狂している人は、理性によって認識できる「普通の人」の定義に収まっていないため、私たちはそう言った人々を異常な人だと認識する。
他の観点でも考えてみよう。
朝早く起きれない人、というのは確かにこの世に存在している。
今時、そう言った人々に対して「お前は社会のお荷物だ!」「社会不適合者だ!」などと発言する「時代遅れな人」はもう絶滅しているだろうが、昔はそういった発想は常識だったと父親から聞いている。
これはなぜか。
社会の「普通」の定義が「会社員は決められた時間に決められた仕事をするものだ」だったからに他ならない。
その普通に当てはまらないからこそ、朝早く起きられない人は悪とされ、排除され、否定される。
現代は仕事の多様化なども相まって、早起きしたからといって社会に価値を生み出せるわけではなくなっているし、それが常識化しつつある。
しかし冷静に考えれば、人間というのは多様で、体質的に朝早く起きるのが難しい人だっているはずだ。
もっと言えば、社会に価値を残すことだけが人間の存在価値ではない。
さんまさんの言葉を引用してしまえば、手垢だらけの文章になってしまうが、本当に、本当に、生きてるだけでいい、のである。
年収やステータス、特定の能力など、そういった社会的な価値を追い求め、それを有する人だけが「普通」な人なのでは、決してない。
それは単なる思い込みだ。
例えば、この世の全ての人間は、創造性や感受性が豊かなタイプの人(タイプA)と、論理的で冷静なタイプの人(タイプB)に大別できる。
タイプAの人に、データ分析の仕事をさせるのは得策ではない。
タイプBの人に、世界に1つだけの音楽を作らせることも得策ではない。
僕はタイプAに当てはまるが、タイプAの人とばかり関わっていると、中には「ロジカルなだけの人ってつまらないよね」というような否定的な発言をする人もいる。
逆にタイプBの人たちを話していると、タイプAのような人間は仕事ができず、ロジックのかけらもない無能集団のように貶す人も見かける。
まぁ、結局のところ、自分の普通の基準でしか他人を見られないし、評価できないからこのような発言が出てくるのにすぎない。
こういう人と会うと、フーコーを読んでみようや!と言いたくなる。笑
それはそうと、僕は今の日本のような「"変な人"に冷たい社会」は絶対に歪んでいくと考えている。
この考えは、安倍晋三射殺事件の知らせを受けて、より一層、僕の中では強まった。
ここで少し話は変わるが、カルト集団が信者を熱烈にさせる手法の1つに、そのターゲットを社会から孤立させる、というものがある。
簡単なロジックはこうだ。
①信者に知り合いを勧誘させる
②信者は周りの知り合いにきみ悪がられ、友人を失う
③信者に対し「我々はあなたのことを理解します、寄り添います」と言う
④信者にとってカルト集団の存在が必要不可欠となる
このようなプロセスにおいては、当然、信者を一般的な情報から隔絶させることで洗脳を強固なものとするという狙いもある。
今回の安倍晋三射殺事件の犯人は、カルト集団に家族を壊された、ということがその動機のようだが、実際、カルト集団に苦しめられている人はわりと多い。
僕の友人にもいる。
カルト集団に所属してしまう気持ちは僕は少しは理解できる。と思っている。
要するに、「社会の普通」に対する負い目が大きければ大きいほど、「宗教」に救いを求めるのだ。
実際、失恋や離婚後にカルト集団にハマった人は何人か知っているし、学歴コンプレックスや受験、就活への疲弊、劣悪な家庭環境などの境遇から逃れるためにカルト集団にハマっていく人も何人か見たことがある。
女性は彼氏への不満を溜め込んだ時に浮気をする、というが、まさにカルト集団もほとんど同じ論理で信者を増やすのだと僕は考えている。
カルト集団自体が力強く信者を増やすのではなく、信者になっていく人はその直前に大きな精神的ダメージを受けているのだと思う。
もちろん、じわじわ蓄積されていく場合もあると思われるが…。
さらに、僕の個人的な考えとして、孤立が更なる「異常行動」を招く、と考えている。
アルツハイマーになったおばあちゃんが、周りから嫌悪されていく中で症状を悪化させたという話も聞いたことがあるし、家族と心を通じ合わせ、話す機会が増えたことで症状が緩和したという話も聞いたことがある。
ということで、僕は実際に電車で発狂している人に普通の顔をして話しかけてみることにした。(高齢の女性、「彼女(She)」と表記します)
彼女「いやだよ!!!!いやだよ!!!」
僕「どうしたんですか?何かあったんですか?」
彼女「そうなんだよ!いやだよ!!!」
僕「何があったんですか!!!!!僕も教えてくれないといやです!!!」
彼女「いやぁ、いやぁ、ひろくんがさぁ、ひろくんがさぁ、どっか言っちゃったんだよぉ」
僕「え、もしかして彼氏さんですか?」
彼女「ひろくん?違うよぉ、好きなんだよぉ、好きだよぉ」
僕「告白したんですか?」
彼女「好きなの」
僕「いいですねぇ、最高じゃないですか!羨ましいです!人生の夏休みですね!」
彼女「そうでしょお(ここでなぜか爆笑してくれた)」
僕「いろいろ教えてくれてありがとうございます!あと、叫ばない方がいいと思いますよ!みんなびっくりしちゃいます!」
彼女「そうだねぇごめんなさいねぇ」
僕「バイバイ!」
これ元々記事にするために話しかけたわけではなくて、本当になんとなく話しかけたので正式な会話内容は忘れたが、大体±10くらいでこんな感じだったと思う。
印象としては、ちょっとずつ意思疎通がしやすくなっていったなって感じ。意外と楽しく話せた。
まぁ、そんな感じの僕の日記でした。そんなことがあったよ、ということです。
今回は滅多にやらない「だ、である」調で文章書いてみました。「ですます」とどっちがいいか読みやすいかぜひ意見ください🧸
【追記】ニーチェの名言に「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」っていうのがありますが、これってこの世の真理を表している言葉だと思うんです。自分が何かを変だ、とか異常だ、と感じた時、向こうもまた自分のことをそう思っていると思われるわけで、自分が正義なのか、悪なのか。正常なのか、異常なのか。考え出すとよくわからなくなりますね。ただ、僕はどんな人とでも仲良くなれたら嬉しい。そう思って適当に生きていきます。
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いじめ、というのは難しい問題ですし、なぜ起きるのか、というところも考え出すと終わりがないなぁと思います。
ただ、いじめられる人が「クラスにとっての普通じゃない人」なのだとしたら、異常な人を排除しようとする力学なのかもしれません、、、
正常と異常について、皆様どう思いますか?
ぜひ休んだり、冷静に俯瞰する機会を設けてくださいね、、、
これは間違いないですよね、、、
環境によって常識は本当にかわります、、、世界は広いです、、、
「普通は呪い」かぁ、その通りだろうなぁ。「普通」に自分を合わせることができる人はたくさんいるけど、真性の普通の人なんていないからなぁ。。。
普通ってすごい民主主義的ですよね、多数決みたいな。
みんな裸なら、普通は裸ですしね、、、
普通になりたい、という感情は誰しもがおそらく持っているものなのかなぁ、と思っています。
普通って難しいですね。。。
なるほど、面白い記事です。勉強にもなります。
これは本当に大事なことを言っていると思います。
以上、異常や普通に関する記事をたくさん読んだのでいくつか紹介させていただきました。ありがとうございました。
🧸