小学生から現在までのメンタルの記録と考察1
小学校
物忘れや持ち物の管理はできなかったが、特に酷い困り事もなく過ごす。
過集中が読書に向きがちで、本を読んでいる間は周りのことが目に入らなかった。
習い事はサッカーをやり、周りの友人との関係も良好だった。
後から振り返れば、自己肯定感の低さの原因は小学校時代の親との関係にあったと思う。
虐待や放置の傾向は全くなかったが、躾や勉強の指導は厳しめだった。
特に、父親の叱責の仕方が嫌だった。小学生相手に完全に理詰めで叱るので、こちらが思ったことを言ったり反論したりしようとすると「言い訳するな!」と怒られた。
この頃から、自分の意見や感情をあまり人に見せずに封じ込め、他人の言動を常に伺う癖が付いていた。
また、褒められた記憶よりも叱られた記憶の方が強く残っているから、当時の俺は深層心理では親からの愛情を疑っていたのだと思う。
ただ、親の教育が間違っていたとは俺は(今は)あまり思っていない。この頃の教育のおかげで思考力や論理力は平均よりも大分高い水準に達したし、そこそこ心優しく、他人の気持ちを推し量れる性格になったのも結果的に親のおかげだ。
当時の親の教育を否定してしまうと、今の自分を否定してしまうことになる。
この事については病み始めた高一の頃から七年間考え続けて向き合い続けて、自分の中では決着がついている。
今振り返っても、やはり当時の親の教育が常識から大幅に外れていたとは思えない。
自己肯定感の低さが親に起因しているのは間違いないが、原因はそれだけではなく、言語能力に偏りすぎた発達特性とか、遺伝要因・環境要因の俺の性格とか、IQの高さとか、愛情を受け取る側の俺にも原因があったのだと考えている。
現在は親との関係は良好で、愛情を疑うことは無いし、過去から現在までの教育や支援に多大な感謝を感じている。だから、俺は掘り返す必要は無いと思っている。心理カウンセリングを受けたらまた違うことを言われるかもしれないが、言われたらまたその時に考えればいい。
小学校時代についての話はこれで終わり。
中学校
中学校になってもサッカーを続けた。サッカーは下手だったのでスタメンにはなれず、ベンチに入れなかったこともあって、それが悩みだった。でも、サッカーもサッカー部の友達も好きだったので、特に苦痛には感じず、三年間部活をやり切った。
定期テストも模試も点数が良かったので、親から小言を言われる機会が減った。小学生の時は進研ゼミを溜めていることで叱責を受ける事が多かったけど、中学校ではテストの点数がずっと良かったので、あまり厳しく言われなかった。
ただ、定期テストで良い順位を取ったら友達からは褒められるけど、家ではそれが当たり前だったので、褒められなかったのは悲しかった。テストの結果を見せてもどうしたらもっと良い点数が取れるかというアドバイスがメインだった。このことも自己肯定感の低さに繋がっていると思う。
高一
高校は進学校だったので、成績が良いというアイデンティティが無くなった。
部活は放送部と軽音部に入った。軽音部にはギターも勉強もできて、顔も良くて性格も良いケンタロウ(偽名)という友達に出会った。俺はこいつのことを自分の完全上位互換だと思った。
中学校までは自己肯定感の低さを成績が良いというアイデンティティで補っていたが、それが上手くいかなくなって、俺は高一の5月頃に自分の自己肯定感の低さを自覚した。
このままだと自分が病むと思って、その年の夏休みにヒッチハイク旅に出た。
完全上位互換のケンタロウも、ヒッチハイクはできないだろう。勉強やギターというアドバンテージが無くても、周りの人ができないことをやればアイデンティティを保つことができるだろう。そういう理由だった。
結果から言えばこの試みは成功だった。普段の素行も相まって、高校では「勉強はできないけどヒッチハイクや奇抜なことを色々やる変な奴」という唯一無二の個性を獲得した。これが無かったら俺は自分を支える精神的な支柱を見つけられず、高校を卒業できなかったかもしれない。
ただ、一度露呈した自己肯定感の低さは簡単に覆い隠せるものではなかった。
俺は自分とは何か、自分と他者とは何かという問題に取り組み始め、思考の渦に呑まれていった。高一の九月ごろだ。
思考は悪で病だ。思考より感情、理論より行動の方が優れている。身体性なき思考は自我を脅かす存在だ。
俺はこのことに、大学三年生にしてようやく気付いた。高校の頃は思考を高尚な存在だと思っていた。
そうして精神を本格的に病み始め、自傷的な汚言症が始まった。頭の中で過去や未来の「現在でない自分」をもう一人想定して、その自分に対して「死ね」「うるさい」などの暴言を吐くようになった。運動チックも確かこの頃から始まった。
授業中に立ち上がって叫びたくなる衝動に駆られて、それを抑えるために机の下で自分の手をつねったり、シャーペンの芯を指に刺したりしていた。
11月頃から学校に行くのが本当に苦痛だったが、親に相談するという選択肢はなかった。表面だけでも真面目で良い子でいたかった。だから午前中は授業をサボり、午後の授業だけ頑張って行くようにした。
元中の友達に誘われてタバコやお酒を初めてやったのもこの頃だった。でも別に常習はしていなかった。
この時は多分遅めの反抗期で、親からのストレスが半端なかった。でもそれを表に出せない性格だから、そのストレスを親にぶつける代わりに家の壁を殴って発散していた。
2月頃になると少し精神的に落ち着いてきて、衝動も少なくなってきた。この時初めて親と学校の先生に相談し、カウンセリングを受けた。でも既に自分の中で色んなことを考え抜いて諸々の決着が付いていたので、カウンセラーにも特に何も言われず、精神科にも行かなかった。今思えば、カウンセラーの前でも少し演技をしていたのかもしれない。
高一の秋から冬にかけてが、高校時代の精神状態の谷場だった。親への反抗心と衝動性が一旦収まり、気分の波と汚言症が後遺症として残った。
高二
高二は部活で忙しい時期だった。俺の高校の放送部は全国でも稀なほど忙しく、大会前は毎日学校に居残りして日付を超える頃に終電で家に帰っていた。
軽音部の方では部長に就任して、バンドも幾つか掛け持ちして、こっちも忙しかった。もっとも、途中からは時間的な問題で仕事ができなくなって、途中からは友達に業務を丸投げしていた。
勉強は全く手についておらず、定期テストは学年300人中280位くらいの点数だった。でも、親はこの頃には俺を信頼してくれていたので、「やる時にはやるだろう」という考えで特に勉強しろとは言わなかった。
放送部、軽音部の兼部のせいで睡眠時間が少なく、常に忙しい状態だったが、気持ちは充実していた。忙しくなればなるほどやる気が出てきて、短時間睡眠でハードワークをこなしても体力が持った。ただし、大会やライブが終わった後は燃え尽きて抑鬱状態が続いた。
とは言っても一番長い時で1ヶ月くらいで、学校には辛うじて行けていたので、今ほど酷い鬱は経験していない。
6月に放送部の県予選、7月に学校祭と全国大会、8月、9月にライブが3回あって、全部終わって燃え尽きたのが9月のことだった。
そこから3ヶ月程部活のやる気が無くなって、多分あまり顔を出さなくなった。
代わりに、9月に修学旅行で京都に行って、ぼんやりと京大に入りたいと考えるようになった。今まで全くやってこなかった勉強に手を付け始めて、部活二つと受験勉強の両立は無理だと思って12月のライブで軽音部を引退することを決めた。
11月から1月にかけて、受験勉強を進めながら短編映画の製作をしていた。10月までは俺のやる気の問題で製作ができなかったのでかなり急ピッチの製作だったが、何とか締め切りに間に合った。
1月末に作品がノミネートされたとの連絡を受けて、2月頭に筑波市に行って審査会に出席した。
優勝できるとは1ミリも思っていなかったが、審査委員長の映画監督が作品を気に入ってくれて、まさかの最優秀賞を貰った。
賞金と、フランスの映画祭への招待をもらって、高三の7月にフランスに行くことが決定した。
また、勉強も順調で、このペースならギリギリ合格に間に合うと思ったので志望校を京大に固めた。親に塾に行かせてほしいと話したら参考書があれば充分だろと言われて効果的な反論が思いつかなかったので諦めた。その代わりに、Z会の通信講座に入会して、英語と国語の添削だけはやってもらうことにした。
高三
5月には放送部の地区大会、6月には県大会があった。全国大会を目指して頑張ったけど、県大会で止まってしまった。悔しくてみんなで泣いた。
7月には先述の映画祭に出席した。全部で10日間の滞在だったが、安いホテルや航空券を探して費用は賞金や餞別で賄うことができた。
初めての海外一人旅はめちゃくちゃ楽しかった。日程がモロ被りしてしまって最後の学校祭に出れなかったが、後悔はしていない。
現地では上映会の後に登壇して喋ったり(流石に通訳付きで)、日本語教室の学生達とご飯を食べたり、普段できない経験ができた。
大きなトラブルもなく帰国して、その後は勉強に集中した。
多分、高校に入ってから現在までで、受験に専念していた期間が一番メンタルが安定していた。
元々成績が悪い所からのスタートだったから大きなプレッシャーもなく、勉強するほど成績が良くなっていくので悩みがあまりなかった。
俺の発達特性上、タスクが分散していると気が散ってメンタルが悪くなるが、タスクが一つの時はひたすらそれだけやっていれば良いのでメンタルが良くなりやすいという傾向がある。マルチタスキングやタスクの管理がかなり苦手なんだと思う。
大学に入ってからはタスクややりたい事の数が一気に増えたので、何から手をつければ良いか分からず、メンタルを病んだ。
もちろん受験の間も勉強のことや当時の彼女のことで悩むこともあったが、気分の波は小さかったので結構コンスタントに勉強を続けて、第一志望の学科に合格することができた。
長くなったので記事を分割します。次の記事で大学時代のことについて書きます。