「領域横断性」から「領域居住性」へ〜反復はもう満腹〜
今回、我々Storyvillは、批評家の浅田彰を招待し、「浅田彰さんが「村上隆 もののけ 京都」展について語る」というイヴェントを開催した。
そこでは、過去の村上隆の活動を整理し、今回の展覧会についての評価を述べるものだった。
内容は概ね、絵画や建築におけるモダン/モダニズムについて、丹下健三の建築や、マーク・ロスコの絵画を挙げながら、その「無駄のなさ」が特徴だと述べた。ポストモダンについては、《つくばセンタービル》 1983を挙げながら、「コラージュ・サンプリング・リミックス」がその特徴であるとし、その特徴を持ち合わせたアーティストとして村上隆を位置付け、ポストモダンな時代に現れた、ポストモダンなアーティストだと述べた。
また、現在の村上においては、『めめめのくらげ2』の制作に際して、KAIKAIKIKIが資金ショートの危険に晒され、今のように「売れる」作品ばかりをつくるようになったのではないかと推測し、批判した。
以下は、私により浅田の整理を、具体的な著作や名前を註に挟む形で補填し、「領域横断性」「領域居住性」という概念を用いることで、再整理したものである。また、文末には村上隆への提案と疑問を投げかける形で締めくくる。
浅田の整理に依拠するならば、アートにおけるモダンとは、「領域自立性」が叫ばれた時代だと言うことができるだろう。
例を挙げれば、クレメント・グリーンバーグは「モダニズムの絵画」の中で、徹底的な自己-批判、自己-限定を行うことで、メディウムの本質−絵画における平面性、支持体の形態、顔料の特性−が積極的に認識される(1)と述べている。また、沢山遼は「絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、もっとも基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった」(2)とも述べている。つまり、その領域の持つ特殊性を追求する(純粋化する)ことで、自己-限定し、その他の領域との区別を図った。このような一連の流れをここでは「領域自立性」と呼ぶことにする。その「領域自立性」を徹底したモダンが終わった先にポストモダン化するアート業界にポストモダンな作風で村上が現れた、と位置付ける浅田の整理(3)をここでより詳細にしていこう。
そのポストモダン性とは、一言で言えば「領域横断性」を有しているということである。
浅田が例に挙げた、磯崎新の《つくばセンタービル》1983 もあらゆる過去の建築物をサンプリング/リミックスすることにより、西洋建築史の中に存在するあらゆる領域を横断することにより、その「ポストモダン性(≒領域横断性)」を有していたと言えるだろう。
平塚桂さんが建築討論でポモ建築の改修活用例として紹介していて気になったので、ひさしぶりにつくばセンタービル。反転したカンピドリオ広場はあいかわらず閑散としている。が、なかはとてもいまっぽい引き剥がし系リノベのカフェ+コワーキングスペースに改造され、なかなかのにぎわい pic.twitter.com/voJGetvJJ1
— Koji Ichikawa (@ichikawakoji) June 18, 2023
つまり、モダンが確立した領域を自由に「サンプリング・リミックス」することで、その壁を壊していくのだ。(4)
そのような視点で、村上の初期作品を振り返れば、《サインボード TAMIYA》1992 においては、プラモデルメーカーの看板というサブ/ローカルチャーの象徴を、現代アートというハイカルチャーに接続させる。さらにそこには、戦争のおもちゃを作るのは、敗戦国である日本企業だというような逆説的な状況に対する皮肉も感じ取れる。日本社会史に対する批評的な視座もあっただろう。これだけでも、サブ/ローカルチャーと、ハイカルチャーさらには、日本社会史という複数の領域を横断(サンプリング/リミックス)することで、村上はポストモダン性を獲得していた。《ランドセル・プロジェクト》や、《ポリリズム》にも同様のポストモダン性があると言えるだろう。さらに言えば、1990年代初頭には、中ザワヒデキ、小沢剛らともに、スモールビレッジセンターを結成し、村上は村上三郎の《六つの穴》を反復した《村上佐保太郎左衛門隆之介の紙破り》や、ハイレッド・センターの《首都圏清掃整理促進運動》の模倣した《大阪ミキサー計画》が行われた。(5)(続けて「山手線事件」を大阪環状線で再現する計画だったが、行われなかった。)(6)これらは、「シミュレーショニズム」の代表的な作品であり、そのシミュレーショニズムとは、「サンプリング・リミックス」などを基本的な手法とした非常にポストモダン性を有したものである。
『国立近代美術館常設展』村上隆1992“サインボード TAMIYA”プラモデルの世界的メーカー「タミヤ」のロゴマークの赤は情熱青は緻密を顕すそうだけど🇺🇸の星条旗の様で星の下の社名は兵士型の焼印で塗り潰されていて敗戦国日本のプラモメーカーが世界一の品質を誇る戦争の玩具を作っている事への皮肉か。 pic.twitter.com/t2ZNwHrjpp
— イタリア猫 (@italian_cat) April 19, 2023
このような村上の「領域横断性」が最も高い完成度で提示された作品というのが、《HIROPON》や《My Lonesome Cowboy》であり、それら(その他絵画も)を説明するものとしての「スーパーフラット」という概念だろう。
「スーパーフラット」とは、浅田の論考を(少し長いが)引用すると「「極端な平面性」だけではなく「平面性を超えるような平面性」を意味する。村上隆によれば、辻惟雄が『奇想の系譜』で取り上げた日本の絵師たちの画面は、平面の中にあまりに過剰な要素が盛り込まれているため、視線があちこちに引っ張られ、あるいは盛り上がって見えたり、あるいは窪んで見えたり、挙句の果てには動き出してさえ見える。絵巻物がアニメにつながるという常識的な歴史観を退け、そういうスーパーフラット(超平面的)な平面に含まれていた潜在的な運動性を顕在化したところにこそアニメの可能性の中心があると考える村上隆の説は、文化史的に見て正しいかどうかはともかく、きわめて刺激的なものと言えるだろう。また実際、村上隆の画面は、きわめてフラットに仕上げられながら、たとえば(東浩紀の注目したように)マンガやアニメに不可欠な目のアイコンを異様に増殖させることによって、マンガやアニメで視線が二つの目をとらえたとたん顔のゲシュタルトを認知して安定してしまうのに対し、そのような安定を妨げ、画面のあちこちに視線をさまよわせて、それをスーパーフラット(超平面的)なものとして認知させるのに成功していた。」(7)というものである。
つまり、「平面のなかに潜む運動性」という共通項によって、「奇想」の絵師たちの作品と現代のマンガ・アニメという二つの領域を横断して見せたのだ。そして、それは「ハイアートも権威もサーもセレブレートもカーストも無い日本文化の中の「芸術」」(8)を体現している。その「奇想」な表現を用いた作品は、平面作品だけでなく、立体作品にも及ぶ。それが『HIROPON』、『My Lonesome Cowboy』だ。アニメや漫画のキャラクターのような容姿をした造形物は、片方は誇張された巨乳から母乳が吹き出され、もう片方からは勃起した男性器から精液が撒き散らされている。その空中に撒き散らされた母乳と精液には、「奇想」の画家たちの特徴的な流体表現、山水画に見られるあの大きな木の枝たちを思わせる造形性を纏っている。さらに、背後の壁面に描かれた白い液体たちにより、その「奇想」に連なる造形性はより一層誇張される。
TAKASHI MURAKAMI "Hiropon", "My Lonesome Cowboy" pic.twitter.com/LC6iLBDQ50
— Doーモー・ケイスケ・デーS (@keisu_keee) July 15, 2019
更新情報|日本大百科全書(ニッポニカ)より
— 小学館ニッポニカ (@ency_nipponica) April 15, 2020
メディア項目【狩野山雪『老梅図』】。項目本文は【狩野山雪】《わが国最初の本格的画伝『本朝画史』は、山雪の草稿をその息子永納(1634―1700)がまとめたもの》(榊原悟先生)https://t.co/fH1BqE9SXQ pic.twitter.com/7AgJ54t6ql
村上はこの縦横無尽な「領域横断性」を有しながら、辻伸雄を引用し、理論化することで「スーパーフラット」という「新たな領域を確立した」ところにその他ポストモダンなアーティストらと一線を画す魅力/功績があったのではないだろうか。
では、その後の村上は如何なる姿だったのか。それが今回の「村上隆 もののけ 京都」展に現れていたように思える。その姿とは、自らが確立した領域にとどまり続け、以前のような精度を失い、ダラダラと過ごす「領域居住的」な姿なのではないだろうか。
いくつかの作品を例に挙げてみよう。
まず会場に入ってすぐに見える巨大な《洛中洛外図屏風 岩佐又兵衛rip》は、岩佐又兵衛の洛中洛外図を村上隆の手でトレースする作品なのだが、そこに現代性を見出すのはおおよそ難しく、村上隆の「お花」のキャラクラーが点在するだけの作品になっている。過去には無かったであろう、質の高い金箔処理や、シルクスクリーンでの彩色、金箔に見られるドクロのマチエールなどに現代性を見出す、というのは無理ではないものの単に「スーパーフラット」の手法の焼き回しであり、過去のようなアクロバットな「領域横断性」はないように思える。
\みどころ👀/
— 村上隆 もののけ 京都|Takashi Murakami Mononoke Kyoto (@mononoke_kyoto) February 10, 2024
本展の目玉がいきなり!
全長13mにもおよぶ圧巻の村上版「洛中洛外図」がお出迎え!👐
京都の街とさまざまな風俗が描かれた岩佐又兵衛(江戸時代)の「洛中洛外図屏風(舟木本)」をモチーフに、村上が描いた現代の《洛中洛外図 岩佐又兵衛 rip》は本展のための描き下ろしです。… pic.twitter.com/zFhqLOLmzg
また、屋外に展示されていた《お花の親子》は、村上作品の中で度々反復されるモチーフである「お花」を巨大化し、親と子を並べ、全面金ピカに加工したものである。これも質の高い処理が見受けられるが、反復されてきたモチーフをただ巨大化しているだけである。その巨大な彫刻をルイ・ヴィトンのトランクに乗せることでインスタレーション化しているらしいのだが、アートとハイブランドを組み合わせるだけでは、(浅田の取り上げていたクーンズもやっている)単なるリミックス止まりであり、過去の村上が幾度となく繰り返してきた方法論の反復−「領域居住的」な姿勢−でしかない。ここにもあのような「領域横断性」は見られないのである。
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ただ、目を引く作品もあった。それは《風神図》《雷神図》である。
俵屋宗達や尾形光琳の《風神雷神図屏風》で描かれていた、筋骨隆々で勇壮な風神・雷神を、明らかに「去勢」し、筋肉のひとつもない気の抜けた表情へと描き変え(口笛さえ吹いている!)、風神・雷神の位置すらも逆にしている。
かつてから(特に戦後の)日本社会に対する批評的な視座を持っている村上は、「あらゆる差異の境界があいまいで全てが並列にある現代の日本社会の構造」を「スーパーフラット」と呼んだ。「並列」とは、二つ以上のものが対等に並ぶ関係のことである。言い換えるならば、前後左右の位置関係が入れ替え可能な状態のことでもあるのだ。
その入れ替え可能性を持つ日本社会の構造が、位置の「入れ替えられた」風神・雷神に表れていると見ることはできるだろう。
そして、現代風にたらし込み(=デフォルメ)された風神・雷神は「ゆるキャラ」のようになってしまう。
つまり、《風神雷神図屏風》の持つあらゆる特徴(筋骨隆々、勇壮、位置)を、全く逆のものにしてしまう(脱力、去勢、位置)ことでその入れ替え可能性を十分に提示している。それは、今までの「スーパーフラット」には見えてこなかった新たな風景だろう。
最後にも述べているが、方法論の反復を繰り返すのではなく、このように新たな可能性を模索するアーティストとして活躍していけば良いのではないだろうか。
全体的には、非常に面白くない展覧会だったが、この作品だけは村上、ひいては「スーパーフラット」の新たな可能性を感じさせるものであったように思う。
〈 #京都市京セラ美術館 〉開館以来の大盛況で話題の『村上隆 もののけ 京都』。『Casa BRUTUS』『村上隆と京都』特集は、尾形光琳の風神雷神図屏風などの元ネタ解説や #村上隆 を読み解くキーワードなど、展覧会をより楽しめる情報が満載です。
— casabrutus (@CasaBRUTUS) July 13, 2024
⇒ https://t.co/lfwH3UqU11 #新美の巨人たち pic.twitter.com/rYCNW2WdUY
まとめるならば、村上は「領域自立性」を越えようとするポストモダンに「領域横断性」を発揮することで、新たな領域を作り上げた。しかし、現在ではそこに「居住」し続けることで、過去のようなキレを失い、果敢に挑戦するアーティストから、自己模倣によりお金を稼ぐだけの「敏腕経営者」になってしまったのだ。
その「領域居住的」な姿勢により、村上は本当に多くの資金を調達してきた。Louis VuittonやOff-White、Gucciなどと多数のコラボ商品を出し、総勢350人以上を雇用する(9)KAIKAIKIKIを経営できている。これは紛れもなく村上の功績である。過去の方法論を反復することで、資金を稼ぎ、アーティストではなく、経営者としての腕前を磨いていく。その腕前は、今回の「ふるさと納税」を用いた資金調達でも遺憾無く発揮され、京都市の大学生である私は、無料で「敏腕経営者」村上の展覧会を見ることができた。
そして最後に、純粋な疑問として描きたくないのに描かされていると言う(10)のであれば、描かなければいいのではないだろうか?
描きたくないのに描かされていて、このような醜態を晒してしまうのならば本当にさっさとやめた方がいいと私は思う。自分の領域に居住し続けようとする姿勢から変えるべきだろう。自己模倣の繰り返しによって、つまらなくなっていくアーティストは多数存在する(近年のヤノベケンジもそうだろう)。にも関わらず、自身のYoutubeでは、山田五郎を招いて擁護してもらうだけの「なぜ村上隆は日本で嫌われているのか?」(11)という動画を出し、美術業界からの評価や承認を欲しがる明らかに矛盾した姿勢はすぐさま正すべきだと思う。
いま村上隆に残された方法は、あらゆる領域を縦横無尽に横断し、自分の描きたいものを描き、「敏腕経営者」ではなく「アーティスト」として、もう一度アートワールドに挑むことだ。
(1)クレメント・グリーンバーグ 藤枝晃雄 訳「モダニズムの絵画」『グリーンバーグ批評選集』 勁草書房、2007
(2)沢山遼 Art words-平面性 https://artscape.jp/artword/6731/
(3)浅田彰トークより
(4)椹木野衣『増補 シミュレーショニズム』筑摩書房、 2001
(5)山本浩貴『現代美術史-欧米、日本、トランスナショナル』中公新書、2019
(6)中ザワヒデキ『現代美術史日本篇』アートダイバー、 2014
(7)浅田彰「村上隆なら森美術館より横浜美術館で2016
https://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160129/
(8)「スーパーフラット日本美術論」『スーパーフラット』マドラ出版、2000
(9)【密着】世界的アーティストの超リアルな1日ルーティン【村上隆】
https://youtu.be/dQnvnd4_KGo?feature=shared
(10)国宝「洛中洛外図」を現代に蘇らせる理由
https://youtu.be/NqZ2cl2MNJ4?feature=shared
NHK「夢見る“怪物”村上隆」
https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/episode/te/472R2YRVP9/
(11)村上隆もののけ京都スペシャル対談「なぜ村上隆は日本で嫌われているのか。」
https://youtu.be/LLTLVdXcRnQ?feature=shared
その他参考
『カーサ ブルータス Casa BRUTAS』2024年 4月号 マガジンハウス