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朝日に光るナイフ

通天閣の下の赤ちゃん  第ニ十三話
 だから、ミッチャンは平気だった。安心していた。あの時の怖さに比べたら「なんやこの位の高さ、しれてるわ。赤ちゃんはスバシッコイし、肝太いよ、そうでしょう」内心ミッチャンが確信している通り、赤ちゃんは人並みはずれて平衡感覚がすぐれ、その上敏捷だった。
 鉄骨を半分位、渡ったところで、赤ちゃんは停止した。空中で立ったまま、対岸のロクに呼びかけた。
 「こっちに来てみい、ここで勝負や」と叫んだ。これにはロクは面喰ってしまった。決闘のイメージが全然違うじゃないか、ロクのおもいえがいていた場面は、橋の真中や。そこでおもいきり殴って、橋を逃げる赤ちゃんを追いかけて、地面の上に叩き付ける、のびた赤ちゃんを目より高く持ち上げて、地面に投げつける。それから馬乗りになって「参ったか。降参と言え」と言って終ろうと思っていた。それがその通りになりそうにない。どうなったんや。予定外やと、ボンヤリ鉄骨の上の赤ちゃんを見すえたままだった。
 「どないしたんや、よう来んのか。弱虫、コワイのか。はよう来い」と赤ちゃんが、また叫んだ。この弱虫がロクにはこたえた。今迄弱虫と罵られた事はない。鬼とか悪党とかギャングは構わん。言われても何ともない。慣れている。けれども弱虫とはよくも吐かしたな、それだけは言ったら許さん。途端に血が逆流して頭が熱くなった。前後の考えがなくなって一歩鉄骨に踏み出した。ふらふらとふらついたが、何糞と歯を食いしばって堪えた。親爺の仕事場には鳶職がいっぱいよるが、あれと一緒や。遣れんことはないと言い聞かせて、ソロソロと赤ちゃんに近づいて行った。一メートル程の所で腕を振り上げたが、もしビュンと振れば体重の重心が横振れして殴る前に、自分が落下してしまうことが分かった。駄目だ。ここでは力を入れられない。体が固くなってしまうと墜落してしまう。柔らかく、柔らかく柔軟にならないといけない。叩きも殴りもできないのなら仕方がない。これしかないと、ロクはポケットから折りたたみ式ナイフを取りだし、カチッと刃を伸ばした。
 露天掘りの東の縁の上に居た立ち合い人の新ちゃんは、不意の展開に、ただ呆然として魂消ていたが、ロクのナイフが朝日にキラリと光るの見るなり「これはいかん。えらいことになってきた。止めなあかん。危ない、二重に危ないがな」と急に慌てたがどうすることもできない。歯ぎしりをしているだけである。
 新ちゃんでも手出しができない状態だから老年のナポレオンに為す術はない。地団駄踏んで、どうぞ無事に過ぎてくれと祈る気持ちで、ただイライラと見守るだけだった。
 他の子供たちも、赤ちゃんが鉄骨を渡った時にはハッとした。今、ロクが出したナイフを目のあたりにして、まさかのおもいで、またハッとした。ダブル・ハットで皆が、これから大変な大事が起こりそうな気がして、全員が息を止めて鉄骨の上のロクと赤ちゃんをじっと見守った。

第ニ十三話終わり   続く

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