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現代チェスの定跡研究のテンポ

現在開催中のFIDE Grand Prix を見ていて思ったことがあるので紹介します。

○結論
・チェスのトップレベルの序盤研究は恐ろしく深く、特定の定跡の達人であっても正しい手を指せないことがあり、それが1試合を、Candidates出場権をも左右する
・トップレベルで行われた試合はすぐに共有され、以降の試合にアイデアが利用される。数日後にはもう改善手が指されていることもある
・アマチュアチェスプレーヤーがこういったトップグランドマスターと同じ定跡を採用し、最新の変化についていこうとするのはオススメできない。中盤と終盤の勉強、自分の頭で考えて脳に汗をかかせる時間の確保の方がよほど重要

この記事を書くきっかけになったのは、FIDE Grand Prix の準決勝、Rapport-Maxime Vachier Lagraveの試合です。

GrunfeldのExchange Variationですね。
12.Rc3という手が目につきます。

12.Rc3 後の局面

ルークをピンになる位置に移動させていますし、g7のビショップの斜線上にも入っているので、危険そうに見えます。
12.Kf1という手が自然で、最も多く指されていますが、黒はGrunfeldをこの地球上で最も理解している男の1人、MVL。最も多く指されているような手では、意表は突けそうにありません。
なのでこういった、一見「!?」と思える手も研究対象になるし、検証の上実戦投入できそうだという判断に至れば、こうして盤上に出現するわけです。
もともとRapportがこういう一見「!?」と思えるような手を好んで指すタイプ、というのもあります。

試合は次のように進みました。

12.Rc3 e5 13. d5 Nd4 14.Bd2!

14.Bd2! 後の局面

Rapportが37分考えた末に指したのが14.Bd2!です。
14.Qd2 Bh3!?を避けたということです。
黒が白にd5を許し、ナイトをd4に放り込む展開はGrunfeldやKing's Indianではままあることですが、黒はこれに続く明確な反撃手段がないと、白のスペースアドバンテージが強いだけの局面になってしまうリスクがあります。
今回がまさにそれで、黒は満足な反撃を作り出せませんでした。
MVLはこの時点で自身がミスをしたこと、取り返しのつかない局面としてしまったことを認識していたと語っています。

ここから先、Rapportは黒の反撃を抑えながらセンターのパスポーンを前進させ、Grunfeldのお手本とも言えるような勝利を手にしました。
このFIDE Grand Prixは世界チャンピオンタイトルマッチに繋がるCandidates Tournamentにも関わる大会なので、この1勝は非常に大きな勝利です。Rapportはこの1勝でMVLを下して準決勝を制し、現在Andreikinと決勝戦を戦っています。

Rapportは局後に、12.Rc3 Bg4! 13.f3 Rad8!が最善であると指摘しました。

13…Rad8 後の局面

14.fxg4?? Nxd4!は白陣が崩壊します。14.Qd2 Be6 15.Bxe6 fxe6が想定される進行で、これは黒に問題がない、という評価です。

ちなみに、ChessableのSvidlerのコースでは12.Rc3をどのように扱っているのかというと…

12.Rc3 e5 13.d5 b5

13…b5 後の局面

MVLが指した13…Nd4ではなく、13…b5を推奨し、黒として面白い試合ができる、としています。また、Svidlerはこの手順を推奨する傍ら、Rapportが指摘した13.Rc3 Bg4 14.f3 Rad8 15.Qd2 Be6にも触れており、これも黒OKだが、少し奇妙な指し方に見える、と評価しています。ここに触れているあたり、流石Grunfeldの大家、Chessableのコースの質の高さよ、というところです。

定跡は結局のところ使う人自身がどう評価するかなので、自分で実戦投入する際は必ず自分自身で検討し、底にある基本的なアイデア、戦略の確認をしてから投入することを強く勧めます。いくらグランドマスター、その定跡の大家の意見といえど、思考停止状態での鵜呑みは良くありません。覚えている手まで正確に指せたとしても、続く手を正確に指すことができなくなり、無用な敗戦を招くリスクがあります。

このRapportとMVLの試合は、FIDE Grand Prixで決着のついた試合であったこと、Grunfeldの達人であるMVLが簡単に負けた(ように見えた)ことで、広く認知されることとなりました。

そしてこの試合が行われた3月9日の2日後、3月11日。
再びGrunfeldの12.Rc3が盤上に出現(Belgrade GM Sarana - Ivic 1/2-1/2)しましたが、黒はRapportが指摘した通りの手順を踏み、難なくドローを取っています。

この試合に触れ、GM Boris AvrukhはTwitterで「RIP 12.Rc3」とツイートしました。

Grunfeldの達人MVLを倒した12.Rc3が、使われた2日後には「RIP(Rest in Peace、安らかに眠れ、の意)」と言われてしまう…チェスの序盤研究のスピード感を感じさせる出来事でした。

私はこういった最新定跡を追いかけるのも好きですし苦になりませんが、時間効率が非常に悪いので、アマチュアチェスプレーヤーが
・理論的に深い定跡を採用(Sicilian Najdorf、Grunfeldなど)
・最新の試合を定期的にチェックし、常にレパートリーを最新に保つ
というアプローチを採用するのはオススメしません。プロチェスプレーヤーであれば1日にチェスに使える時間が多いので、最新情報のチェックとレパートリーの更新に必要な時間を取ることができますが、1日にチェスに使える時間が少ないアマチュアチェスプレーヤーがこれをやると、それだけで大半の時間がつぶれてしまいます。

アマチュアチェスプレーヤーが重視すべきは、オープニングではなく、ミドルゲームとエンドゲームです。タクティクス、ストラテジー、エンドゲーム!こういった領域の勉強と経験を積み重ねることなくして、チェスの真の実力向上はあり得ません。序盤は正しく指せても、中盤、終盤でつまずいて全部パーになってしまったら・・・悲しいですよね。

オープニングも最低限悪くない中盤に突入するために必要な知識を身に着けておくことは大事ですし、比較的容易に「勉強できてる!覚えられてる!」という感覚を得やすいのでモチベーション的に勉強をしやすいという性質はありますが、それが落とし穴です。序盤偏重となり、中盤、終盤に割くべき時間、自分自身で必死に考えて脳に汗をかかせる時間がなくなってしまうようでは、本末転倒となります。オープニングは優先順位としては低い位置にあることを認識した上で、勉強全体の時間配分を考えることを強くオススメします。

今回の記事は以上です。お読みいただき、ありがとうございます。

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