おも
涯ても扨ても面妖な事件に御座いました。
あれは件の夏から丁度四年になる、之また茹だる暑さの夏のことでしたかな――。
或る湖を訪ねたンで御座います。
否。
湖とは一寸と違いますな。
湖と云わば、巨きいもので彼の琵琶湖で御座いましょうが、ありゃあ水海で御座いましょう。内に容れるもンが河川の淡水と云っても、あンなにも茫洋に満ち湛えちゃあ海ですよ、海。
ですから訪れたなぁ泉で御座いますな。
山ン中で溢した水が面を為して、その裡河川なンぞに注ぎます、あの出水で御座います。
はあ左様で、温水が湧けば温泉と申しますな。
何れ湧こうが溢そうが、土から出る水なンぞ、地に盆す水に較べりゃあ軽微なもンで。
あの泉だって――。
ぐるりと縁淵を周巡って見て感ずるに、之で一反も有れば十分と云う程の面積でしたからなぁ。
ですから、はあ。
訪れたなぁ湖じゃあ御座ンせんな。
否。
訪ねた訪れたってぇのも、また可笑しな物云いで御座いますな。
人は居ないンで。
無人で御座います。人っ子ひとり居やしません。
穴場と申しますかなぁ。違いますかなぁ。
真面な人間は棲む処か寄り付かねぇンで――。
その昔は魔所と云う者も居ったようですが、詳しくは識りませんな。
先の時代に少からぬ人死にが出たとか云う巷説も、真実しやかに囁かれては居りましたが、然様な噂話と云うものは、寓話も逸話も、まあ津々浦々に御座いましょうや。
私は唯だ、然る事情にて、偶々其処を知って居っただけに御座います。
然様な場所には――。
待つ者も居らねば、訪ねるも訪れるも無い訳で。
はあ。
単なる物見と申しますかねぇ。
ええ、文字通りですな。見に行ったンで御座いますよ。
水面を――。
それは。
それはそれは、綺麗なもンで御座います。
先ず水が、底抜けに透いて綺麗ですな。
水底の素や玄の沙砂や礫石まで、それはもう能ッく見えると云う具合でしたから。
魚や蠏の遊び泳ぎの往き交う様子さえ、眼ぇ凝らさなくたって直に視えるンで。
ああ云う小さな生物は、山ン中に湧いて出たような狭ッ苦しい泉ン中に、何処から如何して生まれて来たンでしょうかねぇ。
字が如く、降って涌いたンで御座いましょうかねぇ。
まあ大方、山肌ぁ僅かに伝って上から流れて来る水の、細い脈ン乗って辿り着いた生物なンでしょうや。
小せぇ虫が居るからには――。
之がまた緑も見事なもンで。
足許を追って見下げりゃ蘚苔や羊歯。
丘陸を辿って見上げりゃ山柳や葛蔓。
青々と濡れて艶めく蔓や蕊が、組んず解れつに縺れては絡み合い――。
歪な形態で顔出した矮さな嶋々にゃあ枝垂れた老柳が揺々巨きな陰影を為し――。
紛々とした光景では御座いましたが、この世のものとは思えぬ絶景で――。
豊潤なようでもあり、幽愁なふうでも御座いましたなぁ。
特別に日当りが善いとは思えませなンだが、山中にしては悪くもなかったンでしょうな。
水の在る処には、樹木は這っても生えぬ訳で。
はい。
地を這う人間には知れねども、空宙からは丸見えだったンで御座いましょうな――。
鳥禽は仰山居りましたよ。
博識じゃあ御座いませンで善くは存じませんがね。大きいもンから小さいもンまで、或は白いもンから黒いもンまで、四季折々に渡って訪ねての繁盛ッ振りで。
ですから。
誰独り居らぬ泉と云うンも違いまさぁな。
行った先には必ず鳥禽が居りますから。
先客と申しますか。
或いは主と申しますかな――。
その時にその泉で待って居りましたのは慥か、ええ、鷺でしたかな。
青鷺で御座いますよ。
その皓い蒼が、後の翠い碧に善く映えて、それはもう――。
はい。
魔所と云っても其処は。
明所で御座いましたな。
そう識って居ったから、私は彼女を連れて行った訳で。
――綺麗なおもを見たい。
そう仰せでしたから。
彼女は――。
名を仮まして、菜摘とでも申しましょうか。
之がまあ変わった御女で御座いましたよ。
世間の風評なンぞ何処吹く風の、柳に風の。
何を為ようが為れようが、思うた異議は思うが儘に申し立て、此方が声を荒げようもンなら鼻先で哂笑って聴き容れず、また自ら声を荒げる容姿も将当と見えず――。
而して何を如何したって其処まで機嫌を損われまいと云う、之また堂に入った仏頂面が常態で――。
それを以て凶相とは云えぬ迄も、まるで器械の如く無感情染みた様子にて、然も能面のような女子なり――。
そう云う評判では御座いましたな。
愛想も無ければ愛嬌も無いと。
はあ。
散々なもので。
しかし濃眉は丸く太いものだから、力強いと云うよりは寧ろ邪気無い印象で――。
その上御額でぱッつん高く切り揃えた前髪が、それはもう児童の御河童にしか見えないものだから、出で立ちは何処か幼いと云うか稚いと云うか――。
まあ可愛らしくもあったので御座いましょうな。
背も小ンまくってねぇ。
それ故にか。
数多とは云えぬ迄も、男子諸君から一切の好意が無かった訳ではないと、そうも聞いて居りました。
但。
多勢をして評しむれば、不女醜女と――そう陰口を叩かれて居ったも確かなようで。
女学生にしては至り極めて口数寡なく御座いましたが、要事にては弁も立ち、頭脳も切れれば俊足も風を切り、文武両道に成績優秀と、押並べて教師には大層好評で御座いましたから、多少の嫉妬も内に含んだ評価で御座いましょうが――。
矢張りまた押並べて評される處には、そう云う御面では御座いましたようで。
はあ。
歯切れが悪いと仰せか。
ええ。
御尤なことに御座います。
何を隠しましょう――。
私は失顔して居るので御座います。
失顔症と申せば通じましょうか。
物体を眼で視て。
網膜は几丁と像を結ぶのに、大脳が認識を失って居る――その視覚失認が顔面に現れた症状を、失顔症と呼称するのですな。
相貌失認と呼ぶが正確しい気も致しますがねぇ。
はい。
相貌を判別出来ぬ。
そう云う――病気が在るンで御座いますよ。
産まれ憑きならば先天性なる枕詞も附きましょうが――。
聞く処に拠ると、己は生後数ヶ月の裡に車々事故に遭ッちまったようで。
父か母かの過失だったそうで御座ンすよ。
そンだけのことしか存じませんや。
知らされたのはそれッ切りなもンで。
まあ。
物心ってぇのがどんなモノか私には見当も附きませんが、まあ物心附いた頃には既にそうなって居りましたからねぇ。
当の二人に面と向かって何が起こったと問おうもンなら、何を起こしたと詰るようなもンで御座いますから、ええ。
それに。
訊けば病を明すことにも繋がる訳で。
それは――辛いことで御座いましょう。
他ならぬ両親をして、その過失が我が子を祟り障ったと、そう感じさせるのは何より酷で御座いましたから。
訊くに訊けぬと――。
先天的な疾病か否か。
そんなこたぁ知りたくッても知れないンで御座います。
けれども。
最初ッから知りたくもなかったンでさぁ。
知った処で誰をも責められぬことで御座いましょうし、大体が病なんてぇのは、罹り患ったとて、それで困らぬ限りは如何でも善いモノで御座いますしねぇ。
はあ。
困らねば不問とは、裏返せば――。
困るから問題なンで。
困って居った子童の裡は、それこそ山の如く問題を抱えて居りましたなぁ。
一例を挙げますれば、餓鬼の遣いなンてぇものは、散々で御座いましたよ。
誰々に之々の事を伝えて聞かせろだの物を渡して持たせろだの、そう云われても困る許で。
物事は記銘えて居っても、肝心の行き先が判らぬではまるで役に立ちませぬ。
遣うに使えぬ餓鬼なりと、そう囃し哂う小人も居りましたが、覚も熟も遅れた子供なりと、そう忖り慮る大人も御座いましたよ。
左様で御座いますから、行く先々で問題に行き遭うては、その度に克服せんと――義務教育たる六年間を殆ど一杯に使いまして、唯った独りッ切りで訓練を重ねて参ったのですな。
父にも母にも打ち明けられず、唯だ唯だ黙々とあれやこれやと手当り次第に試しまして、普通を装う手段を習得して参った訳で御座います。
その甲斐あってか。
あの忌々しい夏から二年も経とうとする頃には、擬態は殆ど完成して居ったように思います。
しかし擬態なンぞ所詮、取り繕いの猿真似に御座います。
ですからあれは。
困り乍らも困っては居らぬように扮い紛す小賢しい技術を、齷齪と磨いて参った六年間――だったと云う訳で。
その最中では御座いましたが、その擬態を。
驚くことに。
傍目に見破った者が二人だけ居ったのですな。
ええ。
御察しの通り、あの事件もそう云うもので御座いました。覆面なンぞ誰独り被っては居りませんでしたから。
例の彼が見破り、最初から連中に告げて居ったンで。
悲しいことに御座いますが。
それはそれとして。
もう一方と申しますのは――。
再び御名を仮まして、静香と致しましょうか。
この娘、町の往来を歩いて渡れば男も女も袖をも首をも翻して二度も三度も眼を見張ると云う大層な器量佳しと評判の、一歳下の後輩で。
まあ接点は、そう多くは無かったですな。
部活動も別々で。
唯った一人しか居らぬと云う友達が此方に入っちまったもンで――。
叱れば懲りたものかも判らぬけれども此方が一向に拒まぬものだから、性懲りも無く飽きもせず、足繁く押し入っては頻りに来る――。
その折に顔を遇わせると云うだけの接点で。
此方は描き物で、彼方は画描くんじゃあなく、踊るンですな。
舞踊――西洋の舞で御座います。
小さな躰を――。
仔猫が手毬を突ッ撞くように際く鋭く振って蕩かして――。
それはもう情熱的に、ひとに依っちゃあ扇情的にも見えましょうかな、迚も美麗に舞ったそうで御座います。
何の因果か――。
例の彼の恋人とはこの静香に御座います。
当時――事件から二年後のことですな――未だ彼から何一つ私の身上は聞かされちゃあ居なかった筈で御座いましょう。
彼は静香を庇護って居った訳で。
それなのに。
この娘は、ぴたり云い中てたンで。
――先輩は失顔して居るのですよ。
吃驚仰天で御座いましょう。
いえ。
実を申せばその時分、当の私は、己が異常の名前なンざ識らなかったンで御座います。
恥かしいとも思いませんやねぇ。何しろ当時は、ネットなンてぇ便利な道具は手許に無かったンで。
書籍を頼ろうにも、そりゃあ専門書になりましょうがねぇ。
土地にゃ手の届く医書なンざ、まるで無かったンで御座います。
それで。
この娘、訊けば町医者の娘なンだそうで。
当時だって、ええ、そりゃあ道理でと思いましたよ。
家宅に教書の幾等でも在って、その道の一人も居ると為れば、己の病を云い中てて不思議も無かろうと――そう思ったンで御座います。
真の目的は訓練にあり乍らも部活動の一貫と嘘吹いて、頻りに胸像を嘗めるように眺めては貌を写して居りましたから、それが彼女の眼に触れて、親に尋ねたか本を繰ったか定かでなくとも、それで病名の特定に至ったものと思った次第で。
しかし。
彼女は私に、こう云うたので御座います。
――一体何故して、
――妾を視る眼が他の男と違うて居るのか。
それが気に罹って導き出した答なのサと、彼女は結んだので御座います。
はい。
違うたので御座いましょうなぁ。
それはかげの所為かみちの所為か、それは判りませんやなぁ。当時だって現在だって、そりゃあ知れませんや。
やれ絶世の別嬪なりやれ稀代の美少女なりと、どれだけ執拗く周りの者が申しても、己には能く判らない訳で。
視たくっても視えぬものは視えませぬからなぁ。
しかし。
静香と云うこの娘、恋人に伴って歩く以外は常時も、指折る頭数の男供に囲まれて居りました。
はあ。
男ッ誑しと申しますか。
はい。然も御前に従者と云う具合で。
その彼等に限らずとも普通の男性に云わせれば、静香の面見りゃあ漲り滾ると申すンでしょうな。はあ、下世話なこッて済ンませんなぁ。
眉も眼も鼻も唇も顎先も、品やかに淑やかな曲線を描いて、常時も何時も嗤って居る御顔こそ――。
あな麗しや。
あな甚愛らしやと。
皆々口を揃えて云うものでしたが、私には――。
私には寧ろ。
怖かったので御座いますよ。
まるで。
恰も面を引ッ下げているようで。
面ですよ。
御面――能楽に使うような、あのおもですよ。
おも着く主役を主、或は為手、以て外を総じて率と称び、中でも主立たぬが主をば立たす脇役を脇、主役には及ばぬが主を立たすに不可欠な脇役を連と云いましょう。
おもを着けるなぁ主と連だけで御座いますが――。
小面と云う能面を御存じですかな。
演目に依り造師に依り、そりゃあ色々では御座いますがね。
総じて云えば、あの白い女人の面でさぁ――。
眉は八の字に牽き下げて、口の端は角立たせて――。
静香ってぇ娘はね。
笑うと。
正にそんなになるンですよ。
只、眼が嗤って居らぬから。
真一文字にぴんと張った切れ長い眼裂が、輪を掛けて鋭く引き絞ったように緊張して。
狐みてぇで憶愕い。
四六時中男子の輪ン中で能面みてぇに嗤って居て、その面ぁ見て皆ンな歓んで居やがるのが――。
おお恐い。
ありゃあ緊張した笑顔でさぁ。
否、緊張して居るってぇンなら、そりゃあ笑顔なんかじゃあないンで。
文字通り、凝り固まった御面で御座いましょう。
ええ。
それで思い出しましたよ。
あの面は怖くて仕方なかったから、失くしちまったンですなぁ。
あれは。
未だ学校に通うようになって一二年と経たぬ頃でしたかなぁ。
慥か――。
目競を為たンで御座います。
あの遊戯が駄目だったンですな。
向き合って、真直ぐに――。
顔貌を凝ッと視詰めて居る裡にどんどん気分が悪う為りまして。
熱出して寝込んで。
慥か、ええ、それで父の生家に行ったンですな。
本心申せば之ッぽちも行きたくなんかなかったンですが、大人にしか解らぬ用事が在ったんで御座いましょうよ。
布団剥がれて寝床追われて衣服替えて手牽かれて、もう行かぬと申す訳にも行くまいと。
車に揺られる裡にまた眠って。
到頭着いたら――。
母が詰られて居りました。
嗤い乍ら。
――あの顔ぁ女狐だ。
おお怖い。
そう思って独り遁げるように土蔵ン内に潜って。
見附けたンで御座いました。
昏闇に在ったのは――。
母の面で御座います。
それは。
静香の面でも御座いますかな。
鋭い薄眼ぇ開いて据えて、妖狐の貌で嗤って居て――。
そして。
爺が来たンで御座います。
――気に入ったンなら遣らぁ。
そう云うと、真ッ暗い闇は何やら蠢いて、何やら匣を呉れました。
その真ッ玄い匣を――。
大事に抱えて母屋まで駆けて。
開けたら二重の面が在って。
上に母の面。
下に――。
闇中では視えなかった第二の面を、いざ検めようと匣の底を幼手に掻く――。
その刹那。
――穢血ば雑ぜよッて
――こン女狐がぁッ
――御前の御蔭で
――あン児ぉはッ
老鬼が――。
吼え声を已めて、此方を振り向くと。
向こうに白い、あの面が引ッ下がって居て。
また怖くなって、今度は裏手から再び遁走扱いて――。
川に出たンで御座いますか。
小さな河原で――慥か。
それから。
そうだ。
面を、匣から取って。
母の面の、その下のもう一方は、見る気も起らなかったから裡に残した儘匣ごと置いて。
母の面だけ抱えて、水に、膝まで浸かった処で――。
被って。
――之なら、
――小面憎う厭わるる母が心持も解ろうか。
そう思って。
私は――。
けれども母の面は。
狭ッ苦しい覗孔で視界を遮り、旧ッ臭い匂で鼻を突き、頭も舌も痺れる程にも何も彼も苦々しくって。
眩暈がしたンで御座います。
気が附いた時には既に、面は水に攫われて居りました。
掴むも追うも叶わず――。
匣を携えて母屋に戻ると、矢ッ張り其処には爺が居て。
――大事にせぇよ。
それだけ云われて、それでもう親子共々帰されたので御座います。
大事にすンべぇは母のことじゃわいと不貞腐れて居る裡に、また揺り籠が如き車ン中で、夢に没したように記憶して居ります。
はあ。
ええ、大いに脱線しましたな。
話を戻しましょうやね。
疾うに誰も居なくなって居った部室の中で――。
静香は私の疫病をば云い中て、その依る処の証なるは、己に向けし私が視線の違和感と――そう仰せになったンで。
女狐の、母の、川流れの面を逍下げて。
それで。
はあ左様ですかと、そのように申した憶えが御座います。
当り前で御座いましょうな。
今しがた申し語りました小咄なンぞ、御前にも皆様にも何の得にも徳にも為らぬもンで御座ンすから。
適当に配偶うしか無いでしょうよ。
それなのに。
可愛い御面を。
真ッ赤に為て上気したンで御座います。
能面かと思いきやぁ拍子も無けりゃ突拍子も無いと来たンで。
そりゃあもう驚きも焦りも慌ても恐れも為ましたよ。
でも心底愕くなぁ此処からで――。
静香ぁね。
――妾ゃあ一度ねぇッ
――犯られてンのサッ
はあ。
そう仰せで御座ンした。
聞けばそれは丁度、己の事件から数ヶ月許遡っての出来事で――敵仇の貍公は、憎むに憎み切れぬ小児性愛者なンだそうで。
それであの夏。
それで彼は、二度と同じ思いはさせまいと、この娘をば庇って護ろうと、その代替に私をば――。
それでは益々、彼のことを怨みも詰りも出来ませぬ。
けれども静香はこう続けるンでさぁ。
――貴様は一体何者なのか。
――皆々と同じ男ではないのか。
そりゃあ、もうねぇ。
かげンなっちまった己に云えるこたぁ何も無かったンで。
哀しいやねぇ苦しかろうよなぁ切ねぇこッてさぁなンぞ、口が割けても云えますまい。
同じような体験と申す者が居るかも知れませんが、そんな莫迦ぁ云っちゃあ善けねぇですよ。
丸ッ切り違うンで御座いましょうよ。
そうでしょうや。
慥かに強の字をば味わったッてなぁ同じ事実で御座います。しかし手ぇ出した者は違いまさぁ。和も違えば躰も違うし、匂だって面だって違いまさぁ。
時刻も現場も違えば行為も違いましょう。
それに。
同じ者に同じ時刻に同じ場所で同じ行為に及ばれたって、痛みってぇのは犯られた方にこそ依るンでしょうよ。
それで居て感じるも思うも伝わらないのが普通でさぁ。
そうでなきゃあ神通力で御座いましょう。
ですから私はね――。
事実をば伝えたンで御座います。
否、事実だけを申し上げたンで御座います。
勿論のこと想人の関与する処だけは、徹底して省き申し上げましたよ。
大勢の男供に嬲られ犯され、終いにゃあ離人して自尽まで行ったと。
彼女はその裡に蒼白くなったり朱紅くなったり為て――。
はい。
それっ切りでしたな。
はあ、向こうも納得が行ったンでしょうな。
私が彼女の笑顔を胡散臭く思うて居ったように、彼女もまた私の振る舞い為り振りを、白々しく眺めて居ったのと違いますかなぁ。
同じ穴の狢だった訳で。
気心知れれば如何でも善いと。違和感も晴れれば困らぬから、それでもう不問の関心と相為ったようで御座いますな。
はあ。
自ら申したことですが、私が狢で御座ンすか。
般く狢と申せば、それは貍の類縁で御座いますから、男姿の妖怪に御座いますな。
しかし狢ぁ狢でも、私は最早かげのもンで御座いますから、差し詰め――。
女姿に描かれて見えます袋貉で御座いましょうか。
はあ。
また話が脱するようですがね。
狐と申せば、そりゃあ女ですな。
逆に妖しい女たぁ猫か狐かで御座いましょう。
私をしてそう視せしめたあの小面は、水に流されちまった訳ですが――。
もう一面。
在ったのを憶えて御出かな。
はい。
匣ン裡に仕舞った儘、事も無く持ち帰って参りました方の面のことに御座います。
面妖なことに――。
之がまた小面で御座いました。
何故に小面が二つも一緒くたに匣詰めン成って居るのやら、暫く頭を悩ませたもので御座います。
まあ。
考えても解らねば忘れるもので。
それに此方の小面は、件の訓練に真実役に立ったンで御座いますよ。
ええ。顔面の凹凸なンぞ見て触って確かめように、能面の右に出る代物は御座いますまいて。
はあ。
只。
その匣入り一組の二面は、矢ッ張り考えるだに面妖な代物だったンで御座います。
と申しますのも、二つの問が有ったンで――。
一つは。
面の、こう顔に着ける側の、つまり内と云うか裏と云うか、面の反対側にですな――。
丁度眼交の処にね、小せぇ文字で――。
ネと、彫って墨入れて在ったンですよ。
匣の方には只だか兄だか、蓋の裡ッ側に、同じような入れ墨が御座いましてなぁ。
併せて祝――なンでしょうかねぇ。
川流しの小面にもね――。
彫って在ったのかも判りませんでしたなぁ。何せ見初めた時ゃあ失った時に御座いますからねぇ。
之が問の一つ。
二つは。
二面は御顔が違ったンですな。
川流れの面が静香と申せば――。
第二の御面は菜摘の御顔に御座いました。
はい。
菜摘の御面ぁ膨れっ面が常態と申しましたが、ありゃあ剥れるとも腫れるとも違うンで。
菜摘ってぇ娘はね――。
柳に風が祟ってか、常時も弛緩して居るからこそああ為るようで御座います。
緊張した笑顔の静香とは大違いなもンで。
それが。
菜摘は心ッから笑うとねぇ。
そりゃあ花咲いたみてぇに嗤うンで御座いますよ。
目尻をぐい、と吊り上げてねぇ。
波打つような目蓋の曲線が――。
まるで赤児のように可愛らしうて。
元々太く丸い眉や唇こそ、平生が図太い武勇ッ振りを支えて居るとも云えように、それが揃いも揃って下がって上がって、ぐにゃり曲がるもンですから、見る度に之こそ破顔と申すものなりと、そう思うた次第で。
その菜摘と――。
静香と知り合うだけ知り合って別れも告げ合わずに別れてから、凡そ一年も経たぬ裡に巡り会い、それからまた一年して例の遠足を伴に為た訳で御座いますが――。
泉が丘に連れて行った夏にゃあ菜摘はもう、まるで知り合った頃とは別人で。
双極症Ⅱ型で御座いました。
先ず学舎に来なくなりましてねぇ。
前触れも事触れも前兆も予兆も有ったもンじゃあない。
己が鈍いと云うだけの事と、そうも思いますけンど、そりゃあもう誰にとっても突然の変事だったには違いねぇンで。
それが、或る日。
往来でばったり行き遇いまして――。
通院の帰路なンだと、そう教えて呉れましたよ。
非道く痩せ細って、萎れ窶れて居りました。
元ッから懇意に為て居りましたから、それはもう気懸で心配で、彼女にもそう知れる程には私の方が取り乱して居ったンで御座いましょうな。
御恥かしい話に御座います。
それからは。
はあ、感謝されて居った分にはまあ善しと信じとう御座いますが、己が眼にも執拗く映りましょう手助け許を続けまして。
留年して欲しくない一心だったンで御座いましょうなぁ。
来る日も来る日も――。
その日に進んだ授業の事、その日に課された宿題の事、その日に起こった些末な出来事、その日に見聞きした学生なりの要事等々を、一々忠々と小半紙に書き留めては住居に届け、週に二三の余裕が在れば顔を見合わせて駄弁を交し――。
ああ。
あの面が見たかったのかも判りませんなぁ。
ええ、悦ばれる御要求にゃあ何でも応えて、そうでなければ取り已めて、その繰り返しで御座いました。
件の訓練と同じく、手当り次第で御座いますな。
今も昔も大莫迦者で御座いますから。
それでその夏。
――大莫迦者。
――おもはおもじゃ、解らぬか。
おもとは水面かと訊いた私に、ごく珍しく躁いだ調子で、そのように仰せで。
もう一度馬鹿ぁと云うなり、実際に剥れてしまいまして――。
私は。
――水面なら。
――あの青鷺の山泉が善かろう。
そう思うて連れたンで御座います。
凡そ一年に亘る奉仕の甲斐有ってか、御家の方々からも信用が御座いましたし、何より――。
菜摘は私のかげを知って居ったのか、知れずとも感じて居ったのか、二人ッ切りが好いと、そう仰せでしたがねぇ。
そうであっても。
それでは善からぬと思うが常識で。
申の刻で御座いましたかな――それ迄は逸る菜摘を家ン裡に押し籠めて、漸く御帰省ンなった兄上をば伴って。
先ずは御城下に出向いたンで御座います。
夏祭りが有ったンで。
父母にも多少の病気有りて、兄上には双極症Ⅰ型並びに自閉症の診断有りと、そう予め伺い知って居りましたが――。
兄上は妹君の沈む面など提灯眩しさに視えや為ぬと仰せになるが如く――相も変わらず独り大燥ぎで御座いまして。
三人揃って巡回る裡、肝心の菜摘が殊更眼に視えて御疲れに為って参りまして。
元々鬱じゃあ楽しいもンさえ愉しめぬ訳で御座いますから。
まあ私はかげの所為にや連中から見附けられでも為りゃあ困ると、日の沈まぬ裡から御城下歩くにゃあ気が気でなかったんで御座いますが。
兄上ぁ遂に。
――後ぁ追うから早う行け。
林檎飴なンぞ頬張り乍ら、そう仰せになったンですな。
バス捉まえて麓ン村に出て――。
山ぁ登り始めたンが酉の刻で。
半刻も経たぬ裡に着きましたな。
菜摘は――。
それはもう大慶びで。
――綺麗なおもじゃあ。
あの小面の相貌で仰せでした。
はい。
此処からなンですな。
善いですかな。
此処からが、涯ても扨ても面妖な事件に御座います。
あの時――。
思えば菜摘は。
疲れて居ったンじゃあなく――。
憑かれて居ったのかも判りません。
泉が主の御座す嶋に向かって。
転がるように駆け出して。
危ッかしく縁淵に両手ぇ撞くなり、清水の面をば覗き込んで。
綺麗じゃ綺麗じゃと、跳んで上がっての躁ぎ様で御座いましたのに、それが。
唐突に鎮まり却って、こう――。
すう、と示指を。
水面の方向に遣りまして。
――おもじゃ。
ぽつりそれだけ仰せンなった。
閑。
鬼魅の悪い静寂に耐え乍ら、華細い指の先を追って。
枝垂柳の足許に視線を投ばすと――。
おお恐い。
水面の下に――。
面の白い女が――。
眼ぇ遭わせた。
私ゃあ血の気ぇ引いて、尻餅搗いて、叫び声も上げられぬ。
けれども。
そりゃあ善ッく見ればねぇ。
女人の生ッ首なんかじゃあなくて――。
能面で御座いました。
それも、見覚えの有る小面だったンで。
――若しや。
そう思って、手に取って検めねばと――。
呆けて突ッ立って居る菜摘を傍に置いて、独り水ン面に屈み込んで、片手に砂泥掴んで、自由利かせたもう片手を、こう、ずいと伸ばしたンでさぁ。
為たらば。
真実の恐怖は此処からで――。
居たンでさぁ。
人が。
丘陸には菜摘と己だけ。二人除けば無人でしたが――。
水中には人間が居たンで御座います。
額なンか割っちまって。
眼濁してかッ開いて。
潤けた躰ぁ蒼白くって。
男が独り。
没して居ったのです。
――水面が下は、
――冥土じゃ。
そう思うて慌てて。
己の面と、それから件の小面をば水から引き揚げまして。
一息も吐かぬ間に――。
濡れた能面をね。
こう。
喰い入って視凝めまして、それは――。
紛うこと無く。
川流れの小面に御座いました。
母の面。女狐の面。静香の面。
それを。
翻して見れば。
おお怖い。
文字が在った。
口。
詰り之は――呪なのか。
ああ。
然らばこの面こそ――。
静香の死霊ならんや――。
私はそう思って。
もう怖ろしくッて。
ええ。
静香はね、実は、その時にゃあ幽世の者だったンで御座います。
当時は唯だ逝っちまったと、そう噂話に伝え聞いて居っただけでしたがね――。
それから長い年月を越して、御隠れンなる数日前の恋人から懺悔されたことには――丁度私が菜摘と出逢うた頃のこと、彼は到頭堪え切れなくなって、静香に事件の真相を漏らしちまったそうで。
それで静香ぁ在り得ねぇ位に沈み鬱ぎ込んで、即ぐ離縁話掛けて来て――応え渋る裡にもう、一ヶ月と待たずに縊ッちまったと。
――俺の所為で静香ぁな。
彼は慟哭て居りましたが――。
それは。
ずっと後のことで。
泉で静香の仮面を見附けた時に知って居ったのは、静香はもう生者ならぬと云う伝聞だけで。
はあ。
それで。
この人死にはきっと、静香が幽霊の仕業ならんと、そう思うた次第で御座います。
而して。
然らば。
この小面こそ静香が呪怨と云う訳で――。
この男は誰だ。
静香が呪殺せん敵仇と為れば――。
それで。
今度は私が黙り込ンじまったもンですから、菜摘も後追うみたいに水面を覗き込んでね――。
柳に風が吹きましたなぁ。
暫く眺めて居ったようですが、畏がるも懼れるも無く、唯だ珍しいから眺めて居るとでも云い出すような表情で御座いますから、この娘ぁ実は水虎なンじゃあなかろうかと――。
そう思う裡にねぇ。
不意に振り向いて、可愛い御河童揺らし乍ら云うンでさぁ。
能面のようなあの仏頂面で。
――この面ぁ識ってるよ、
――同じ病院に通ってンだもの。
この男の名ぁ慥か――そう明す菜摘に愕いたなぁ、面識が有った事も左様に御座いますけれども、もっと兢いたなぁ、男の名前の方なンで。
死骸の正体は、貍爺だったンで御座います。
静香が敵仇でさぁ。
――妾にゃあ随分と紳士な御仁で御座ンしたけど。
菜摘は暢気に云いましたもンですが――。
否いや――此奴は。
多分その気が抜けちゃあ居なかったンで。
こンの古狸ぁきっと――。
菜摘ン中に――。
そして。
泉ン中に静香を見出して。
何を思ったンでしょうやねぇ。
脚滑らせて嶋が崎に額ぉ撃ッ撞けて。
気ぃ失ったか眼ぇ眩んだか、兎にも角にも水に没したンでしょうな。
浅瀬ン中の水底は、窪穿たれたか窖掘られたかして居ったンで御座いましょう。
其処に脚ぃ閊えて挟まって。
その儘に没したンでしょうや。
事故なンでしょうな。
それは充分過ぎる程に――在り得る筋書きで御座いましょう。
妖しいのは。
爺の動機で。
何を思って斯様な穴場に迷い込んじまったンで御座いましょうかねぇ。
人を呪わば穴二つと申しますがね――。
私はその時。
こう思うたンでさぁ。
――静香の面が召して喚んだンだ。
私が川流れに失い――。
鳥禽が拾い揚げて清水に捧げ――。
面は母の霊気を宿し――。
静香が怨恨をも惹き容れたか。
其処迄のもンに成ッちまったら――。
もう母の面でも静香の面でも無ぇや。
唯だの女狐でもねぇ。
――妖狐じゃ。
ええ。
玉藻御前に御座います。
貍爺ぃ呪い殺して仇討ったなぁ殺生石に御座いましょう。
それで。
私達二人を喚んだンだ。
御前の主よ早う迎えに来い。
御前の連よ早う迎えに来い。
おお怖い。
おお恐い。
菜摘に憑いて居ったのは――。
それなら。
菜摘が見たいと云うたおもはきっと――。
――。
りん。
鈴の音――でした。
泉が淵で自失して居た生者二人を。
在るべき現世に喚び戻したのは、兄上が化物除けの御鈴に御座いました。
はッと為って振り向くと。
既に日も没した様子で、仄暗い闇の中、遠く向こうに赤々と燃えて居る、祭りの陽火が望めたンで。
そう為ると。
この黄泉の蒼白い陰火が、刹那――。
一層この世のものと思えなくッて、怖ろしくッて震え上がったことで御座います。
兄上はそんな私達の面をば見較べて――。
――莫迦か御前達は。
ぴしゃり云われて漸く、人心地の一つも附いたんでしょうな。
二人揃って恥じ入って、低頭平謝に御座いました。
兄上はふんとかうんとか、一声と申すか一息と申すか、何やら短い音を一度発しまして、止めるも構わず水に入り――。
さぶり。
――為程之が黄泉かぇ。
その一言で初めて私は素布濡れン為った己を知り、漸く寒う自覚しまして、ええ。
――然れども見ぃよ。
――彼岸は、もっと彼方じゃ。
またその一言に従って、云われるが儘に対岸を見遣ると。
其処には。
妖しく煌めく――。
青鷺が居りました。
枝垂柳を陰火に照らして。
その許で冥闇の中を揺ぎ蠢く三四の怪鳥は、まるで――。
あの世の――。
りん。
再び。
鈴の音に振り向くと、兄上は疾うに水から身を揚げて、何やら検分して居るようで御座いました。
その手には。
白い――。
――触れては善けませぬッ
何ンせそれは――。
呪の。
私は独り焦ったものですが、兄上はまるで詰らぬと云うような表情で、
――詰らぬ。
そう短く仰せるなり、何の執着も関心も示さずに、半ば放るように寄越して下さったンで。
――之はな。
呪なんかじゃあない。
――二人静の静御前じゃ莫迦め。
訳も解らぬ裡に――。
何処からか吹鳴が聴こえまして、その裡二人揃って静々と保護されまして。
あれやこれやの聴取の後、漸く解放されたのが戌の刻で御座いました。
はあ。
もう大変な事件で。
何処まで如何報道されましたか、それは知りませんがなぁ。
ええ。
二人静で御座いましたよ。
そりゃあ能ですな。
吉野の勝手と云う処の神職が、正月のこと、七草蒐めを菜摘女に御命遣わすので御座います。
神職は脇、菜摘女が連ですな。
菜を摘まんと川に出たこの娘、其処で或る里女に呼ばれまして、
――この身の供養をば申し奉れ。
そう頼まれてしまうンで。
左様、主は里女で。
菜摘女は御社に着くなり、この面妖な依頼を神職に報じて告げるンですが、之は迚も信じ難いと――。
そう申した刹那、憑かれッちまう。
憑いたなぁ里女――その正体は源義経公が仕え女、舞の名手と聞こえた静御前が亡霊に御座います。
突如異常しくなっちまった菜摘女を一目見て、この神職、静の霊気をば鎮めんと思うて、舞を乞うンで。
生きて居った頃の静ぁ実は、御社に装束納めて居ったもンですから、菜摘女はそれを着て――。
ええ、菜摘女が舞うもンで、彼女に憑いて居る静もまた、今将に待って居ると云う状態で。
舞う静が亡霊は――。
公との離別を想い反して。
唯だ唯だ――。
舞う。
舞っては悲しい思い出甦り――。
思い出すから哀しく舞って――。
嘆しいやねぇ。
淋しいやねぇ。
再び己が弔訪を申し渡して。
静は菜摘女から失せるンで御座います。
その二人静を――。
複雑怪奇な一連の事件に当て嵌めるンなら。
兄上が真意を汲まんと為れば。
彼奴は――。
呪って居ったかも判りませんが。
それより何より寂しくッて。
誰かに偲んで欲しかったンでしょうやねぇ。
それなら。
それは。
悲しく妖しい事件で御座いました。
ええ。
全くに御座います。
涯ても扨ても面妖な事件に御座いました。
おも――了
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