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こわ

こわかねぇのかい」
 そのボイドラってぇのはよぅと続けて、彼はぐいとジョッキをあおりました。
 彼は――なか先生とでも御名をまにあわせましょうか――私の直属の上司ボスに御座います。
 禿とくとうには凡そわぬこわひげおっない、一見して野卑にも思われる爺様で、而して群集むれいとう私をおもんばかってか、時に折っては斯様にし向きの酒に誘って呉れるまで慈愛に満ちた御仁で。
 そうそう。
 私に淫夢を教えたのもこの御方に御座います。
 淫夢が特にそうなンでしょうねぇ、下品なネットミームが抑鬱気分に効く事も、まま在りますからな――まぁ興味も喜びも喪失して、本当の気鬱ぎンなっちまったら、もうまるで無効にりますがねぇ。
 淫夢も仕事道具の一つと、そう云う理由で紹介された訳で御座いますが。
 この中野爺様、実は私に趣味を与えた上司、、、、、、、、、、その御人でもあるンですな。
 ――仕事しか為ないンじゃあかえって不健康だぞ君。
 ことごとにそうくどかれて居りました裡に、或る機会に或るクッキー☆声優を知りましてねぇ。
 それ迄は文字通りに寝ても醒めても業務に勉強だけの毎日でしたから、試したい始めたいと思えるだけの趣味なンてひとッつも考え附かなかったものですが、の存在を知るや否や女声なる技術に興味が湧いたンですな。
 ――これは仕事に使える。
 そう思ったンで。
 一年半でしたかなぁ、それッくらいの間は孤独に練習致しましたが、そればッかりでは伸び悩むと思いましてねぇ。
 他ならぬ中野先生に御相談申し上げたところ
 ――ネットに上げて見ろ。
 淫夢厨共に聞かせて見ろと、そう仰せになりまして。
 それでニコニコ動画やXを始めて、成り行きでクッキー☆声優の真似事をる運びになったンで御座います。
 ええ。
 真実ほんとうに成り行きでさぁね。
 偶偶たまたまフォローして居りました淫ク☆投稿者様がボイドラいざ作らんと仰せンなって。
 その時は未だ参加しようなンざ考えちゃあ居なかったンですがねぇ。
 愈愈いよいよ声当てるもンを募集すると云う段になって、
 ――しや企画者様の御力に為れようか。
 ――腕を試して名を売る機会にも為ろうか。
 そう思いまして。
 是非らせて戴きたいと名乗り上げたンで御座います。
 現実には御迷惑にしからなかったンですがねぇ。
 何しろ実力が無いもンですから。
「不安と云えば不安ですが」
 誰にも注目されッこ無いでしょうから――。
 まぁそうこわがる事も無いと踏んだンですよと、私はそうかえし申し上げて。
 中野先生のようにつよくはないもンですから、ジョッキ傾けてちびりと一口含んで呑みまして。
 当の先生の赤ら顔を盗み見たら、何処と無く不満気でしたがねぇ。
 女声と申したって。
 私のそれ、、らぬものですから。
 話題になンか為るもンですか。
 迚も彼のように、女と聞き紛うような善い色のこわは出せませんから、じぶんの声なンぞ未ッだ未だ女が声、、、じゃあ御座いませんや。
 まぁ彼は無双と云って過ぎぬ程の御方ですから、強いて彼を引合わせなくたってねぇ――。
 ほら、そう云う界隈が在りましょうよ。其処の人達に較べたって、じぶんが声は塵芥にも糞便にも劣る、至り極めて聞き苦しき汚声で御座いますから。
 はあ。
 くはりませんが、その、界隈は御座いますでしょう。
 彼処あそこでは女声とは云わずに両声類と、そう云う用語を御使いンなるようですがねぇ。
 私はね。
 それが気に喰わないンでさぁ。
 両声類ってなぁネカマネナベと――そうですな、悪く申せば他人様だまくらかしてあざむいて悦ぶッちゅう趣味で御座いましょう。
 それぁ悪趣味でさぁね。
 私はね。
 人数かずはそう多くないですがね。
 この眼で見て、この耳で聞いて、この手で触れて、知って居るンですよ。
 世の中にゃあね、じぶん声がイメージと違う、、、、、、、、、と云う理由で、鉄串かなぐし曲げ挿れて口ンなかから喉笛引ッ掻く女も居れば、かなばさみで喉仏つぶす男だって居るンで御座いますよ。
 そンなに酷い自傷に走る程に思い詰めるンだから、男女の違和感てぇものは、余程の苦しみなンで御座いましょうよ。
 両声類てぇ趣味は――。
 彼等の苦痛まで莫迦にて居るかのようで、如何どうしとは思えねぇンで。
 くだらぬこだわりでは御座いますけどねぇ。
 だから。
 男が男の声、或は女が女の声出すンならなンでもぇ、だの声なンでしょうけれども――。
 女も男も。
 訓練にって異性が如きこわば得られるンだとして――。
 男が女の声、或は女が男の声出せるンなら、それこそ女声や男声と呼ぶべき代物なンで御座いましょうよ。
 否。
 未だ出せなくッたって、出そうと努力して居るうちは、その訓練さえそう呼ばれて然りと、そう思うンで御座います。
 その女声こそ。
 趣味に据えて練習こなせば、そのうち仕事に使えるかも知れぬと、そう思ったンで御座います。
 はあ。
 両声類たぁ聞き心地が悪いと、そう云う理由で――。
 未だ出せぬと雖も、女が如き声を出さんとする己の声をも女声と呼びたいと、そう云う屁理屈に御座いました。
 ええ、まあ。
 聞き心地の問題でしょうな。
 如何だってい事ですがねぇ。
 両声類なる用語が厭わしいわけは、多分そればかりではないンで御座います。
 生物いきものが、好きだからで御座いますよ。
 禽も蟲も獣も、ぐにゃぐにゃしたモノは大概、観るも触るも好きなンですな。
 おもかえせる限りちいさい頃から、剥製や図鑑を眺めては歓んで居るような子供だったンで。
 肉食の野獣でさえ可愛い綺麗だと、そう思うて居りましたなぁ。
 こわい、、、とは、思っちゃあ居なかったンでしょうかねぇ。
 ええ。
 図鑑で御座いますよ。
 ああ云う画附きの図書と云うのは、唯だ眺めて居ても愉快なものでは御座いますが――何よりところは、書いて在る事も描いて在る物も、虚実を問わぬと云う処で御座いましょう。
 ええ。
 恐竜なンかがまさにそうで御座いますな。
 こわたつと書きますが、竜ですからな。
 しんば過去に実在したとて、それでも遠い昔の生物ですから、それはもう空想の範疇で御座いましょう。
 浪漫でしょうなぁ。
 映画や漫画でも、あの部類ジャンルはもう虚実綯い交ぜで御座いましょう。
 稚児の分際で当時の私は、そう云う事情をそれと無しにも分別した上で、画中の恐竜共を眺めて居ったのでしょうな。
 現代に実在して居れば怖ろしいどころではない怪獣の数数かずかずが、駆け廻って睨み合って貪り喰って居る様相を、唯だ綺麗だ綺麗だと笑って観て愉しんで居りましたが――。
 或る一枚が、妙に印象的だったのですな。
 如何いかにも今しがた頸筋咬まれて出来たと思わせる歯形の傷痕からあかい血潮をどくどくどろどろ流し乍ら、四肢を放って投げ出したように横ッ倒しに臥せって居る、ッた一頭の草食獣の挿絵に御座います。
 眼も顎も放漫だらしなく半開きにして、元元の体色は知れねども何処と無く色褪せたように蒼白い灰色の肌は弛むともこわばるとも見えて――。
 喰われるでも無くよみがえるでも無く唯だぐったりと寝て居る姿形さまは、もう二度と起き上がらぬ事だけを確言するかのようで――。
 そのうち九相図を模倣なぞるように朽ち果てて骨さえ残さず消え失せようと、おさなをしてさえそう予感させる、何処か侘しい一枚画でした。
 あの忌まわしい夏――。
 父母が家を空けた折。
 狭い浴槽の中で膝を抱えて。
 私はその画を心裡にび起こして居りました。
 もう死ンじまって、何もかも終いに為たかったンでしょうかねぇ。
 何もかも厭になったのは真実ほんとうだったように思いますが、実際ほんとうに死にたかったのか否か、其処はまぁ怪しいンですがねぇ。
 色色と差し障ってあンまり詳しくは申せませんが、躰をね、こう。
 切り裂いて。
 ずから血ぃ流したンですな。
 どくどく。
 どろどろ。
 流れ出て行く血潮を眺めて居る裡に、
 ――これで漸く、
 ――あのくさみの竜と同じに成れる。
 そう思うたように記憶して居ります。
 だから。
 死にたかったンじゃあないンでしょうなぁ。
 ええ。
 当時は未だ確実な遣り方なンざ識らなかったとは云え、それでも遣ろうと思えば、遥かに確実な手段はいくでも思い附いたもンでしょうしねぇ。
 亡くなる、、、、ンじゃあなくって、無くなり、、、、たかったンでさぁ。
 消え失せたかったと申しましょうか。
 げられなかったから――。
 せめて。
 隠れたかった、、、、、、ンでしょうねぇ。
 あの怪獣の、土気色にかたくなったしかばねは、もう二度と――。
 他の何者の視線に曝される事も無く、唯だひっそりと隠れるように見えなくなって――。
 消える。
 後には跡も残らない。
 其処が。
 ――潔い。
 ――じぶんも、そう、、成りたい。
 その夏の私ぁ、そンな莫迦を思ったンでしょうな。
 ええ、大馬鹿者で。
 穴さえ在れば入って隠れたいと、そう云う恥辱に非道ひどさいなまれる余りに死にたいと望むも――。
 どんな美人麗人も死ねば汚く朽ちる訳で、きたな屍姿かばねすがたを衆目に晒したくないから綺麗さっぱり葬られたいと頼むも――。
 何方いずれにしたって人間の本心に御座いましょうがねぇ。
 そン時ぁそンな事まで考えちゃあ居なかったンで。
 唯だ死ねば隠れられる、、、、、、、、ンだと、そう思うて居ったんでしょうな。
 だから。
 矢ッ張り。
 死にたかったンじゃあないンで。
 死ンじまった後の遺骸むくろに成りたかったンで御座いましょうねぇ。
 だからこそ怖くもなかったように思います。
 違いますかなぁ。多分そうだと思いますがねぇ。
 死ンじまって――。
 躰がこわってしまえば痛くも痒くもないンでしょうや。
 きずが痛い息が苦しいと、そう云う肉体感覚のこわさと云うのは、死にゆく過程を恐怖する感情に他ならぬものでは御座いませんか。
 それは肉体がこわれるのをこわがって居る訳で――。
 裏を返せば。
 そう身体からだを心配して居る裡は、洩れ無く生きたがって居るンと違いますかなぁ。
 はあ。
 ですから益益ますます
 もう生きて居たくなンかなかった当時は、死にかけた割には然程怖くはなかったように思われるンで御座います。
 けれども。
 もっと確実に。
 之はもう駄目だ死ぬかも知れぬと、そう云う怖い思いを体験したのは、ずっと後の事で御座いました。
 それは、ええ、あの二人静事件の後の事に御座います。
 小面の謎をおぼえていでかな。
 謎は二つ在ったンでしたな。
 一つは、二枚の小面がひとつくりの匣に収まって居た事でしたな。
 此方こっちは既に解決済みで御座いましたが、もう一つのほうが問題でして――。
 今一いまひとつは。
 匣にあに、菜摘女にしめす、静御前にくち――そう文字が彫って在った、あの面妖おかし入墨いれずみの事に御座います。
 一連の事件の末に。
 呪いも祝いも無かったと解った以上は、ええ。
 私にだって最早、唯だの悪戯としか思われませんでしたよ。
 はい。
 実際そうだったンで御座います。
 思いあたる知り合いに、造物の材質に詳しい爺様が居りまして――今度は本人の意向が在りますから、実際ほんとうの御名を申し上げますが――三毛ミケと名乗る半血ハーフに御座います。
 黒人ネグロイド邦人くにびととの間に生まれたと云う、浅黒い肌の大男でして。村から離れた山ン中で暮らして居ったようですが、相当のかわりだねに御座いました。
 なンでもこの三毛、御先祖はいっしんから暫く後までは山の民だったそうなンで。それで戸籍を戴いてからは一端いっぱしの国民として世を渡って代を継いで来たそうですがねぇ。
 ええ。
 山の民に御座いますよ。
 身分の制度が表向き廃止されて、河原者も無宿者も文字通りの無職者に成ッちまったでしょう。
 そのうちの幾等かが山ン中に帰ったとも、或はずっと先の時代に堕ち延びた平氏が逃げおおせた末の者共とも、まあ津津浦浦に色色と聞きますが――。
 この邦には元元山ン中に、そう云う人種を山程も抱えて居たンでさぁ。
 ぽんす、、、とかぽんすけとか、そう云う言葉も彼等が居なくなってから此方こっちうに死ンじまったンでしょうやねぇ。
 土地には未だその名残の強い家系が、偶偶在ったと云うだけなンでしょうよ。
 聞くところに依ると、如何どうやらその時分から父の家は彼等と付き合いが在ったそうで。
 件の青鷺の山泉も、嘗ては三毛の家が手を入れて居ったとか云う話も聞きましたな。
 はあ。
 三毛と云う名は、勿論本名じゃあ御座ンせんよ。ちゃんとした御名を御持ちですがね、山から下りて村のもンと話す時にゃあ三毛と名乗って居ったンですよ。
 本人は邦語しか話せねぇのに、授かッちまった真実ほんとうの御名は米国由来のもンでしたから、それをもじってあだたンですな。
 昔ッからこわもてが祟って、里じゃあ随分とこわがられて居ったようで御座ンすから、せめて呼び名だけでも親しみ易くしようと、そう考えたようで。
 ええ。
 私は怖いと思った事は一度も在りませんでしたよ。
 肌の色は、それぁまあ暗いンですが、顔貌なンて能く判りませんから――精精がところ、何処と無く異国風な目鼻立ちの大男としか思われませんでしたよ。
 ええ。
 三毛とは餓鬼の時分から交流が在ったンで。
 その頃は未だ爺と云う年齢としでもなかったかも知れませんな。
 幼い私と話す時には決まって、こう、ぐうッと小さく膝抱えてまあるく腰落としてねぇ、眼ン高さ合わせるように屈み込んで。
 あれやこれやとくさつちいしの名前を教えて呉れたもンで。
 真ッ白いたまやさしな好好爺でしたよ。
 その三毛が、
 ――ぼン、此奴ぁ慥かにふるぅいもンだがね、青刺した、、、、なぁ近世だぃな。
 そう云うたンで御座います。
 ――きずはまぁ悪戯だろがね、
 ――この檜ぃ一体、
 何時の時代のもンか知れねぇ、、、、、、、、、、、、、と、そう云うなり三毛は思案に耽って黙り込んでしまいまして――。
 はい。
 それを明らかにする為に。
 母の実家を訪ねて米国まで赴いたンで御座います。
 なンでも祖母の伝手つてにゃあ、旧いつくりもンの年代を知らせると云う、当時こそ世にも珍しき機械が在ったンでさぁ。
 見目が白人コーカソイドに近うて言葉も米語を使えると云っても、明らかに痩せぎすで見るからにひ弱な私では独り旅も難しかろうと――。
 そう云う訳で。
 老い乍らにも体格も確乎しっかりして、傍目には純血の黒人にしか見えぬ大男の三毛を伴って、祖母を訪ねて海を渡ったンで御座います。
 はあ、その先で。
 また、、大変な目に遭いまして。
 湿地と申しましょうか沼畔と申しましょうか、地面も空気もやけに湿気った、駄駄ッ広い閑処の度真どまなかで忽然――。
 濃霧に呑まれて。
 その上。
 荷物を盗られてしまいまして。
 大事な能面ごと丸丸全部ですから、もう何の為に旅して来たンだか判りゃあない。
 泣きッ面に蜂とばかりに辺り一面、視界は益益白くかすんでぼやけて来てねぇ。
 もう駄目かと途方に暮れて居りましたら――。
 刹那。
 ――ばうッ
 聞き慣れぬ破裂音がけむなかつンざくように響くンですよ。
 あれは何と申しましょうか、爆発的な暴力でおもたもンを叩いて弾いたような、初めて耳にしたとて恐怖するに容易たやすい、それはもう禍禍しい轟音で。
 ――銃声か。
 ようやッと察してとっにぐるり見渡して。
 ――死ぬかも知れぬ。
 妙に冴えた頭でそう思って――。
 振り返ると。
 真ッしろい霧の向こうに。
 真ッくろな装束の怪人が。
 ――あれぁ黒袴、、では。
 此方に銃口向けて、ッとって居りました。

 こわ――了
 続――けむ

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