死は存在しないからそもそも理解も出来ない。

死は存在しないからそもそも理解も出来ない。

2020.12.21

「死」というものをどう考えたらいいのかと思うんですけども。

実は「死」は存在しないので、そもそも「考えることが出来ない」んですね。

無いものは無いんです。

無いものはどうやっても考えることは出来ません。無いんですから…。。

なので「死」についてどう思っているのかと聞かれても

「よく解らない」としか言いようがないんです。

「そもそも死という言葉が何を意味しているのかが解らない。」ということです。

「死」はそもそも理解不能です。

「死」があるという前提そのものがおかしいということです。


でも僕らは存在しない「死」をあたかもあるかのように感覚しています。

世の中の慣習もそのような感覚が土台になっています。

「死」は虚無、怖い、悲しい、不幸、暗黒、懲罰、みたいなイメージで捉えているわけです。

何故こうなるのかというと「生と死」という二項対立で相対的に「死」を理解しているからだと考えられます。

他人の「死」はそれで語れるかもしれませんが、自分の「死」はそのようには語れないんです。

なぜこうなるのかと言うと、そもそも生命とは「絶対的」なもので言語では元々表現不可能なものであるからだと思っています。

--

スピリチュアルな組織や団体・特定の霊的指導者を支持すべきかどうか?束縛があるならしない方がよい!

2020.12.22

スピリチュアルな活動をする上でそうした組織や団体に所属したり支持したりすべきかどうかについて思っていることをお話します。

僕もスピリチュアルの勉強や修行を始めてしばらくたった時にそうした団体に参加してみたことがあります。

今も続いているのは得度を受けた寺くらいです。

寺と言っても、1年に一回お参り行くかどうかという程度で特に会合的なものに参加したりイベントに参加したり熱心に何か儀式的なことを学んでいるというわけではありません。

スピ系の団体にも何となく通ったことはありますが、いづれも1年~2年程で行かなくなりました。

僕としてはどこかの組織や団体に所属したり、誰か霊能者等の特定の指導者を特段支持することはありません。

そうした団体に所属したり、指導者を支持したりするとその団体や指導者が出している(霊的なことの)公式見解を支持しなければならず、そうした「束縛」が霊的なことを「言葉という形式」で理解するということになりかねず霊的にあまりよろしくないと思うからです。

人それぞれ霊的背景は様々で人によってはそうした学びが必要な「時期」があるとは思います。

ですのでそうした団体や指導者を支持しておられる人を悪く思っているわけではありません。

でももしそうした団体や指導者に「これはおかしいのではないか?」という疑問が出てきたらそこを去るべき「時期」が来たと悟って去るべくして去ればいいと思います。

長いことその団体なり指導者なりを支持しているからと言ってずるずると「盲信」状態を長引かせるということがあってはならないと思っています。

特にこの「盲信」が霊的にも一番よろしくない状態であると思っています。

霊的な理解力はどんどん進化していくもので、人それぞれにベストな学びが様々あると思いますので自由に流動的にその時々におけるベストな学びを選択できるようなニュートラルな状態を保持しておくというあり方が良いと思います。

霊的な学びは進化すればするほど孤独になっていくとシルバーバーチは言っています。

一人になることを恐れず、「盲信(思考の硬直化)」に陥る可能性を極力排除してのびのびとやっていくのが僕には合っているのかなと思っています。

ただ一人でやっていると独善に陥るという弊害はありますので、そこには気を付けながらやっていく必要はあると思います。


--

人は皆、霊の媒体。善霊もしくは悪霊は人々を流動的に媒体として現れる

2020.12.23

憑依が深刻化していた時(当時31歳)に顕著でしたが、こんな感覚に囚われたことがあります。

例えばAさん、Bさん、Cさん、Dさんがいるとして、その中に僕を攻めようとする悪霊(?)がその4人の中を自由に移動しながら入っているように感じられるのです。

悪霊は誰か特定の人物に憑依して僕を攻めているわけではなく、ある時はAさん、またある時はBさん、Cさん、Dさんというように自由に流動的に人々を媒体として移動しているというのが解るのです。

AさんBさんCさんDさんがどんな人物であっても関係ありません。

それぞれの個性・属性とは関係なくあらゆる媒体をその時々において必要に応じて使うことが出来るという印象です。

例えばAさんは職場で会う様々な人々である場合もあります。

またBさんは街中を歩いている時に通りすがりにすれ違った人々の場合もあります。

Cさんはテレビを見ていてたまたま合わせたチャンネルの出演者の場合もあります。

Dさんは僕の家族の場合もあります。

こうした感覚は実は僕を褒めて勇気づけてくれる善霊(?)においても原理的には変わりません。

ある時はAさんを使って、またある時はBさんCさんDさんを使って僕の味方になってくれます。

Aさんがどんなに性格の良い人でも、あるいはBさんがどんなに性格の悪い人でも関係なく、善霊もしくは悪霊はそれぞれを自由に媒体として使うことが出来るという印象です。


ただ霊の世界には自他はありませんので、善霊もしくは悪霊と言っても実は自分自身の「霊(意識)」の姿を見ているのかも知れません。

人々は自分を映す鏡のような媒体として現れているように思います。

悪霊が攻めている言っても人々を媒体にして自分の霊が自分の悪いところを攻めているだけであり、また善霊といっても自分の霊が自分の良いところを褒めて伸ばすように勇気付けてくれているように思います。

どんなに善人でも悪霊がその人を使うこともあれば、どんなに悪人でも善霊がその人を使うこともある。

人は皆、霊の媒体なんだと思います。



ありがとおー。