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【時代背景など】『にぎたつの海に月出づ』(2025・星組バウ)個人的まとめ

『にぎたつの海に月出づ』
2025年1月24日〜2月4日
星組・宝塚バウホール公演
極美 慎さん2度目のバウ主演作の時代背景について調べたことをまとめてみました。
わかっていたらより作品が楽しめるかもしれない?ような知識になっていると嬉しいです。

【お読みになる前に】

・私がインターネット上で調べた情報を私的にまとめたものであり、本や論文などの裏付けをとっていない情報です。誤った情報となっている可能性もあるので、参考程度にお読みください。
・日本語の使い方が間違っていても、なんらかの政治的な思考等はなくただの間違いです。
・生徒さんの敬称は省略しています


【目次】

1.5〜7世紀ごろの朝鮮半島と倭国
2.蘇我氏と政治のつながり
3.寶皇女の生涯はどんなものだったのか
4.「熟田津のー」歌が読まれた背景
5.「白村江の戦い」とは
6.蘇我氏と大化の改新について
7.個人的な感想と考察


1.5〜7世紀ごろの朝鮮半島と倭国

西暦500年ごろ
朝鮮半島は4つの国に分かれていました。
高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)
今回の作品でメインとなるのは百済です。
当時の日本は倭国(わこく)と呼ばれていました。

世界の歴史まっぷ より引用

倭国と百済はいつごろ交流をはじめたのか?
300年代後半、もともと倭国と交流の深かった任那が仲介をして、百済との交流を始めたのではとされています。
372年には、百済から倭国に刀が送られたとの記録もあり、この時にはすでに友好関係を築いていたようです。

この頃から、百済と倭国は
倭国→百済:軍事力を提供
百済→倭国:学者や技術者を送り文化を広める
というギブ&テイクの関係が出来上がっていました。
仏教もこの時代に百済から入ってきて日本に広まったと言われています。
友好国ではありますが「人質」という形で百済から皇子を送る風習もありました。
人質とはいっても、政治的な行事に参加したり、自由な暮らしができたと言われています。

ちなみに「にぎたつの海に月出づ」で描かれる(であろう)600年〜660年ごろには、朝鮮半島は四国ではなく三国に減っています。
任那は新羅の侵攻によって562年に滅亡、これにより倭国にとって朝鮮半島の友好国は百済のみとなりました。

2.蘇我氏と政治のつながり

作品のキャストには蘇我蝦夷(そがのえみし・輝咲)とその息子、蘇我入鹿(そがのいるか・大希)が登場します。
あらすじでは「百済を利用して勢力を伸ばそうとする蘇我氏」「蘇我から国を守ろうとする推古天皇」とありますが、蘇我氏と政治はどのように繋がっていたのかをまとめていきます。

・蘇我氏の繁栄

蘇我氏が急激に権力を持ち始めたのは、蘇我稲目(そがのいなめ)の頃と言われています。(稲目は蘇我蝦夷(輝咲)の祖父)
自分の娘2人を天皇の妃にし、稲目の娘たちはたくさんの子どもを産み、政治の中心には着々と蘇我氏の血が広がっていきました。
稲目の息子が、蘇我馬子(そがのうまこ)です。
馬子は大臣(おおおみ・天皇の補佐として政治を行う)として、がっつり政治を取り仕切る権力者になっていました。
もちろん、その息子の蝦夷も大臣として権力をふるいました。

・蘇我馬子がやったこと

作品には出てきませんが、推古天皇(瑠璃)を語る上で蘇我馬子を知っていた方がわかりやすそうだなと思うので、馬子がどんなことをしてきたかを紹介します。

彼は敏達天皇(びだつ)から用明天皇(ようめい)、崇峻天皇(すしゅん)、そして作品にも登場する推古天皇(すいこ・瑠璃)が崩御するまで、なんと55年もの間、大臣として活躍しました。
馬子は大陸の文化を取り入れることに積極的で、仏教の普及に前向きでした。
推古天皇在位期間に馬子主導で作られた飛鳥寺(あすかでら)は日本初の本格寺院と言われています。

推古天皇(瑠璃)在位中も大臣として朝廷にいた馬子。
なぜあらすじで書かれているような「蘇我から国を守ろうとする推古天皇」という対立構造ができてしまったのでしょうか?
これは憶測ですが、ひとつは蘇我氏の力づくな政治の進め方への反発があったのかなと思います。

552年に起きた丁未の乱(ていびのらん)は、仏教を積極的に取り入れるべきと主張する蘇我馬子と、古来の神々の信仰を続けるべきだと主張する物部守屋(もののべもりや)が対立して起こったものです。
守屋は、疫病を仏教のせいにし、敏達天皇(推古天皇の前々代)の許可を得て、馬子が作った寺を焼き、仏像を捨てました。(なんてパワープレイ)
敏達天皇が崩御したのち、次の天皇を誰にするか、後継者を決めることになりました。
後継者の橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと・のちの用明天皇)は仏教を広めることに前向きだったため、守屋は別の後継者を推します。
それを知った馬子は、守屋が推す後継者を殺害。さらに守屋を襲い、物部氏を滅ぼしました。(こちらもなんてパワープレイ)

さらにさらに、用明天皇が崩御したのち、馬子は甥の崇峻天皇を即位させます。
しかし、思い通りにいかなかったのか、崇峻天皇を暗殺。推古天皇(瑠璃)を即位させるのです。
(推古天皇のほか、蘇我氏と血のつながりのある後継者はいましたが、なぜ推古天皇が選ばれたのかは謎です)
このように力づくで政治を押し進める蘇我氏をよく思わなかった人がいるのも納得できます。

さらりと言ってしまいましたが、推古天皇(瑠璃)は蘇我馬子の姪にあたります。
馬子の後ろ盾をうけて即位した推古天皇(瑠璃)でしたが、「蘇我氏の力は利用するが、好きにはさせない」と考えました。
そこで採用されたのが「二頭政治」です。
聖徳太子を摂政にし、馬子は大臣として、「2つの頭」を使い、政治を動かしていきました。
聖徳太子の補佐役として、蘇我氏は自身の勢力をしっかりキープしていたそう。
調べてみるまで、蘇我氏は悪役だとばかり思っていましたが、とても頭の切れる人間だったのだろうなと思います。

ここまで説明をしておいて…なのですが、あらすじにある「百済を利用して勢力を伸ばそうとする蘇我氏」について、正直私はピンときませんでした。
「百済から入ってきた仏教を倭国で広めること = 蘇我氏の勢力拡大に繋がる」ということなのかな、といったん理解しておきます。

3.寶皇女の生涯はどんなものだったのか

(作品に出てこないのに、蘇我馬子について書きすぎました。)
作品のヒロインとなる寶皇女(たからのひめみこ・)について見ていきましょう。

寶皇女(594〜661)

父:茅渟王(ちぬのおおきみ・美稀
母:吉備姫王(きびひめのおおきみ・七星

?年:高向王(たかむくのおおきみ・颯香)と結婚
?年:漢皇子(あやのみこ)を産む
?年:高向王と離別(〜626年までの間と言われている)
626年:田村皇子(たむらのおうじ・稀惺)との間に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・碧音)を産む
630年:舒明天皇(じょめい・稀惺)と結婚
※役名は田村皇子(たむらのおうじ)ですが、629年に即位しているため舒明天皇と表記
641年:舒明天皇崩御、皇極天皇(こうぎょく・)として即位
645年:退位、同母弟の軽皇子(かるのみこ・凰陽)が孝徳天皇(こうとく)として即位
655年:孝徳天皇崩御、斉明天皇(さいめい・)として再び即位
661年:百済への援軍を指揮するため、九州の筑紫(現在の福岡)にて崩御(67歳)


高向王との離別の理由は明らかになっていません。今回の作品では「幼い息子を亡くし夫と離縁」とされているため、「幼い息子」とは漢皇子のことを表しているのではないかなと思います。(実際、漢皇子は日本書紀でも冒頭しか出てこず、幼くして亡くなったと推察されているそうです)

寶皇女()がいつからいつまで、どのように生活していたかまでは明らかになっていませんが(少なくとも見つけられなかったのですが)、あらすじから考えるに、「にぎたつの海に月出づ」では高向王(颯香)と離別後、中大兄皇子(碧音)が産まれるまでの間で「学堂で懸命に学び」、智積(ちしゃく・極美)と知り合ったのではないかと思います。(615〜626年ごろでしょうか)

4.「熟田津のー」歌が詠まれた背景

さて、作品の主題となる歌が詠まれた背景についてです。

熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
ーー熟田津で、船を出そうと月を待っていると、いよいよ潮の流れも良くなってきた。さあ、いまこそ船を漕ぎ出そうーー

熟田津(にきたつ・作品ではにぎたつと読んでいます)は、どこなのか定かになってはいませんが、現在の愛媛県松山市にあった船着場と言われています。

この歌ができたのは661年、倭国から百済に援軍を出すため、寄港地の熟田津から九州へ向かう際のこと。軍の指揮を上げるために額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌です。

なぜ百済に援軍を出すことになったのか?
最初に書いたように、660年ごろ、朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国が存在していました。朝鮮半島で起きていたことをまとめていきます。

・660年ごろ、朝鮮半島とその周辺で起きていたこと①

①高句麗と唐(現在の中国)が対立
高句麗は、大国である唐と戦うために、隣国の百済と新羅からは攻められないよう手を打っていた方が良いと考えます。
高句麗は百済に声をかけ「共に新羅を攻めよう」と提案、百済は誘いに乗ります。
攻められることになった新羅、高句麗と対立している唐に声をかけ、
高句麗&百済 vs 新羅&唐
という戦いの構図が生まれました。

②高句麗&百済軍が優勢に見えたが…
高句麗の武力に防戦一方となる新羅。
唐・新羅連合軍は、高句麗を孤立させるため、百済を攻撃するのが有効的だと考えました。
660年、唐は百済への進軍を開始。新羅も百済に攻め込みます。

③百済の滅亡
唐と新羅に攻められた百済、首都の泗泌(しひ)が陥落。
王の義慈王(ぎじおう)は唐の長安に送られ、百済は滅亡することになります。

④百済残党軍の存在
滅亡した百済、しかし残党軍がいました。
その残党軍のリーダー的存在が鬼室福信(きしつふくしん)。
鬼室福信は「百済再興のためには新しい王が必要だ」と考えます。
「義慈王の息子、豊璋(ほうしょう・御剣)を倭国から連れ戻そう」と考えるのです。
なぜ義慈王の息子が倭国にいるのか?
それは、「1.5〜7世紀ごろの朝鮮半島と倭国」で書いた「人質」として倭国に送られていたからです。(豊璋(御剣)は631年に人質として倭国に来たと記録されています。)
鬼室福信は、友好国である倭国に使節団を送り、軍事支援と豊璋の返還を頼みます。

⑤鬼室福信からの連絡を受けた斉明天皇(
660年10月、倭国の朝廷は百済が滅亡したことを知ります。
倭国にとって、百済は朝鮮半島唯一の友好国。援軍を出すか出すまいか、究極の選択を迫られることになります。

・援軍要請を断り、静観する道
・百済に援軍を出し、百済再興を目指す道

倭国は百済との交流で多くの文化を手に入れてきました。百済が滅亡したいま、朝鮮半島との交流は今後見込めなくなります。
しかし、百済再興を目指すということは、大国・唐に喧嘩を売るということ…
倭国の王、斉明天皇()は「百済再興を目指す道」を歩むことに決めます。

⑥援軍を自ら指揮する斉明天皇
661年、斉明天皇()自ら軍を率いて朝鮮半島に近い九州へ向かいます。
その道中で寄港した熟田津で詠まれた歌が「熟田津のー」ということですね。

しかし、斉明天皇()は目的を遂げることなく九州の筑紫で崩御されます。その後は、息子の中大兄皇子(碧音)が援軍の指揮をとりました。

⑦662年 援軍第一軍が九州を出発
この船の中には、豊璋(御剣)の姿もありました。
朝鮮半島に到着した援軍第一軍は百済残党軍と合流。唐・新羅連合軍に攻撃を仕掛け、周留城(するじょう)という百済の拠点を築くほどの快進撃を見せました。
体制を立て直した百済、ここから明るい未来が続くかと思われましたが…

663年に起こる「白村江の戦い」に繋がることになります。

5.「白村江の戦い」とは

白村江の戦い(はくすきえ・はくそんこう)は、朝鮮半島の白村江という場所で起きた、百済・倭国軍と唐・新羅連合軍との衝突です。

・660年ごろ、朝鮮半島とその周辺で起きていたこと②

⑧663年3月 百済残党軍で内紛が起こる
唐・新羅連合軍は、百済の周留城攻撃のために集結します。
同じころ、倭国も百済への援軍第二軍(約2万7000人)が朝鮮半島に到着。周留城へ向かうところでした。
しかし、豊璋(御剣)がとんでもないことを言い出すのです。

豊璋(御剣)「鬼室福信は王位を奪おうとしている、謀反を起こすつもりだ!」

あろうことか、豊璋(御剣)は百済軍の中枢である鬼室福信を殺害。
リーダーを失った百済軍、そして倭国の援軍にも混乱が広がります。

⑨混乱に乗じた唐・新羅連合軍
鬼室福信がいなくなったと聞いた唐・新羅連合軍、これはチャンスだと周留城に攻め込みます。
同じころ、倭国からきた別働隊(約1万人)が白村江に向かっていると聞いた豊璋(御剣)。援軍と合流し、白村江で唐・新羅連合軍との決戦に挑もうと決意します。

⑩白村江の戦い
豊璋(御剣)と倭国の部隊は白村江に到着しました。
しかし、その到着は唐・新羅連合軍が白村江に到着した10日後。完全に後手に回ってしまったのです。

百済・倭国は唐・新羅連合軍に総攻撃を仕掛けるも惨敗。唐が残した書物には、戦場となった海域は倭軍の兵士が流した血で真っ赤に染まったとの記載が残っているそうです。

鬼室福信の死がなければ、百済・倭国軍の白村江への到着がここまで遅れることもなく、戦況は変わったのではと言われています。
百済・倭国軍が唐・新羅連合軍と衝突し、敗れた。これが白村江の戦いです。
この戦いが百済の滅亡を決定づけるものとなりました。

Tips

百済滅亡後、次のターゲットにされるのを恐れた倭国は、朝鮮半島に近い九州の守りを固めることにしました。防人の登場です。
百済滅亡後の朝鮮半島はどうなったのか、668年に高句麗も唐・新羅連合軍に奪われ、新羅が朝鮮半島を統一することで、朝鮮三国時代が幕を閉じました。
朝鮮半島統一後の唐と新羅は、高句麗という共通の敵を失ったことにより敵対することとなります。そのおかげで、倭国がターゲットとなることはありませんでした。

6.蘇我氏と大化の改新について

時代が前後しますが、645年に起きた「大化の改新」について、その前後の蘇我氏の動きを含めてまとめていきます。

「2.蘇我氏と政治のつながり」でも書いたように、蘇我氏は大臣として政治の補佐を行ってきました。
天皇が崩御された際に、次代の天皇を決める力も持っていたのです。

「にぎたつの海に月出づ」に関わりそうな一部の天皇を抜粋しました。

33代:推古天皇(瑠璃)(在位592年〜628年)
34代:舒明天皇(稀惺)(在位629年〜641年)
35代:皇極天皇()(在位642年〜645年)
36代:孝徳天皇(凰陽)(在位645年〜654年)
37代:斉明天皇()(在位655年〜661年)

・蘇我入鹿の暴走

643年 皇極天皇()の在位中、蘇我入鹿(大希)がある行動を起こします。
この時、いずれ天皇候補になるとして名前が上がっていたのは古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)と、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)でした。

古人大兄皇子は、舒明天皇(稀惺)と蘇我法提郎女(そがのほほてのいらつめ・二條)との間の子です。
蘇我法提郎女(二條)は、蘇我馬子の娘で、蝦夷(輝咲)のきょうだい。入鹿(大希)のいとこです。
山背大兄皇子は、聖徳太子の息子にあたります。刀自古郎女(とじこのいらつめ)との間の子で、刀自古郎女も蘇我馬子の娘。こちらもやはり蝦夷(輝咲)のきょうだい。入鹿(大希)のいとこであるわけです。

ややこしすぎます

入鹿(大希)にとってはどちらも同じ従兄弟ではありますが、聖徳太子の血をひく山背大兄皇子がいずれ天皇になることは都合が悪かったのでしょう。
入鹿(大希)は山背大兄皇子が住む斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃し、山背大兄皇子を自殺に追い込みます。

ちなみに、山背大兄皇子は第34代天皇を決める際の後継者としても名前が上がっていましたが、こちらは蘇我蝦夷(輝咲)が即位を阻止。蘇我氏によって二度も天皇即位を妨げられているわけです。

・中大兄皇子と中臣鎌足の結託

蘇我入鹿が山背大兄皇子を自殺に追い込んだことを知った中大兄皇子(碧音)は、軽皇子(凰陽)に重用されていた中臣鎌足(なかとみのかまたり)と結託し、蘇我氏の勢力を抑え込もうとします。
そうして645年、大化の改新のきっかけとなる乙巳の変(いっしのへん)を起こすのです。

朝鮮半島からの使者を集めた行事の最中に、中大兄皇子(碧音)が蘇我入鹿(大希)に斬りかかり入鹿を殺害。
息子の死を知った蘇我蝦夷(輝咲)は、乙巳の変の翌日、邸宅に日を放ち自害しました。これが乙巳の変です。
こうして蘇我氏は滅亡したと言われています。

7.個人的な感想と考察

「にぎたつの海に月出づ」の時代背景について、まとめた内容は以上です。
ここから先は、どのあたりが作品で描かれるのかな〜、こんなお話だったらいいな〜という私の感想と考察です。

・寶皇女と智積が出会うのは、615〜630年ごろ?
→離別したとはいえ、天皇の孫と一度は結婚した女性が学堂に通うものなのでしょうか…。学堂がどのようなものかは不明ですが、ここで田村皇子とも出会っていたのですかね。
そのため、寶皇女が智積と出会うのは、寶皇女が30代前半くらいの頃なのではないかと思います。勝手にもっと若い時の話なのかと思っていました。

・智積は百済にいつごろ帰るのか、帰った後はどんな生活をしていたかは描かれるのだろうか
→豊璋が配役されているということは、白村江の戦いはしっかり描くのではないかなと思っています。そうすると気になるのが鬼室福信の存在。配役発表では名前がなかったので、物語には出ないのか、どなたかが2役目として担当するのか…。個人的には、智積が百済に帰り、鬼室福信として名乗っていた。なんて設定が生まれたら嬉しいなと考えていました。(鬼室福信自身は武王の甥であるので、史実に基づいたら難しいのですが…一部ファンタジーとしてあったら嬉しい)
かつて惹かれあった女性に、自国の再興の手助けをお願いする…とてもいいなと…!
極美さんの感情溢れてビリビリと伝わってくるような演技が大好きなので、豊璋に謀反を疑われた瞬間などとても見てみたいです。

・蘇我氏の刺客が配役されている、ということは入鹿の斑鳩宮襲撃も描かれる?
・額田王は誰がやるのか?寶皇女の女官であったそうだが、侍女とは区別されるだろうし。歌自体を斉明天皇が詠んだとすることで解消するのでしょうか


終わりに

調べるまでは、「大化の改新ってなんだっけ…?」レベルに知識がなく、あらすじを何度読んでも理解が追いつかずに泣きそうだったのですが、調べてみたら数珠つなぎのように新たな視点や解説が見つかり、意外とおもしろいなあと思いました。(そしておもしろいんだよ〜!と伝えたいがあまりに内容を詰め込みすぎて読みづらくてごめんなさい)

「にぎたつー」を楽しみにされている方で、私のように歴史に苦手意識のある方の少しでもお役に立つと嬉しいです。(あとライブ配信がありますように)




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