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会津物語4 - 西郷頼母

鶴ヶ城の後は、会津武家屋敷。

会津武家屋敷

門をくぐると迎えてくれたのが、復元された西郷頼母の屋敷でした。なんと建物面積280坪、38部屋で畳の数が328畳という広大な屋敷でした。

西郷と言えば隆盛。同じ性の頼母を知ったのは、実は合気道開祖の植芝盛平が修行した武田惣角の大東流合気術が、実は会津に伝わる武術で武田惣角に教えていたのが西郷頼母。その頼母の養子となって、後の柔道講道館四天王の一人で、姿三四郎のモデルになったのが、門前銅像で山嵐を披露している西郷四郎でした。

講道館四天王

門内の左手には片長屋があり、当時の住居環境や展示されていた台所の質素な食事に今の贅沢を自省。

そう言えば、鶴ヶ城前にある博物館で取った昼食が、南蛮漬け定食。南蛮漬けは、鳥でもなければ魚でもない車麩でした。山中の質素な食生活だったのだろうとその土地の昔ながらの生活習慣を垣間見た気がしました。

ところで昨今の食品の値上がりは、異常です。米不足と言いつつも、過去最悪と言われる米農家の廃業や倒産。話しが脱線しましたが、食料危機についてはいずれ触れたいと思います。

さて上席家老であった頼母は、京都守護職の藩主容保の任に反対したり、会津戦争でも新政府軍との間に非戦論を進言した人であったようです。

奥が藩主容保、手前が頼母

頼母の悲劇は、屋敷で留守を守っていた家族と親戚21名の自刃でした。戦火が激しくなるなかで足手まといになってはならぬと、妻の千種子は、自刃した義母、妹達や実の娘(16、13歳)以外に自分で命を断つ事の出来ぬ娘3名(9、4、2歳)を刺して後を追いました。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節の ありとこそきけ

西郷千重子

武術の達人で上席家老。争いを避ける進言で2度も家老職を追われ、愛する家族全員が自刃までした頼母の心中は、どうだったでしょうか?

奥玄関

会津の旅で考えさせられた死を賭す覚悟。

国や家族など守りたいものがある利他の心もあれば、

ならぬものはなりませぬ!

という、生きて辱めを受けるくらいなら死を選ぶという自他の心もあるかもしれません。

覚悟というものを忘れないために、日々何を心掛けて暮らしたら良いのか?

会津の古い街並みを歩いていて、フッと思い出したのが、明治生まれの祖母がよく口にしていた「お天道さまに恥ずかしくないように」でした。

そんな遠くない時代の日本人の心にはあった「誇り」と「意地」。

今は如何でしょうか?

白虎隊に続く


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