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会津物語3 - 鶴ヶ城

七日町を後にして向かったのが鶴ヶ城。
訪れたのが、夏休み最終日の8月31日だったのですが、旧暦との違いがあっても、偶然とは言え会津の人々が籠城して新政府軍に立ち向かったのが、8月末でした。

当初長州藩の大村益次郎は、仙台、米沢を攻撃する主張に対して、土佐藩の板垣退助が会津への攻撃を主張し、旧暦8月23日(新暦2024年10月8日)に城下に突入しました。

しかし、籠城戦に対して在府中の大村益次郎は、周囲から降伏させる長期戦を指示したのに対し、戦地に居た板垣退助は、短期決戦を主張して攻め入りました。

会津戦争
鶴ヶ城から飯盛山を望む

攻めいった新政府軍の中でも長州藩は、主力部隊ではなかったようです。会津藩降伏後、薩摩の桐野利秋と長州の前原一誠の嘆願で藩主容保は死一等を減じられ、謹慎処分となりました。しかし、令和時代の今日でも世間一般では、会津にとっては長州憎しが通説になっています。

「埋葬禁止」という会津藩士の遺体を半年近く放置していた非道は、事実ではなく阿弥陀寺に改葬したのが、半年後だった。それをそれまで埋葬もせず野晒しだったと史実とは違って伝わっていたのが、2016年に見つかった「戦死屍取仕末金銭入用帳」で判ったようです。

しかし、当時埋葬を目撃している人々も多くいたはずなのに、何故そんな話にすり替わって語り継がれてきたか?何かがあったに違いありませんが、それが何なのか?どうしてそうなったのか?

明日の夜は何国の誰かながむらん
なれし城に残す月影

謀略史観と言われるかもしれませんが、follow the money(金の行方を追え)という事が言われます。

戊辰戦争で得をしたのは誰なのか?

勝てば官軍。前編でも勝者が歴史を書き換えると記しましたが、もう一つは、戦後の混乱の中で人々の感情から創作される物語もあるだろうなぁと鶴ヶ城と城外にあった博物館を訪れて感じた次第です。

廊下橋
籠城時のジオラマ説明

シリーズ4 西郷頼母に続く

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