Dell Far East 7-1|サムライ三菱
三菱と言えば、岩崎弥太郎ですね。
土佐藩で坂本龍馬のお目付役の金庫番だったのに長崎で豪遊して藩から預かったお金を使い切ったとか?
現代社会で言えば、横領で逮捕からの刑務所行き。
それを許して再びお金を預けて、長崎に送り返した殿様も太っ腹ですが、何か期待させるものを弥太郎自身が持っていたのでしょうね。もし殿様が烈火の如く怒り、斬首にでもなっていれば今の三菱は当然ないという事になります。
投資は人にする。
そんな三菱も戦後財閥解体の対象になった一社ですが、私の三菱の印象は品の良い紳士ビジネスパーソンが多かったという印象です。弥太郎とは掛け離れたイメージですね。
旧正月で、フッとバブル後半の景気が良かった頃の忘年会を思い出しました。
買い手であった私は、忘年会の接待を受ける事が多かったのですが、三菱は料亭で食事後、二次会で銀座へ。帰りのタクシーを呼んでも二時間待ちというような時代でした。そう言えば、麒麟は三菱グループで、三菱接待の場合ビール🍻は、キリンビールしか出ません。
「年末は接待続きで大変では?」と尋ねると「この時期はほぼ毎晩ですね。」「身体が持たないでしょう〜」という話から
「そう言えばテニスお好きでしたよね。実は我々もテニスをする事を採用条件にしていたほどテニスが好きです。来年からは、うちとは料亭や銀座で二次会の代わりにテニス対抗試合して、負けた方が終わった後にビール奢るのはどうでしょう?」
と持ちかけたら、嬉しそうに即答でYES。
「テニスコートの手配は三菱がします〜」
という事で、忘年会には参加しない社員も加わって対抗試合が始まる事になりました。場所は、年末寒くても問題ない有明の森インドアテニスコート。そんな胸襟を開いたお付き合いこそ会社の看板外した楽しい思い出のひとつです。
さて肝心のサムライ物語は、CRTモニターのOEM供給を受けていた頃の話です。カラーモニターは長崎の時津工場。モノクロモニターは、シンガポールからでした。
ヒューマンインターフェースとして重要であったモニターは、性能重視で安物買いはしないという信念を持っていました。
未だよちよち歩きのデルは相変わらず、フォーキャストは意味ないほど数字がアップダウンの注文。ある程度回転在庫の数量を盛り込む事を何度言っても駄目でした。そんな時にモニター発注間違えていたのか全く足りず、デスクトップPCの出荷がモニターがない為に出来ないという最悪の状況に見舞われた事がありました。
「尾中さん、デルが顧客注文を充す事出来なかったら、今までの評判や成長の勢いに水を指すような事になりますね。直ぐに必要な最低数量教えて下さい。」
「どうされるのですか?」
「空輸しましょう!」
「いやいや、うちには空輸するほどの余裕はないと思います。」
「大丈夫です。空輸代はウチで持ちましょう。この会社がどう大きくなっていくか見届けてみたいと思います。」
信じられますか?
役員ではない部長だったHさん。身長も小さな方でしたが、懐は大きな方でした。顔はテニスやゴルフで一年中真っ黒に日焼けされ、三菱社員のイメーとは違い野武士のような印象でした。そのバイタリティだからかもしれませんね。タイ駐在など東南アジアで活躍されていました。
ずっと後に後日談があります。
当時日本に追いつけ追い越せでモニターOEM生産と言えば、韓国のSamsungやLG、それと台湾勢がしのぎを削っていました。
OEMサプライヤー工場には訪問し、製造ライン見学し、品質管理を如何しているかまで調べて、所謂hidden costとも言える見えないところにどれだけ投資し、気配りをしているかの比較検討でした。ビジネスは足で稼ぐを地で行っていたと思います。
そんな時、価格だけでモニターラインナップをひっくり返えす決定が本社の購買で行われました。事前相談もなく、その決定内容に納得がいかない私はメールで抗議をしました。
本社購買部門は、一台幾ら安く買えるx台数でどれだけ総額で仕入れ価格をセーブした=評価という短略的な考えが見て取れました。
公正にみて品質に問題なければ、日本勢のラインナップをいち早く韓国や台湾に切り替える事は、先頭きってやっていたと思います。韓国や台湾サプライヤーとも相応な人脈も開拓していましたし、当然全ての工場製造ラインは見学していました。
そんな時に電話が鳴り、出てみるとマイケルからでした。
「モニターのラインナップが大幅に変更になるみたいだが、お前はどう思う?」
戦略的付き合い方、価格に違いが出る設計と品管ポイントなどを説明して、モノクロを台湾メーカーに変更は問題ないが、カラーは三菱が高くてもそのままキープする事を推奨しました。
当時画質の決め手の重要部品が、ブラウン管(CRT)でした。どのタイプのシャドウマスクでどこのメーカーのブラウン管を使っているか?磁場に合わせて生産ラインで偏向ヨークをどう調整しているか?などがミソでした。
OEMサプライヤーにCRT部品指定してオファーしてもらい、価格比較検討までしていました。
その結果、マイケルの鶴の一声でカラーだけは三菱にステイ。本社の購買部では大騒ぎになったようです。東京に居る私がマイケルにホットラインで何か言って三菱に戻した。日本人だから日本メーカー贔屓みたいな事をしていると根も葉もない噂が立ったりした頃でした。
さてさて、台湾にも購買オフィスが開設されると極東管轄していた東京オフィスは、日本と韓国管轄がメインになり始めました。組織が大きくなり始めると社内政治が始まるのも東西問わず出始めるものですね。