文句垂れのブルース

  • 私の行動は全て、文句から始まる。面倒、こんなの意味ない、もっと別の方法がある……etc.
    これらの動機がプラスに働いたこともあれば、ただの文句垂れとして眉を顰められることもある。後者は主に家庭においてである。私は外面を良くして家で暴れるタイプの子供として育ち、質の悪いことに今でも同じスタンスで過ごしている。家の中でちゃんとしてなきゃいけない理由が分からない。気が利かないとか悪態をつくなとか言われても、分からない。結婚とかできなさそう。よく母親からは「そんなんじゃ相手の親から嫌われるね」等の脅しを受けるが、相手の親は他人なので、彼らの前ではきちんとできるはずだ。私がだらしないのは家の中だけ(したがって、将来配偶者に見捨てられる確率はかなり高い。働きたくないけど、この事を考えると高給取りにならざるを得ない)。

  • あと、うちは愚痴を言うと怒られる家だ。愚痴なんて最もプリミティブなストレス解消法の一つだと思うのだが、聞いてる側からするとすぐにでもやめてほしいらしい。私は人の愚痴好きなんだけどな。愚痴を言っている時に出る表現は、しばしばその人が持つ語彙を代表する文章となる。愚痴の最中にあっても言葉を選ぶ余裕のある人のことは心から尊敬している。言葉を選ばない人は、私の仲間である。

  • 小学生くらいの頃から、人にはそれぞれ語彙のプールのようなものがあると感じるようになった。気の合う人とは語彙のプールの組成が似ている。語彙の量、範囲、一つの単語に対する見方が似ている。いわゆる「話の通じない人」とは語彙のプールが全く違う。ごく基本的な語であっても、お互い認識している概念にズレがあったりもする。私の家族間では語彙のプールは似通っているものの、世代差なのか、両親と私のプールの色は異なる。そもそも語彙のプールの話が通じるかも不明である。頭の中を説明するのは難しい。

  • 全てをプールのせいにするわけではないが、私の文句が通じないのはこの色の違いの影響もあると思ってしまう。いや違うか?私の経験不足、世間知らずのせいかもしれない。世間知らずだから、まだプールが狭いのかもしれない。底が浅くて、色が違って見えるのかもしれない。プールはデカければデカいほど良い。深すぎると溺れちゃうけど、なるべくデカいプールを持って生きていきたい。この感じだと私のプールにはテコ入れが必要そうだ。プールの改装工事、ダルいなぁ。もっと良い方法ないかなぁ。

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