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ニュージーランド55日紀行 29/55 探す と 見つける

自分探し って、考えてみれば変な言葉だ。

自分でしかいられないのに、そのものでありながら、見えていない片割れを探す。
探せば探すほど、見つからないピースを求めて、なかなか全体像にたどり着けなくて。

自分見つけ って、言ったらどうだろう。

求めるのではなくて、与えられていることに気づくの。
あ、こんな自分も実は自分なんだ、え、こんなのも、あんなのも。これが自分と思ってたけど、こんな自分もいるって、発見の連続。全体像なんか、掴めなくて当たり前。

探す は ないものを。

見つける は あるものを。

私は今、ポツンと
妻でも、お母さんでもなくて、
ほんと、ポツンと、南半球で車道を横断したり、バス停で時刻表や分かりにくい行き先の書かれた表とにらめっこしているひとりの人なんだって、ふと感じた。

ずっと、お母さん、やってきたけど、今ここにひとり。子どもたちにすごく心を寄せてはいるけれど、本当に私には子どもがいるのか疑えるほどに、掴めない場所に彼らの日常はあるんだ。

若い頃のように男性から見られたりすることもなく、
子どもといることで注目を浴びたり話しかけられたりすることもなく、
ただ、ポツンと、何者でもなく、存在している。

今まで抱えていたもの、
妻という立場
お母さんという役割

ピースを探してるときは、それらは大切なピースだけど、まだ何か探していた。足りなくて、欠けているような気がして。それらは言い訳であり邪魔者だった。

でも、なにもない自分がポツンといると、そういうので自分を定義づける必要もなかったような気持ちがしてくる。
そんな自分もいた。
あんな自分もいた。

こんな自分がいる。

肩書きを、すべて捨て去ったらここには居ないのだけど。(鍼灸師というどでかいものは今大事すぎ。)
でも、ここからやっと、ある を見ることが、始まるんだ。

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