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過程のなかの、ひとつのこたえ。
日常を離れて、自らを見つめる。
他者の空間、価値観に触れ、自らの在り方を確認する。
旅には、ひとつ、そういう役割があると思う。
伝統職人の技を残す。
日本が誇る美を紹介し、異空間で自然を体感してもらい、この経済優位社会の中で、シンプルかつお金の概念を超えた、価値を見出すことをいざなう。
体験と宿泊2日間で軽く50万円ほど支払うことができる富裕層の旅行客に対して、伝統工芸を紹介するとともに、心も身体も解放するような鍼灸体験を施すことによって。
その道をまっすぐに生き、話術よりも技術に卓越した職人の作り出す、高いものは数百万円を超える素晴らしい作品は、美に感銘を受けた富裕層に購入してもらうことでより輝き、職人の生活も潤す。
まさに、ウィン・ウィンのビジネスは、誰からも喜ばれるものに違いない。
洗練された、理想を追求した、異空間。
いっぽうで、ザ・昭和の、油と煙草の煙が染み込んだ、モーニング500円のカフェでは、きっともう50年ちかくも毎朝毎朝エプロンをして、一杯のコーヒーとバターを塗ったトースト、ミックスサラダにスクランブルエッグをお盆に乗せて、丁寧に接客をする夫婦がいる。
肩に湿布を貼り、膝が痛くても、きっと、毎朝同じように、同じ時間を、淡々と繰り返している。
オープン前からお店の外にはスポーツ新聞を小脇に挟んだ近所のおじさんが佇み、いつもの、と注文し、常識のない(と表現される)若者や外国人への文句を並べながら、トーストを頬張り煙をくゆらせる。
そこでは日常を繰り返す500円が、確実に、無名の一人ひとりの生活を支えている。
何の変哲もない、いつかは別の店舗になるであろう、時が紡がれた空間。
どちらもあって、世界は成り立っているのに、どちらかにしか属せないのか。
欲張りなわたしは、分離ができないわたしは、どちらにも属せずにこの世界を浮遊しつづけて生きながらえている。
わたしにとって、日常は、淡々とした日常は、それだけで美しく、同時にすべては異空間であるのかもしれない。
洗練された空間で正座が出来なくて、足を投げ出してヒーヒー言っている、豪華客船で旅する汗だくのアメリカ人観光客も、時代劇好きが昂じて10代から修業を積んだ刀職人も、読んでいる漫画に、上手くフォークにさせなかったベーコンを落としてしまって急いでティッシュを探しているおばちゃんも、ただただ、みんな美しく、愛しい。
美しく愛しいと感じられれば、もう人生がいつ終わっても後悔はないのかもしれない。
ただこの場にいるこの瞬間は、丁寧に接客をする笑顔の奥にある少し哀しげな彼女の、誰にも気づかれていないであろう、膝の痛みに手を当てたい。
カフェの片隅の席でそう思った瞬間、わたしの瞳から意図せずして涙が溢れ出して止まらなかった。
鍼灸師と名乗るのを、辞めようと思う。
良い旅だった。
誰も彼も、わたし自身も、愛していこう。