『ぼくとバク。』36
「あつゆちゃん、学校は楽しいかい?」
「うん。雫ちゃんもショート君もいて、とっても楽しいよ」
二人と一羽は再び白い世界を進んでいた。
来た時と変わらない、上下左右に広がる真っ白な光景。最初に感じていたあつゆの中の緊張感はもう消えていた。ここは夢の世界。どんな夢でも叶う場所。
握る右手は温かくて、大きな手に包まれ安心感を覚えると同時に、他にも異なる感情が胸の奥をつついている。ハクタクの声を聞く度に耳の奥がこそばゆく思う。
「そうか。それはうらやましいな」
「でも、ショート君は皆の前だと全然違う人なんだよ。先生やみんなの前だととっても良い子なの。私や雫ちゃんだけの時はすっごくいじわるな子になるんだよ」
あつゆはショートの二重人格ぶりを初めて口にした。先生も知らない、誰にも言えなかった心のモヤがすっきりしていく。
「雫ちゃんのこともみんなの前だと雨谷さんって呼ぶのに、私達の前だと雫って呼び捨てにするの」「そうなんだ」
ハクタクは笑っていた。彼の笑顔は変わらない。変わらないけれど、笑顔の表現を正面に戻す際、必ず一瞬だけ表情を険しくさせた。その様子を目にする度に胸の奥がチクリと痛む。会話が途切れないようにあつゆは話題を探した。話をしていればハクタクはずっと笑顔でいてくれる。
「ショート君はね、バクやお兄さんの話になるとすっごく怖くなる……」
あつゆは言葉を切った。口にした内容を頭の中でゆっくり再生する。バク、お兄さん。自分の発言に重要なヒントを見つけた。
「そうだ、お兄さん!お兄さんを取り戻すって言ってた!」
あつゆは思わず声を大きくした。同意するようにピヨ助があつゆの周りを飛び跳ねる。歓喜の声を上げる二人とは対照的にハクタクは反応を鈍くした。考え込むように口を結んでいる。あつゆの胸をつついていた違和感が痛みに変わる。胸の奥が針先で刺されたような感覚。
「…分かった。行こう」
彼の返答は決断と言うよりも譲歩のようだった。ショートの手掛かりを見つけたはずが、あつゆは自身の発言をひどく後悔した。しっかりと握りしめてくれていた右手は軽く添えられただけになり、ハクタクの顔からは微笑みさえ消えてしまっている。
足音だけが響く静かな空気に胸の痛みは加速するように重く感じた。
一歩で進める距離がものすごく短く思える。まるで永遠を彷徨っているよう。
そう感じるのはきっと会話が無くなってしまったからだった。ハクタクの笑顔は消え、あつゆの心にも不穏な空気が渦巻きだしていた。手は繋がっているのに、二人の心が遠く離れてしまっている。ただ同じ方向に向かっているだけ。行く宛も分からず、白い景色を黙って歩く時間がとても長く感じられた。