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『ぼくとバク。』43
この先には何が待っているんだろう…?
あつゆは心の中で口にはできない疑問を呟いた。
不鮮明な視界がこれから私たちに降りかかるであろう恐怖を増長させている。橋を渡る前に川の向こうに目にしていた霧は、対岸に降り立ってさらに濃度を上げて漂っていた。
この不愉快な霧にあつゆは見覚えがあった。
最初にここへ来た時、ウサギのパピヨンから出された霧と同じだったからだ。人の心から安心を奪う、重苦しい圧力を伴った灰色を含む濃い霧。
あつゆがゴクリと唾を飲み込んだその時、再びピヨ助がけたたましい音を鳴らした。とっさにあつゆは手を伸ばしたが、ハクタクの片手がやんわりとそれを制した。彼の肩でわずかに震えるピヨ助は彼の手が触れてすぐに音を止める。
「パピヨンの領域に入ったようだね」
ハクタクはじっと前を見据えながらそう言った。彼の視線の先、濃い霧を纏ったその奥には生い茂った草木が見え隠れしている。あつゆの身体が思わず身震いをする。ハクタクと繋ぐ左手にも力が入る。
「今日は客人がいっぱいだ」
突然、陽気な声が背後から割り込んできた。声のした方へ顔を向けるよりも先に、ハクタクに腕を引っ張られてあつゆはそのまま走りだした。
二人と一羽が木々を避けて走っていく。さっきの声の主は、きっとハクタクも確認しなくても分かっているのだろう。あつゆは彼にしっかりと手を握られていることで動揺を最小限に抑えることが出来ていた。でも、いつ追いつかれるか分からない。とにかく速く走り続けなければならない。そんな緊張感がつきまとっていた。
頭上には折り重なった木々と葉で覆われ、どこまでも続く濃霧は森の出口を見せない。膝丈まで伸びた草々が地面を隠し、前を走る背中だけが頼りだった。あつゆは腕を引かれるまま彼の背中だけを見て走っていた。地面を見る余裕もなく………
「あつゆちゃん!」
あつゆは何か硬いものがつま先に当たった拍子に、顔から地面に突っ伏した。滴を伴った葉が顔を濡らし、離された手を脱力したまま地面に叩きつける。草と土の感触が冷たく手の平を伝った。
「ピ」
だらしなく四肢が伸びた身体にピヨ助の声が降り注がれる。緊張の糸が切れたあつゆの脳内は機能を一時停止していた。起き上がる考えすら浮かばない。あつゆはハクタクになされるがまま、仰向けにされて抱きかかえられた。彼の温もりが伝わってきて段々とあつゆの思考が戻ってくる。
瞳には正面を見据えるハクタクが映った。彼の視線の先、走ってきた道には三匹のウサギが立っている。
彼らに最初の可愛らしい面影は全く残っていなかった。まず彼らは毒々しい紫色をまとっているし、耳の位置がバラバラで横に伸びていたり左右非対称な者もいる。瞳の位置もちぐはぐで、取って付けたようなでたらめな仕上がりだった。
ウサギ達はジリジリと距離を縮めてきていて、見えない霧の奥にどんどん増えているようにも思えた。
あつゆは抱えられた腕からゆっくりと降ろされ、地面に足をつける。
「僕がパピヨンを引きつける。その間にピヨ助と逃げるんだ」
あつゆが一人で立てることを確認したハクタクは、ピヨ助を差し出した。手の平に乗せられたピヨ助はわずかに震えている。
「嫌っ!ハクタクも一緒に逃げよう!」
あつゆはハクタクの腕を掴んで拒んだ。
「あつゆちゃん!」
ハクタクがあつゆの手を突き放したその時、一匹のウサギがあつゆの背後まで迫っていた。
「君だけは帰るんだ!」
ハクタクがあつゆの前に身を乗り出した瞬間、耳まで口が避けてしまいそうなニンマリとした笑みのウサギはハクタクに白い粉を振り掛けた。
「ハクタク!」
赤みがかった白い粉は彼の全身を包むように漂った。その様子を見てウサギ達は不気味な笑みを残し消え去っていく。
「ハクタク!ハクタク!!」
その場に倒れ込んだ彼に意識はない。薄く開けられたままの瞳があつゆの焦燥感を煽る。
あつゆは必死で名を呼び続けた。しかし、ぐったりと横たえるハクタクからは反応がない。
「あ……小岩井君」
わずかに動いた唇がそう言葉を漏らすと、霧が漂う景色が暗く明度を落とし始めた。