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『ぼくとバク。』34 ショートののぞみ

視界を横切る大きな川が見えてきた。川の向こう側には濃い霧がかかっていて、奥の様子は全く分からない。
「ここが三途の川か」
ショートがそう尋ねると、肩の高さに浮かぶ夢絵が隅を丸めて返事をした。川は長さもその幅も広かった。もし橋を渡れないなら泳ぐ覚悟もあったのだが、霧で向こう岸が見えないこともあり泳いで渡れる距離かどうか分からない。見える範囲だけでも学校のプールぐらいはありそうだ。
ショートは周りを見渡した。ひょっとしたら他に渡る人がいるかもしれない。しかし案の定、誰一人いないし人どころか、川以外何も無かった。ショートと夢絵が立ち尽くす中で水の流れる音だけが響いている。
川べりから下を覗きこんでみる。自分と夢絵の姿が水面に映った。流れはそれほど激しくはなく、穏やかに流れていく水は予想よりも澄んでいて綺麗だ。時折はねる水がきらきらと輝く。
「おやぁ、これまた親不孝な坊やがやってきたねぇ」
低くしわがれた声が耳のすぐそばに聞こえる。独特の含みを持ったその不気味さに鳥肌が全身に広がる。ショートは思わず川に飛び込んでしまう所だった。なんとか踏ん張って耐えることが出来た。背後に隠れていた夢絵が必死で支えてくれたことが大きい。 
「あれ……?」
ショートは周りを見渡した。吐息がかかるほどすぐ近くに不気味な声が聞こえたはずなのに誰の姿も見えない。その代わりに、いつの間にか大きな木が現れていた。それはこれまで見たことがないほど立派な巨木であった。空を這うように無数に枝が伸び、幹に触れられる位置に立てば頭上はすっぽり覆い尽くされてしまう。
「どれ、河原に案内してやろうか」
先ほどと同じしわがれた声とともに巨木の太い幹がのっそりと分裂する。いや、違う。幹だと思っていたのはボロボロの布切れを纏った巨大な老婆だった。先ほどのしわがれた声の主はこの老婆だったのか。身体に対して大きめの顔には皺が多く、その三分の一を占める唇は二本のしめ縄のよう。縮れた髪が胸まであり文字通りモジャモジャ頭である。雫の言う通りだと思った。
「坊や、ついておいでぇ」
腰に手を当てた大きな背中が向けられる。これまで見てきた中では動物園の象が最大の生物だったのに、おばばの背中はそれ以上であった。頭上は枯れた枝の葉、目の前はおばばに遮られて妙な圧迫感を受ける。
「こんぺいとうならある。橋を渡して欲しい」
おばばの案内を遮るようにショートは告げた。老婆の真正面に回り込んできらきら光る砂糖菓子の入った瓶を差し出すが、おばばはいぶかしげな表情を浮かべるばかりで受け取ろうとしなかった。ただただ長い爪で顎をかいていて、ついにはずいっと鼻が当たってしまいそうなほど顔を近づけて覗きこんできた。思わずショートは二、三歩、後ずさりした。大人の手の平ほどもある目玉がギョロリと自分を映している。左右に黒目が動き、わずかに光を反射した。まるで捕えたその姿を完全にコピーしようと企んでいるかのようだ。見つめられるショートの体は身震いを起こした。
「坊や、見たことある顔だねぇ。だいぶ前に橋を渡って行ったんじゃないか?あたしゃ記憶力だけは良いんだ。間違いないね」
老婆のしわがれた声が脳内を直接揺らすように鈍い振動を伝える。
「……俺は初めましてだけどな」
ショートは視線を変えることもできない状況で喉から声を振り絞った。覗きこんで来るおばばは極限まで近寄ってきている。おばばから受ける圧迫感に逃げることも出来ず、ショートは後ずさりするしかなかった。体は反り気味になっており、ぴったり背中にくっついている夢絵がわずかな支えになっている。
「んんん?額にあった傷跡が消えてるねぇ」
まん丸に見開かれた二つの目玉が傾いてそのうちの片方が細まった。全身に感じていた圧迫が半減する。おばばは何かを思い出そうとしているようだ。金縛りから解かれたショートが立場を盛り返す。今度は自分がおばばに詰め寄った。
「兄貴を知っているのか?」
兄には右目の上に、昔縫った傷の跡がある。兄と自分を勘違いしているのであれば、おばばの話すことにも合点がいった。

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