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『ぼくとバク。』40 夢世界

ゆっくりと暗闇に落ちていく。
グラデーションのように暗さが増していく底へと向かってゆっくりと。落ちていく感覚が心地よい、と感じたその瞬間、暗闇が柔らかな明るさに染まっていく。
ショートの目の前には両親に囲まれて新しいサッカーボールを手に喜んでいる兄の姿がある。年に一度のジュニア杯で優勝した時だ。
五歳離れた兄はいつも家族の中心であった。兄のテストが返ってくる度に母さんがご馳走を作った。兄が大会に出る度に父さんが新しいゲームを買ってきた。
兄は何でも出来た。むしろ出来る事が当たり前だった。父や母、先生や友達、皆が兄を特別な眼差しで見ていた。兄はいつだって必ず期待に応えてくれる。
「お兄ちゃんは頭がいいね」
「またお兄ちゃんがシュートを決めたんだってね」
「慧來(けいき)くんもお兄ちゃんみたいになるんだよ」
親戚中のみんなも兄を自慢に思っていた。集まる席では俺はいつも、兄の存在をうらやましがり、また誇りに思うと口にすることが当たり前になっていた。今日は俺の入学祝いなのに話題にのぼるのは兄のことばかり。テーブルを埋め尽くすせっかくのごちそうも兄のために用意されたもののように思えてくる。横に置かれた新品のランドセルもその特別感を希薄にしていた。囲まれる兄を横目に一人でエビフライをつまんでいたその時、待ち望んでいた招待客が現れる。
「雫ちゃん」
彼女は恥ずかしそうにピンクの包みを持っていた。大きな赤いリボンを付けた包み以上にフリルがたくさんついたドレスを纏っておめかしをしたその姿はとても可愛かった。思わず俺は照れくさくて顔を背けた。それまでのふてくされた気分など吹き飛んでしまった。ふんわりした毛先を携えた彼女がゆっくりと近付いてくる。無意識に口端が緩み、頭をかいて胸の高鳴りを紛らわした。だが、柔らかなツインテールは差し出した片手をすり抜けていく。俺は開きかけた口をぎゅっと固く結んだ。
「しゆうお兄ちゃん、おめでとう」
可愛らしいフリルのドレスが輝きを見せた相手は俺ではなかった。彼女と喜びを分かち合うのは主役の俺じゃない。包みを渡された兄が礼を告げて彼女の頭を撫でている。赤く染まるその横顔はとても嬉しそう。
「しゆうお兄ちゃん、大好き」
とびきりの笑顔を見て俺はどん底に落ちた気がした。目の前の真っ暗とは対照的に頭の中は真っ白に染まった。
何をしても兄には叶わない。両親も親戚も、雫さえも、誰もかもが兄に期待を寄せている。兄を特別な存在と感じている。俺とは違って。
「兄貴なんかいなくなっちゃえばいいんだ!」
ずっと心に溜めていた想いがついに口から溢れ出たと同時に、ショートから黒い霧が吹き出した。爆発的に噴出されたそれは目の前を真っ暗に包みこんだ。全てが暗闇に消えていく。真新しいランドセルも、用意されたご馳走も、おめかしされたドレスも。何もかも全てが。いっぱいいっぱいに張り詰めた気持ちが俺の身体でおさまりきらなくなった全てが体外に散らばった。激しく波打った感情が一線を越え、動と明を奪って沈黙を作る。
黒く静まった世界に一人だけが残される。たった一人、自分だけ。
ここには兄もいない。
呼吸がゆっくりと再開される。酸素が肺を膨らませる。安堵の二文字が、波を静めた胸の奥に浮かんだ。何も見えない暗さに落ち着きを覚える。それは暗闇の纏う雰囲気が先程までと異なるからだとショートは気付いた。
淡い空気が漂っているような、視界がはっきりしない中に安心感を覚える。でも初めてではない。この感じを自分は見慣れている。そうだ、いつも見る夢と同じなんだ。
気付けば靴の裏にぼやけた光が灯っている。片足を浮かせれば蛍のようなちいさく丸い光がふらふらと浮かび上がった。淡く白い光にそっと触れる。光は手の平に軽く当たった瞬間、眩しく弾けた。
光は消えて再び暗闇に戻る。正面に筆を持った人物を連れて。彼もまたぼやけた光を纏っていた。ふらふらと浮かび上がるいくつもの光が彼の微笑みを照らしている。大きめのニット帽。くたびれた大きめのカーディガン。目の下のホクロ。そして手には長い筆先を持つ特徴的な絵筆。
「夢絵師」
勝手に口が言葉を紡いでいた。放った声を耳で聞いて理解する。彼は穏やかに頷いた。

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