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『ぼくとバク。』39 夢世界

ウサギの紅い瞳に吸い込まれるような感覚に陥る。意識がもうろうとし始め、口を開きかけたその時、夢絵が腹から飛び出した。すぐさまうさぎとショートの間に滑り込み、夢絵はウサギの顔面にぴったりと張り付く。驚いたウサギは思わず飛び上がった。圧力から解放されたショートのぼやけた頭が明らかになると、仰向けのウサギが短い両手を懸命に振りまわしている様子が映った。
ショートが意識を取り戻したことに気付いた夢絵はウサギの顔から離れる。彼はショートの周りを一周して止まり、四辺を大きく広げた。その身はいくつか皺が寄り、ところどころ破れてしまっていた。
バクの絵が描かれた夢絵を見て、ウサギは黒い目を半分ほどに縮小させた。同時に体色が緑色に変化していく。体の端、耳先やつま先からどんどん全身が染まっていく。変色が腹に達するところでウサギの体が後ろに傾いた。倒れながら真っ白な背景に同化していったのだ。ウサギの姿が消えてすぐ、紫に黄色のストライプ柄を纏ったウサギが三匹に増えて現れた。
「夢絵!」
ショートは首を振って向きを変えた。呆然とその様子を見てしまった自分に後悔する。
ショートの後悔の念の通り、変化を見届けた彼らを三匹のウサギが笑顔で迎えるなんてことはなかった。ウサギ達は耳まで裂けそうなほど口を大きく開いて笑ったかと思うと、ものすごい勢いで追いかけきたのだ。
ショートはできる限り足を速く動かして走ったが、すぐにさっきまで前に浮かんでいたはずの夢絵がいないことに気付く。走りながら振り返ってみると、よれよれと浮かんでついてくるその姿を見つける。ショートはスピードを緩めずに手を伸ばして引き寄せ、抱えて走った。
夢絵を探す際に目にした背後の光景はひどく恐ろしいものだった。四足歩行で追いかけてくる三匹のウサギは、それぞれ舌を出して瞳が飛び出していた。左右で黒目の位置も異なるその形相はすさまじい。捕まったらまず何をされるか分からない。
ショートは夢絵を抱えたまま全速力で逃げた。しかし四本足で追いかけてくる彼らには叶わなかった。
一匹のウサギがショートの前に回り込む。その伸ばされたウサギの足にほんの少し触れられた瞬間、
「願いは、兄を取り戻すこと」
ショートの心の声が大音量で空間に響いた。彼の足先から世界が白黒に変わっていく。急激に伸びていくストライプは視界をモノクロに覆い尽くす。
ショートはその場に座り込んでいた。脱力した姿勢で視線を宙に漂わせている。気づけば呼吸の乱れも足の疲労も感じられない。
「兄貴を取り戻す?」
モノクロの世界の中、一匹の黒いウサギが肩をすくめてそう言った。逆光を背負った姿は表情が見えないほどに暗いが、片方の耳が折れた三頭身の影の中に見下ろす赤い瞳孔だけが爛々と輝いている。
よろよろと浮かぶ夢絵が頬を叩いたが、ショートには逃げようと考える力すらも残っていなかった。ぼうっとした瞳が映す視界に赤色が増えていく。
「どうして?いない方が嬉しいくせに」
「嘘は止めなよ、本当は安心しているんだろう?」
「兄貴なんていない方がいいじゃないか」
彼らは口々に言い放った。彼らが口にする度にショートの周りを黒い霧が浸食し始める。やがてそれはショート自身から生み出されているものなのだと気付く。ウサギが心の声を一つ言い放つ度、一片の霧がどこからともなく排出されていた。
さらに黒ウサギの増殖は止まらず、不気味な声が何重にも反響して聞こえる。四方を囲むだけでは飽き足らず、彼らは縦にも重なっていく。頭上の小さな空も埋められ、唯一の白色は消えて周囲は黒と赤に包まれる。それでも光を遮られ完全に逃げ場を失ったはずが、ショートには焦りや恐怖といった心情の揺れは全く起こらなかった。
「現実世界に兄貴はいらない」
不協和音がまた一つ、ショートの心の声を発する。半開きの唇が微かに痺れを伝えた。空っぽの心に焦りの感情が一滴、垂らされる。
「永遠に夢の中に閉じ込めておきたいって、そう思っているんだろう?兄貴がいるせいで自分は……」
視神経の奥に鈍痛が走る。目が見開かれた瞬間、放たれた霧が一気に濃度を上げる。目の前が真っ黒に変わった。
「うるさい、うるさいっ!」
ショートは首を振って耳を塞いだ。焦燥感が心の内を支配する。その場にしゃがみこみ、頭を抱え、誰にも見つからないように、小さく小さく身を縮ませた。
『もう何もいらない。どうだっていいんだ。』
そう思ううちに、ぽっかりと地面に空いた穴から世界の中枢に堕ちていく。そんな感覚を覚えた。沈んでいくようにゆっくりと。水の中ではないから息苦しいことはない。口からこぼれる二酸化炭素が泡を作り出すこともない。でも、光の届かない深海と同じく真っ暗だった。
軽い圧力に包まれて堕ちていく様子を心地好いと感じた。光が無ければ、影が作られることも無い。希望を失うことで過去の痛みも消える。底まで行けば全てが中和されて心の奥にしまいこんだはずの想いも消えてなくなるかもしれない。
ショートが抱えた膝を離して、両手を底に向け伸ばしたその時、暗闇から一枚の紙切れが飛び出してきた。
それは夢絵だった。

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