『ぼくとバク。』41 夢世界
「本当の気持ちを言ってごらん」
「本当の……気持ち?」
にっこりとうなづいた夢絵師が、ゆっくりとショートの背後を指さした。彼の指し示す方へとショートが振り返るとそこにはショートの兄が立っていた。
5年前と同じ、記憶の中の印象と変わらない大きな兄貴の姿。兄貴はにこやかに俺を見つめている。
「君の本当の気持ちは?」
そうだ。俺は、兄貴を疎ましく思っていたんじゃない。本当は、ほんとうは…
「俺、兄貴みたいになりたかったんだ」
心の奥でくすぶっていた気持ちが言葉になって紡がれる。ショートの心の底から紡がれた想いは、暗い闇を背負わせた兄を瞬かせた。真っ暗だった兄の背景がその明るさを加速させていく。ショートの胸の内を覆っていた羨みのモヤが晴れていくのにあわせて目の前の暗闇がグラデーションを伴って明度を上げていくようだった。あまりの眩しさにショートは目を開けてはいられなかったが、逆光で見えない兄の表情が微笑んでいることだけは伝わっていた。
顎の下から押しのけられる圧迫でショートは目を開覚ます。気づけばうつ伏せに倒れていた。
「ごめん、ごめん」
夢絵が苦しそうな様子に気づいてショートは身体を起こした。下から飛び出した夢絵はすぐにショートの頭上に浮かび上がり、四辺の先を前方に指し示した。ショートがその方向に顔を向けると、おぼろげな影がゆっくり動く様子が見える。
「バク!」
ショートは叫んだ。
霧の晴れた先に待ち焦がれた白黒の姿を見つけ、ショートは無我夢中で駆け出した。追いかける白黒の体はのんびりしっぽを振ってこちらの気持ちなどお構いなしといった具合にのったりと短い脚で歩いている。
初めて目にするバクは想像よりも大きく、体幹はショートの背丈ほどあった。
「お前なんだろっ!兄貴を返せ!」
バクの大きさに怯むことなく、追いついたショートは黒い背中に両拳を振り上げる。
「兄貴を返せっ!」
三度、思いっきり拳を叩きつけた。ざらついた毛質がチクチクと痛痒い感触を伝える。再度、右腕を思いっきり振り上げた、その時一一
「イテッ」
のったり歩く姿からは想像できないほどに素早く伸びてきた鼻に腕を振り払われた。思いがけない反撃にショートはバランスを崩す。お尻が地面と接触した時、またあの黒い霧が現れた。みるみるショートの周りを真っ暗に染めて行く。不穏な渦が胸中にもうずまき始める。
黒い霧に染まった目の前には、兄と雫が笑い合うその様子が浮かんだ。ふと嫉妬心が湧き上がり、奥底からまた心の声が放たれた。
『兄貴なんか、いなきゃ良かったんだ』
ショートが再び暗闇に呑みこまれていく。
夢絵がショートの頬を叩こうと勢いをつけてひるがえったその時、鳴き声とも物音とも分からない、甲高い音が空間に放たれた。全身に響くほど重圧で今まで聞いたことの無い高さ。
夢絵はその衝撃に全身を震わせる。ショートがハッとしてまばたきをすると、目の前が明るい世界に取り戻された。塗りつけられた黒色は跡形もなく剥がされていく。心なしかさっきまでとは光の色が優しく変わったようにも思えた。
胸中に発生した台風の兆しは強風を生み出すその前に霧散してしまった。乾いた木枯らしが吹き抜け、嵐の余韻が静かに引いて行く。それは引き波が全てをさらっていく様子に似ていて、足先から頭のてっぺんまでを洗い流されるような感覚が心地よかった。全ての感情が風と共に吹き抜けていった。今の自分は全てがまっさらだ。
「ショートくん」
部屋の隅に座る自分に、ふわふわ髪をツインテールに結んだその子は声を掛けてくれた。
「あっちで一緒にお菓子食べようよ」
「いい」
「レアリゼのワッフル、美味しいよ」
「いらない」
「そっかぁー」
素っ気なく返事する俺に構わないといった様子で彼女は隣に座った。俺はきつく膝を抱えて彼女が見えないように視界を塞いだ。
「今日はお祝いだね。みんな楽しい顔をしてるよ」
彼女は俺とは正反対の嬉々とした声を発している。彼女の楽しそうなその様子に俺は嫌気がさした。
「全然嬉しくない」
我慢していた不満の声を漏らしてしまった。
「お祝いなのに嬉しくないの?」
「みんな兄貴ばっかり褒めてるから」
あまりに悔しくて両腕に顔を隠して小さく本音を漏らした。彼女に聞こえなくてもいい。口から出せるだけで少しでも気が晴れるならそれで良いと思った。
「しゆうお兄ちゃんは大会で優勝したからおめでとうだけど、今日はショート君のお祝いだよ?」
隣の彼女は至極不思議に言葉を返した。俺は思わず呆気にとられる。顔を上げた俺を待っていたのはニッコリと笑う、俺だけに向けられた笑顔だった。
「今日はショート君のお祝いの日。ショートくんはショートくんだよ」
心の闇が弾けるように消えた。頭がさっぱりと晴れていく。彼女は真っ直ぐ俺だけを見ていてくれた。狭い場所に独りこもる俺を見つけてくれた。感覚の波が引いてから自身の体を見下ろした。両方の足先には赤地に黒のラインが入ったスニーカーが見える。手の平を向けた肌色の両手には五本ずつ指が揃っている。さっぱりした解放感で満たされたが、特に変化は見られず、体はきちんとその場に立ち尽くしたままであった。頭の中は真っ白。脳が動かない状態とは異なり、考えることが全くない、空っぽな感覚だった。とても晴れやかな気分である。
大きく背伸びした後、先ほどと同じ甲高い音が微かに聞こえた。まるで自分を呼んでいるよう。音のする方向には白黒のあの姿があった。彼は自慢げに鼻を高々と上げている。
「ありがとう」
晴れやかな心から口をついて出た言葉だった。その小さな呟きはちゃんと届き、鼻を下ろしたバクから微笑みが返される。
「俺は、俺だ。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう」
そう呟いたショートの心はとても穏やかであった。自分を取り戻したショートは真っ白な光に包まれていく。