『ぼくとバク。』29 夢の後
前と同じ真っ白な世界。前も後ろも何も無い。どこまでも広がる世界に根拠のない不安が押し寄せるが、それは大きな問題にはならなかった。一度来た場所であるという経験があつゆの心を強くしている。しかし、あつゆはどちらに進めば良いか分からなかった。前回はショートについて行けば良かったのに、今度は自分一人きりだ。
「ピ」
頭のすぐ後ろで何かが聞こえた。人の声ではないが機械特有の電子音とも違う音だった。音の聞こえた方に振り向けば、黄色の球体、ピヨ助がそばに浮かんでいた。真ん丸な黄色の体に黒く丸い瞳。あつゆが両手を差し出すとピヨ助は素直に降りて手の上に乗ってくれた。手に重みが感じられると同時に、ピヨ助は毛先と見間違うほどの小さな羽をしまった。その様子に信頼してくれているような安心感を覚える。手中に収めた黄色の身体は柔らかくほんのり温い。
「ピ」
三角のくちばしをわずかに開けてピヨ助が鳴いた。
「そうだね。ピヨ助がいるから怖がることはないね」
二つの瞳は真っ黒なビー玉が埋め込まれているよう。光を反射してきらきらと輝いている。
「ショート君を探さなきゃ」
あつゆの一声にピヨ助は再び浮かび上がった。小さな羽を小刻みに羽ばたかせ進んでいく。迷いなく方向を決めて進んでいくその後ろ姿に頼もしささえ感じる。あつゆはピヨ助につづいて歩き出した。右上を飛ぶまん丸の身体の下部に申し訳程度の小さな尻尾も小刻みに揺れていた。ちょこんとしたその動きは愛らしい。そんな彼を見ていると本当に不安が和らいでいくのだが、決してパピヨンへの恐怖が消えたわけではなかった。彼らはいつどこから現れるか分からない。さらに、どんな恐ろしい罠を仕掛けてくるかさえ予想もつかない。彼らは巧みに人を夢の世界へ引きずり込む。さゆりのあの危機迫る語り口から、あつゆの胸中には得体の知れない恐怖が生まれていた。
彼らがどのような存在なのか、ショートの話していた掟の夢の住人と関係があるのか……さゆりの話からは何もつかみ取ることが出来なかった。ただ、彼女はパピヨンはただの偶像だと言っていた。そして強く拒めば消える、とも。疑問は次々と浮かんでくる。様々な考えが巡り巡って、最終的に辿り着く先はショートの家で見た、あの薄暗い一室の光景であった。もし、ショートの兄のように、この世界から戻れなくなってしまったら……
急に悪寒が全身を駆け巡る。あつゆは鳥肌が立つ両腕を抱えて強く首を振った。今はショートを見つけ出すことを第一に考えなくてはいけない!
頬を両手で叩いて気合いを入れ直した所で、ふわふわ飛ぶピヨ助の前方に見たことのある後ろ姿を発見する。
「ハクタク!」
彼を見つけるなり、あつゆはその背中に抱きついた。
「やぁ、いらっしゃい。えぇっと、雫ちゃんじゃなくて…」
「私はあつゆだよ」
そう自然と口をついて出た言葉が耳から入って再認識される。私…初めて自分のことをそう呼んだ。じんわりと頬が紅潮していく様子を感じる。
「いらっしゃい、あつゆちゃん」
頭上から降ってくる声は前と変わらない優しい声だった。彼の声に頬の紅潮もさっきまでの酷い焦燥感も薄まっていく。
ハクタクは腰をかがめてあつゆと向き合った。そして視線を合わせたその瞳が涙でにじむ様子を見つける。
「どうしたの?」
ハクタクは心配そうに尋ねてあつゆの頭を軽く撫でた。彼のトーンを落とした声に、触れられた大きな手の平に、せっかく持ち直したやせ我慢の盾がもろくも崩れてしまう。あつゆの中の緊張の糸はあっけなく弾け飛んだ。
「ショート君がいなくなっちゃったの」
顔を上げたあつゆの瞳は涙で溢れてしまった。目も鼻先も真っ赤。あつゆの大泣きに一瞬驚きを浮かべたハクタクであったが、すぐに穏やかな表情に戻してハンカチを差し出してくれる。
「大丈夫。一緒に見つけよう」
彼の言葉には不思議と説得力があった。ハクタクの優しい声に、その言葉に、微笑みに、涙を拭いながらあつゆは胸の内が静かに収まっていく様子を感じた。
「うん」
目をこすってあつゆは頷いた。涙が止まった様子を見てハクタクは笑顔で立ち上がる。彼は自然と左手を差し出してくれた。その手をあつゆはしっかりと握る。ほんの少しだけ、頬が熱くなる感覚を覚える。細いけれど大きくて安心する優しい手だった。