『ぼくとバク。』38 夢世界
「久しぶりのお客さんだ」
ウサギは親しげに話し掛け、草むらをかき分けて近付いてくる。ショートは聞こえない振りを決め込みお腹に手を当てたまま黙って森を進んだ。
「君にはどんな願いがあるんだろう」
そう言って当然のようにウサギはついてきた。服の下に隠した夢絵がバレないようにショートは注意を払って歩いていく。先ほどよりも目の前の霧は濃くなっているように感じた。先の風景が白く見えていただけだった視界が、今は木の輪郭さえぼやけている。
「叶えたい願いがあってここまで来たんだろう?」
背後から低い含みのある声が続く。腹に抱える夢絵が身震いしたがショートはウサギに不自然と思われないように腹を服の上から押さえたまま先を急いだ。森の奥に進むに連れて霧がさらに濃くなり視界はさらに不鮮明になっていく。膝下の草も自身の靴さえ白い霧に隠され始めている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
いくら早足で進んでも不気味な声が離れることは無い。ウサギの声が聞こえてくる度に鼓動が耳の内で大きく鳴る。ショートは下唇を噛み締めた。緊張と恐怖から背中に冷や汗が伝わるが、雰囲気に呑まれてはいけない。噛み締めた下唇の中で何度も自分に言い聞かせる。ショートは先が見えない状況の中でただただ足を動かし続けた。歩みを速めているはずがウサギの声は距離を縮めてきている。ついには耳のそばから聞こえてくるようになる。
「願いは何かな?」
その一瞬、鳥肌が全身を駆け巡った。ショートは逃げるように片手を振って走りだした。
どのくらい走っただろうか。森を抜けてからウサギの姿もなく、視界は真っ白な景色だけになっていた。ショートは足を止めて膝に両手をついた。懸命に酸素を肺へと送る。腹からずり落ちるように出てきた夢絵が心配そうに片隅を丸めて浮き上がった。
「俺……なら、大……じょうぶ」
荒い息を吐きながらショートは笑顔を向けた。手の甲で顎の汗を落として上半身を起こす。こんなに全速力で走ったのは去年の持久走以来だった。ふくらはぎの脱力感を久しぶりに覚える。
さすがにウサギの声も聞こえなくなっていた。上手く巻くことができたのだろうか。いや、油断してはいけない。彼らはいつどこから現れるか分からない。額の汗を拭って夢絵をTシャツの中に戻した。太ももを叩いて限界に近い足を奮い立たせる。
ショートが足に力を込めて歩きだそうとした瞬間、
「僕らの世界へようこそ」
歪なモニュメントからウサギの顔が飛び出してきた。
「わあぁぁっ」
無理な体勢からのけ反ったショートは尻もちをついた。そして地面に着いた後ろ手に妙な感触を覚える。硬い地面に着いたはずの右手が泥の中にめり込んでいくように柔らかな中に沈んでいった。同時に身体も傾いていく。しかし、感覚の狂いはそれだけにとどまらなかった。霧が晴れた景色に更なる違和感が広がる。
森を抜けて真っ白だった景色が原色に紫を加えたカラーで色付けされ始めた。目の前が奇抜な世界に変わっていく。調和など一切関係ないといった、赤、青、黄色、紫が入り交じった世界。それぞれ色の主張が激し過ぎて目がチカチカする。色彩すら曖昧だった森とは全く異なるカラーバリエーションだというのに、陰気な雰囲気はそのまま続いていた。最も気持ち悪いと感じるのは、雰囲気や配色よりも歪んだ空間組織だった。上下左右全ての平行感覚を狂わされる。当たり前だった地面の平行は失われ、世界が傾いているのか自身が傾いているのかさえも分からない。独特なこの世界では気を抜けば空間の存在に自身が圧倒されてしまいそうである。
「ここは何でも夢が叶う世界だよ」
モニュメントに引っ込んだウサギが気付けば隣に移動している。さっきまで追いかけてくるだけであったウサギは、意気揚々とあらゆる所から現れるようになっていた。
「さぁ、願いを言ってごらん」
心なしかウサギの姿が先ほどよりも一回り大きくなっているようにも思える。ショートは視界に入ってくるその姿を疎ましく思いながら、顔を背けて再び聞こえない振りを決めつける。
「さぁ」
大きさと共にウサギの執拗さは至極強まっていた。声量の勢いも行く手を阻む頻度も先ほどまでとは比べ物にならない。常に耳元から気味の悪い声が大音量で聞こえるようだ。ショートは立ち上がったが、まだ走れるほどの回復は出来ていなかった。今は眉間に皺を寄せてなるべくウサギを意識しないように努めるしか為す術がないことがもどかしい。
「さぁ」
三度目のウサギの要求を受けてショートは意を決めて歩き出す。ウサギに背を向けて一歩を踏み出したその時、服を引っ張られる感覚を覚える。これまで声を掛けるだけであったウサギがついに手を出してきた。
「さあ」
力任せにショートはウサギの手をかいくぐろうと試みたが、急な方向転換に足がついていけなかった。ショートはバランスを崩してよろけてしまう。その隙を敵は見逃さなかった。横から体当たりし、転んだショートの上にウサギが馬乗りになってきた。
「さぁ、願い事を言うんだ」
ウサギは仰向けのショートに顔を近づけて命令する。両肩を抑えられたショートは身動きが取れなくなってしまった。見つめられる黒い目がその中心に赤い瞳を潜ませている。その瞳から目を逸らすことができない。閃光を秘めた赤色に吸い込まれてしまいそうだった。