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『ぼくとバク。』42

二人の足音に水の流れる音が加わる。
とてもゆっくりと感じていた夢世界での時間が、通常の早さに流れを戻したようにあつゆはハッとした。水の音が聞こえてすぐに視界を横切る大きな川が見え始める。川の前にはモジャモジャ頭の老婆が仁王立ちで待ち構えていた。
「おやぁ、これまた珍しい人が来たもんだねぇ」
老婆は組んでいた腕を広げてにんまりと笑みを浮かべた。耳まで裂けてしまいそうなほど大きな口であつゆ達を出迎える。あつゆとピヨ助はその笑みに背筋を凍らせた。まるで身体の防衛本能が近寄ってはいけないと警告を鳴らているようだった。
「川の向こうに行かなくちゃいけない用が出来てしまってね」
全く怖がるよう様子の無いハクタクはが肩をすくめて答える。その返事に老婆はまたにんまり口端を上げた。
「渡し賃があれば渡してやるさ」
差し出された皺の多い手は指の太さがあつゆの足ぐらいあるように見える。掴まれたら逃げ出すことは出来ない。渡し賃が無い場合にはきっと食べられてしまう……あつゆの中で妙な憶測が緊張感を漂わせていた。
ハクタクは何食わぬ顔でポケットから真ん中が開いた硬貨を取り出した。それは五円玉のようにも思えたが穴は四角に開いており、大きさもあつゆの知っているものとは違っているようだった。
「あい、三人分、確かに頂いたよ」
硬貨を受け取った老婆が低くうなるように礼を言う。大きな握りこぶしの中で硬貨がジャラリと音を鳴らした。
老婆は壁のような身体を避けて二人と一匹を先に進むよう促してくれる。視界が開けた先には赤い橋が掛かっていた。
雫を探しに来た時はこんな橋は無かった。声が聞こえて川岸に雫と夢絵がいた。あの時、誰にも言わなかったけれど穏やかな水面が対岸に向かって動いているようにも思えたんだ。ひょっとしたら川の中にもパピヨンが潜んでいるのかもしれない。あつゆは場所と橋を渡りながらも左右の欄干を注意深く意識した。
アーチ状の橋が一番盛り上がった箇所に差し掛かる。おそらく川の真ん中まで来た。まだパピヨンの気配は感じられない。すると突然、甲高い音があたり一面に鳴り響いた。あつゆはその大きさに耳を塞ぐ。耳のすぐ傍でフライパンを思いっきり叩かれているよう。思わず閉じた右目を恐る恐る開いて見てみると、音の主、ピヨ助が舌を出して羽根をバタつかせていた。さらに彼のお腹にはコーションマークが点滅している。放たれる音も暴れる姿も異常だった。
「ど、どうしよう。ピヨ助壊れちゃったのかな」
あつゆは慌てて大音量を鳴らして暴れるピヨ助を両手で掴んだ。両手の中でも暴れる様子は変わらない。あつゆは動揺から声が震えた。舌の震えた自分の声が耳に入りさらに焦燥感が増す。
「パピヨンに近付いているからだよ」
後ろからハクタクの声が聞こえた。落ち着いたその声はとても小さい。ピヨ助のアラームが響く中で聞きとれたことが不思議なくらい。ハクタクの声に驚いたあつゆが目を向けると彼はひどく汗をかいていた。髪が額や頬に張りつき、呼吸も荒い。
「ハクタク!?大丈夫?」
ハクタクは弱々しくうなづき、あつゆの手に乗るピヨ助のお腹にそっと触れた。彼が触れてすぐピヨ助のコーションマークが消えて耳を刺激する音が止んだ。口を閉じて暴れる様子も落ち着き、あつゆの手の上でまん丸な瞳を取り戻す。軽く身体を傾けたかと思うと、ハクタクの肩へと飛び移る。
「ハクタク、大丈夫?」
あつゆはハクタクに声を掛けた。ピヨ助が元に戻ってくれたものの、ハクタクの顔は玉のような汗が吹き出し、青白いままである。霞む視界の中で霧の中に消えてしまうのではないかとあつゆの胸中で不安がよぎった。
「僕なら……心配ないよ」
ハクタクから返された笑顔は弱々しく、肩に乗せたピヨ助の重みで今にも倒れてしまいそう。霧に消えそうな彼を心配するあつゆの不安は現実となってしまう。橋を渡りきって対岸に着いたその時、ついに彼はしゃがみこんでしまったのだ。
「ハクタク!?」
ハクタクは地面に片膝をつけて激しく肩を上下させている。聞こえてくる呼吸はとても荒い。心配そうにピヨ助も大慌てで頭上を飛び回る。
「僕なら……大丈夫だよ」
途切れとぎれの返答にあつゆの動揺が大きくなる。ハクタクの顎から滴った汗が地面に円を作っていた。とめどなく落ちる汗でみるみる円が大きくなっていく。
「ウソ!辛いならちゃんと言って!」
あつゆは自身でも驚くぐらいの大声を出した。その声にハクタクは顔を上げた。息を荒くしながらも見上げるハクタクは笑顔を崩さなかった。彼は深呼吸を二度繰り返し、目頭を熱くするあつゆの肩に手を伸ばす。
「あつゆちゃん……たとえ僕が動けなくなっても、ショート君を見つけられなくても……必ず君だけは元の世界に戻るんだよ」
真剣な眼差しで、そう告げられた。
あつゆは涙目で首を振る。こんなに辛そうなハクタクを置いて一人だけ帰るなんて出来るはずがない。肩に乗せられた手はひどく脱力しており、疲労具合が痛いほど伝わる。
「僕に何があっても……君だけは帰るんだよ」
あつゆは唇をギュッと結んで強く首を振った。
「ダメだ!君だけはちゃんと帰らなくちゃいけない!!」
ハクタクの怒鳴るような大声にあつゆは驚いた。ハッとした彼の額から頬に汗が流れ落ちる。
「ゴメンね。でも……大切なことなんだ。約束してくれるかな」
ハクタクは出来るだけ表情を穏やかに戻してあつゆにお願いを告げる。彼の瞳は潤んでとても辛い様子が伝わってくる。あつゆは下を向いて唇を噛み締めた。これ以上彼に無理強いをさせてはいけない。あつゆがコクリと小さく首を縦に降ると、やっとハクタクは安心した様子を見せて立ち上がった。
「さぁ……ショート君を探しに行こう」
ハクタクが弱々しく歩き出した。服の袖で涙を拭ったあつゆもそれに続く。
後ろ手に差し出された左手をあつゆはしっかりと握る。自分の手が熱く感じるくらいにハクタクの手は冷たかった。

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