「傷口になる」について真剣に考えてた
「僕が傷口になるよ」って何だ?
最近出来たほんの若干の傷をぼーっと見つめながら、King Gnu「The hole」の一節であるこの言葉について考えた。
この曲の詞には、あなたの存在を丸ごと受け入れて守る、という絶対に揺るがない「愛」がある。
でも、傷口を「治す」でも「癒す」でもなく「なる」なのはどうしてなのか。MVのコメント欄を見てたら、何となくだが自分なりの解釈が生まれた。
皮膚に傷が出来て治っていくまでの、血が出る→血が止まる→かさぶたが出来る→傷が消えるか跡が残る、という必ずの順序。
「治す」や「癒す」なら、例えば薬を塗ったり包帯を巻いたり絆創膏で覆ったり。「あ、傷出来ちゃったんだね」と、事後的な感じがする。
つまり、血が出てしまってから相手が負傷した事実に気づいて、早く良くなるように、と傷がなくなるようにあれやこれやと手を尽くしてくれるような。
もちろん大切な優しさだが、それと「傷口になる」は違う。傷が出来てしまった要因がその人(傷口になると言っている人)にもあって、傷が出来た瞬間すら見ている感じがするのだ。
そして、「ごめんね。傷口になって君と一緒にいるから」と言っているような気がする。
薬や絆創膏を使うことなく、いつのまにかかさぶたが出来て、痛みも少しずつなくなり、やがて消えるか又は跡が残っても思い出さない限り忘れていく、という時間も「一緒に過ごす」感じ。
一言で言うと、「一緒に自己治癒力を作る」ということ。
では、もしも「傷口になるべき傷」が目に見えない心の傷だとしたら、これと同じことは言えるのだろうか。
例えば育児放棄を受けているのにも関わらず、自宅に帰りたいという子ども。
自分から傷を深く掘るようなことするなよ、と他人からすれば思えてしまうが、心の傷を与える物事が実は本人の心の拠り所にもなっている、ということは少なくない。
「依存」と言ってしまえばそれまでだが、どれほど傷を負ったとしても、それが本人にとって大切な存在であることに変わりはないから。
だが、生傷が絶えずいくら時間を経ても良くならないことだってある。そんな状態ならいつまでたってもかさぶたは出来ない。
かさぶたの時期は、傷口と外界が薄い膜を介して触れ合う時期。その後の治癒を左右する一番重要な時期だと思う。
そのかさぶたが出来なかったり、出来たとしても外界からの刺激が強かったりすると、傷はいつまでたっても回復しない。むしろ悪くなることだってある。これは心の傷だって同じだ。
そんな時期には、どうしたらいいのだろう。
やはり「話すこと」だと思う。「話すこと」が心の傷においての自己治癒力だと思う。
もしもあなたに傷を与える対象が今後一切変わろうとせず、これからも傷を与え続ける可能性があるのなら。それがある(いる)場所から一度離れて、心の内側を誰かに見せること。
顔が見える相手なら誰だっていい。すぐに話せなくても諦めないでいれば、いつかきっと話すきっかけが見つかる。
↑この場合は(というか世の中この場合がほとんどかも)おそらく、ずっと先まで傷跡が残ることが多いだろう。でも、その傷跡自体が自分と「なる」。自分自身を構成する何かに「なる」。
また、あなたに傷を与える対象が、わざとではなく意図せずに傷を負わせている可能性がある場合。そして、「必ず、言動を改めてくれる」と信じ切れる場合。
思い切って話してみませんか。そして一緒にかさぶたになってもらって、傷が消えたとしても跡が残ったとしても、時を重ねても、自分の「何か」になってもらいませんか。
私が言って良いのかいささか疑問が残るが、それが「愛」だと言いたいのだ。
「The hole」の雰囲気が、安全地帯「碧い瞳のエリス」みたいだと感じたので、ふと、或る日の母との会話を思い出した。
私「安全地帯の『碧い瞳のエリス』好きなんだよね〜」 母「え〜あの暗い曲?」
彼女は「悲しみにさよなら」が好きと言っていた。似てない親子だ。近々会ったら、「ワインレッドの心」派の母と「恋の予感」派の私は何を話すのだろう。
今すでに傷口になってくれている人、そしてこれから出会って傷口になってくれる人を大切にしようと思う。そして私も、誰かの傷口になれたら。
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