25%の重圧【消費税が増えると何が起こるか】

第一章 新入社員の日常

 午前6時半、アラームの電子音が佐藤健太の狭いワンルームマンションに響き渡った。薄明かりの部屋で目を覚ました健太は、ため息をつきながらスマートフォンを手に取る。ベッドから起き上がり、少しだけカーテンを開けると、薄灰色の空が広がっていた。今日も天気は冴えないらしい。

 「あと5分だけ……」そう呟いて再び枕に顔を埋めたい衝動を抑え、健太は重い体を引きずるようにして布団から出た。大学を卒業してこの春から働き始めて以来、早起きの習慣には未だに慣れない。まして昨夜は残業で帰宅が遅く、疲労が全身に残っていた。

 キッチンの電気ポットでお湯を沸かしながら、健太は財布の中身を確認した。残っているのは数千円と、小銭が少し。給料日までまだ一週間以上ある。今月もギリギリだ――頭の中でそんな言葉が渦巻く。

 トースト一枚とインスタントコーヒーだけの簡素な朝食をとりながら、テレビのニュースをつけた。画面には、街頭インタビューで増税について不満を漏らす主婦の姿が映っている。「消費税が25%に上がってから、食費が本当に大変で……」と疲れた笑みを浮かべる女性を見て、健太はリモコンの音量を上げた。

 ニュースキャスターが深刻そうな表情で話している。「消費税率25%への引き上げから3ヶ月が経ちました。生活必需品も値上がりし、庶民の暮らしへの影響が広がっています。政府は低所得者対策として給付金を検討していますが……」と続く言葉に、健太は思わずテレビを消した。

 「給付金なんて焼け石に水だよ……」誰に言うでもなく呟き、スーツに袖を通す。ネクタイを締めながら、健太は玄関先の鏡に映る自分の顔を見た。少しやつれた頬、疲れの滲む目。22歳、新社会人になったばかりだというのに、この先やっていけるのだろうかという不安が胸をよぎる。

 家賃、光熱費、食費――すべてに25%の税金が重くのしかかる。手取りの給料は決して高くないのに、支出ばかりが増えていく。娯楽や趣味に回すお金なんてほとんど残らない。友人と飲みに行くことも減ったし、最近は外食も控えてコンビニのおにぎりで済ます日々だ。

 玄関を出る前に、健太は一応エアコンのスイッチが切れていることを確認した。電気代もばかにならない。特に消費税が上がってからというもの、電気やガス、水道といった公共料金の請求額もじわじわ増えていた。「節約しなくちゃな」そう心で念じ、慌ただしく部屋を後にした。

 朝の通勤電車はいつも通り混み合っていた。吊革につかまりながら、健太は車内吊り広告の見出しに目を止める。「消費低迷 若者の購買意欲減退」そんな記事タイトルに胸がざわついた。自分一人じゃない、皆が苦しんでいるんだ――頭ではそう理解しても、将来への漠然とした不安は消えない。

 会社の最寄り駅に着くと、改札を出たところにあるコンビニに立ち寄った。昼食用にパンとペットボトル飲料でも買っておこうと思ったのだ。店内に入り商品棚を眺める。しかし値札を見るたび、ため息が出た。どれもこれも高い。「これで130円か……」かつて100円だった菓子パンは、今や税抜価格120円に消費税が加わって約150円になっていた。飲み物も同様だ。結局、健太は一番安い黒パンと水のペットボトルを手に取り、レジへ向かった。

 レジ係が機械的に金額を告げる。「お会計は税込みで300円です」。財布から硬貨をかき集めて支払いながら、健太の胸には小さな痛みが走った。300円――数年前なら200円ちょっとで済んだはずの簡単な買い物に、いまではこれだけ支払わなければならない。「ありがとうございました」と店員に頭を下げ店を出るとき、健太は心の中でぼやいた。「毎日毎日、どうしてこんなに金が消えていくんだろう」。

 職場に着くと、オフィスでは既に数名の同僚がパソコンに向かっていた。健太は「おはようございます」と声をかけ、自分のデスクに鞄を置く。同じ部署の先輩である高橋先輩が、缶コーヒーを飲みながらこちらを振り返った。「よお、佐藤。今朝のニュース見たか? また物価が上がったらしいぞ」と苦笑混じりに話しかけてくる。

 「見ました。消費が冷え込んでるって……」健太が答えると、高橋先輩は椅子をくるりと回してため息をついた。「25%はキツいよなあ。給料は変わらないのに。昼飯代だけでもバカにならない」。先輩の言葉に健太も強くうなずいた。「本当ですね。節約しないと生活が苦しいです」。

 二人の会話に、隣の席の同僚、吉田も加わった。「ウチなんか先月から残業規制で、残業代減っちゃってさ。収入減るのに出費だけ増えるなんて、嫌になりますよ」。吉田はカップ麺にお湯を注ぎながらぼやいた。「昼飯もこうして安上がりに済ませないと」。湯気の立つカップ麺からは、侘しい匂いが漂ってくる。

 「カップ麺も値上がりしましたよね。昔は100円以下で買えたのに、いまや140円くらいしますし」と健太が言うと、吉田は「ああ、本当にね」と乾いた笑いをもらした。高橋先輩は苦い顔で缶コーヒーを見つめ、「これだって今や自販機で150円だからなあ……増税前は110円くらいだったのに」と呟いた。

 小さな会話ではあるが、社会人になったばかりの健太にとって、こうした嘆きは日々の現実となっていた。仕事のやりがいよりも、生活のやりくりのほうが頭を占める毎日――こんなはずじゃなかった、とふと考える。しかし嘆いてばかりもいられない。健太は気持ちを切り替えるように軽く頭を振り、パソコンの電源を入れた。

 午前の業務が終わり、正午になると社員食堂へ向かった。財布とにらめっこしながらメニューを選ぶのも慣れてしまった。今日のランチは日替わり定食が600円と貼り出されている。税抜価格は480円だが、税込みだと600円を超える計算だ。「昔は社員食堂の定食なんてワンコインで食べられたって父さんが言ってたけど…」健太はそう心の中でぼやきつつ、列に並んだ。

 定食のトレイを受け取り、席についてスマホを開く。SNSには増税に関する愚痴や不満が溢れていた。友人たちの投稿も、生活が厳しいという話題が増えている。「ボーナス出ても税金に消えるだけ」「何のために働いてるのかわからない」――そんな言葉が健太の胸に突き刺さった。

 食事を終えて午後の仕事に戻っても、健太の頭の片隅には常にお金の心配が離れなかった。定時で仕事を終え、残業もなく帰路につける日はほっとする。無駄な電気を消すよう社内で呼びかけられ、オフィスの照明が落とされる中、健太はパソコンをシャットダウンした。椅子から立ち上がり、背伸びをして固まった体をほぐす。「お疲れ様でした」と同僚たちと声を掛け合い、会社を後にする。

 夕方の街に出ると、ビル風が肌寒い。駅へ歩く途中、繁華街の様子が目に入った。以前は仕事帰りのサラリーマンやOLで賑わっていた居酒屋も、客足がまばらだ。増税以降、飲み会を控える会社員が増えたとニュースで見たことを思い出す。「あの店も閉店セールか…」シャッターの降りた店舗の張り紙が目についた。リーズナブルな定食屋だったその店も、つい先日まで健太が時折利用していた場所だ。経営が苦しくなったのかと胸が痛む。

 駅前では、スーツ姿の男性がティッシュを配っていた。「消費税反対デモのお知らせです! 来週日曜、市民集会があります!」と書かれたビラがティッシュに挟まれているのが見える。健太は受け取ろうか迷ったが、足早に通り過ぎてしまった。関わり合いになるのが少し怖かったのだ。デモという言葉に、どこか非日常なものを感じてしまう。しかし心の中ではひっかかりが残った。「反対デモ、か……」振り返ると、配布されているビラを受け取る人はほとんどいないようだった。

 帰宅して部屋に入ると、真っ暗な空間が迎えた。電気をつけ、ビジネスバッグをソファに置くとどっと疲れが押し寄せる。スーツをハンガーにかけながら、健太はふと実家の両親のことを思った。地方で小さな食堂を営んでいる父と母は、この増税で大丈夫だろうか。電話で「なんとか頑張ってるよ」と明るく振る舞っていた母の声を思い出す。実際は仕入れ値も上がって苦しいに違いない。自分も仕送りできる余裕はないし、心配だけが募る。

 冷蔵庫を開けると、中にはわずかな食材しか残っていないことに気づいた。節約のため外食を控え、自炊しようにも食材を買うお金すら惜しい。結局この夜は、朝コンビニで買った黒パンをかじり、水を飲んで済ませることにした。情けない夕食だと自嘲しつつ、スマホでニュースアプリを開く。トップニュースは今日閣議決定された追加経済対策の話だった。増税による消費低迷を受け、中小企業支援策としてポイント還元や商品券配布を検討しているという。

 「今さら遅いっての…」健太は画面をスクロールしながらつぶやいた。次々と流れてくるニュースタイトル。「若者の8割が将来に不安」「消費税引き上げで貧困家庭増加」――暗い話題ばかりだ。その中に、小さく気になる記事を見つけた。「政府高官、増税必要性を強調『財政再建のため避けられない』」。健太はその記事を開こうとして、ふと指を止めた。読んでもどうせ腹が立つだけだ。そう思い直し、スマホの画面を消す。

 狭い部屋の静けさが増税後の現実をいやというほど感じさせた。健太は布団に転がり込み、天井を見つめる。消費税25%――社会人になる前は他人事のように思っていた言葉が、今や自分の生活を締め付けている。このままでは自分の未来は明るくないのではないか。もやもやとした不安を抱えながら、健太はいつしか浅い眠りに落ちていった。

第二章 支配者の密談

 都心の高層ビル最上階にある会員制クラブの一室に、スーツ姿の男たちが集まっていた。夜景を見下ろせる大きな窓の傍ら、磨き抜かれたテーブルには豪華な料理と高級ワインが並べられている。重厚なカーテンが外界からの視線を遮り、この場にいる者たちだけの密かな会合が行われていた。

 「おめでとうございます、黒崎事務次官。増税後、初の四半期決算で税収は予想を上回ったようですね」穏やかな笑みを浮かべて語りかけたのは、浅野隆一。日本最大手の都市銀行「東邦銀行」の頭取である。白髪まじりの髪をオールバックに撫で付けた威厳ある風貌が、薄暗い照明の下で一際存在感を放っていた。

 「ありがとうございます、浅野さん。おかげさまで何とか形になりました」黒崎正弘はグラスを持ち上げ、苦笑ともとれる笑みを返した。黒崎は財務省の事務次官、つまり官僚組織のトップとして今回の消費税増税を裏で推し進めた中心人物である。彼は一息ワインを口に含むと、喉を潤してから続けた。「税率25%への引き上げは正直、茨の道でしたが…結果的には今のところ財政は安定しています。国民には多少の痛みを強いてしまいましたが、これも国のためです」。

 同じテーブルには他にも数人の姿があった。与党の幹部議員である永田代議士や、経団連の副会長を務める財界人など、政財界の重鎮たちだ。皆、一様に高級スーツに身を包み、談笑しながらグラスを傾けている。

 「国のため、ですか」永田代議士が静かに口を開いた。「確かに、あのままでは日本の財政は破綻しかねなかった。消費税25%は避けられない選択だったと言えるでしょうな」政治家らしい含みを持たせた言い回しで、彼は頷いた。「国民には理解してもらうしかない。もっとも、次の選挙までは時間を置かねばなりませんがね」。

 テーブルには乾いた笑い声が広がった。選挙――誰もが触れたがらないデリケートな問題だ。増税によって国民の反発が高まっているのは承知の上だが、それでも彼らは一様に楽観的に振る舞っていた。

 浅野頭取がナイフとフォークを置き、黒崎に尋ねた。「財務省としては、今回の増税で見込んだ税収はどのように使うおつもりですか?」その問いに、黒崎はテーブル上の資料に目を落とす。彼の手元には、政府の極秘予算配分案が置かれていた。

 「ええ、まずは社会保障費の補填に充てます。高齢化で年金や医療費が増大していますから、その穴埋めが第一です」黒崎は淡々と説明を始めた。「それから、国債の利払い分にも回します。何しろ国の借金はGDPの二倍以上ですから、本来なら25%にしても足りないくらいでしてね。本当によくここで食い止めていると思いますよ」彼は自画自賛するように肩をすくめた。

 「しかし、それだけではないでしょう?」経団連副会長の大橋が口を挟む。「私どもの業界にも何かしら恩恵があると伺っていますが」。

 黒崎はニヤリと笑った。「ええ、もちろんです。消費税を引き上げる代わりに、法人税率を2%引き下げる措置を講じました。既に今月から施行されていますが、お気づきでしたかな?」大橋は満足そうにうなずいた。「承知しております。おかげさまで我々企業としても、増税による国内消費の落ち込みを多少なりとも補填できるでしょう」。

 「加えて、大規模な公共事業も予定しています」と黒崎は続けた。「全国のインフラ老朽化対策と称して、予算をつける手はずです。これにより主要建設会社や関連産業にも資金が流れる」。彼はテーブルを見渡し、集う面々の表情を確認した。皆それぞれの利害が絡んだ計画に、一様に満足しているようだった。

 浅野が軽く手を叩いて言った。「それは素晴らしい。一石二鳥ですね。財政再建と経済対策を同時に進めるとは」。黒崎は肩をすくめてみせる。「国民には『社会保障のため』と言っておけば大抵納得しますよ。実際、高齢者向けの給付金など細かなガス抜き策も用意しましたからね」。

 「若者はどうです?」ふいに永田代議士が尋ねた。「最近、若い世代の不満が高まっているように感じます。消費税の影響が一番きついのは彼らでしょうから」。彼はグラスの氷を転がしながら黒崎を見た。

 黒崎は一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑みに戻った。「確かに、我々の世代より若者のほうが負担感は大きいでしょう。しかし、だからといって彼らに特別な配慮をするつもりはありません。将来の日本を背負うのは若者ですから、今から痛みを共有してもらわねば」。

 「彼らにはお気の毒だが、仕方ないですな」別の政界の長老が口を開いた。「投票率も低い世代だし、多少不満があっても大事には至らないでしょう。我々の支持基盤である高齢者層にはしっかりアピールしてありますしね。『全世代型社会保障』の名目で年金を守ると約束したのですから、皆大人しくしてくれますよ」。

 一同がうなずく中、浅野頭取だけは静かにグラスを傾けていた。彼は窓の外、眼下に広がる東京の夜景に目をやる。「しかし、消費税25%というのは日本史上例のない高負担社会です。長く続けば、どこかで綻びが出るかもしれない…そうは考えませんか?」彼の問いかけに、場が一瞬静まり返った。

 黒崎は慎重に言葉を選んだ。「確かに、消費が冷え込んで経済成長は鈍化する可能性があります。実際、増税後の景気指数はやや下振れしています。しかし、それは一時的なもの。私としては、いずれ国民もこの税率に慣れ、消費は持ち直すと見ています。それに、多少景気が悪化しても財政が持たなければ元も子もありませんから」。

 永田代議士も頷いて同意する。「我々政治家としても、国際社会に対し財政再建の意思を示さねばなりませんでした。日本国債の信認維持のためにも、今回の増税は避けられなかったのです。海外の格付け会社も日本の動きを歓迎している。これで当面、大きな危機は遠のいたと言えるでしょう」。

 浅野はゆっくりと笑みを浮かべ、「さすがは官民の知恵を結集した決断というわけですね」と皮肉めいた口調で言った。しかし黒崎はその皮肉を笑って受け流す。「ご安心ください、浅野さん。金融業界への配慮も忘れてはいません。実は…」と声をひそめ、テーブルの上に身を乗り出す。

 「政府は来月、公的資金を投入して一部地方銀行の救済を行う予定です。名目は『地域経済活性化のための資本増強支援』ですが、要は経営難の銀行へのテコ入れです。これにも消費増税で得た財源を一部使います」黒崎の言葉に、浅野は満足げに笑った。「それはありがたい。地方銀行は我々メガバンクにも取引がありますから、金融システム全体の安定につながるでしょうな」。

 こうして、彼ら支配者層は思惑を語り合った。遠く下界では庶民が節約に頭を悩ませている頃、雲の上の存在たちは自らの利益と国家の方針を秤にかけ、冷静に将棋の駒を動かすように社会を設計していく。グラスが触れ合い、高級ワインが静かに揺れる中、彼らの笑い声だけが虚空に響いていた。

第三章 不条理への目覚め

 それから数日が過ぎた。健太の生活は相変わらず切り詰めた状態が続いていたが、決定的な転機が訪れたのは週末のことだった。

 土曜日の午後、健太は久しぶりに実家の母から電話を受けた。画面に映る母の顔は心なしかやつれて見える。「健太、元気にしてる?」と明るく振る舞おうとする声が痛々しかった。「うん、何とかね。そっちはどう?」健太が尋ねると、母は少し沈黙した後、こう言った。

 「実はね、お店のことで相談があるの」。両親が営む小さな食堂は、地元で数十年続く店だった。健太も子供の頃から手伝いをしていた思い出の場所だ。「最近、お客さんがめっきり減ってしまって…。消費税が上がってから特にね。みんな外食を控えているみたいで、お昼時なのに席が埋まらない日が増えたのよ」。母の声はかすかに震えていた。「仕入れの値段も上がっているし、このままだとお店を続けるのが難しくて…お父さんと相談して、店をたたむことも考え始めているの」。

 「そんな…」健太は言葉を失った。あんなに賑わっていた実家の食堂が、たった数ヶ月の増税で追い詰められているというのか。「何とかならないの? せっかくここまでやってきたのに…」健太の問いに、母は無理に明るく笑った。「大丈夫よ、お母さんたちはどうにかやっていけるから。健太は自分の生活を心配しなさい。東京で頑張っているんでしょ?」。その言葉に胸が締め付けられる思いだった。親に心配をかけまいとする母の気遣いが、却って健太の無力感を募らせた。

 電話を切った後、健太はしばらく呆然としていた。幼い頃から家族同然に接してくれた常連客たちの顔が脳裏に浮かぶ。彼らの憩いの場だった食堂が消えてしまうかもしれない。悔しさと悲しさが入り混じった感情が込み上げ、健太はやり場のない怒りを覚えた。

「なんで俺たちばかりがこんな目に遭うんだ…」気づけば声に出していた。消費税25%――それさえなければ、こんな苦労はしなくて済んだのではないか。もちろん頭では、財政が厳しいから仕方ないという政府の言い分も分かっているつもりだった。しかし、実際に苦しむ人々の姿を目の当たりにすると、その「仕方ない」で片付けられる理屈に激しい憤りが湧いてくる。

 その日の夜、健太は大学時代の友人である中村から飲みに誘われた。久々の誘いだったが、健太は気が進まなかった。お金もないし、気分も沈んでいる。それでも「久しぶりに会って話そう」と言われ、結局近所の安い居酒屋に行くことにした。

 居酒屋の座敷で再会した中村は、以前に比べやつれて見えた。乾杯のグラスを合わせた後、中村はぽつりぽつりと近況を語り始めた。「実はさ、俺、まだ就職先決まってないんだ」。彼は去年大学を卒業したが、就職氷河期で希望する職に就けず、アルバイトで食いつないでいる身だった。「この前受けてた会社も、増税の影響で採用見送りになったって。まいったよ。正直、日本で働くの諦めようかと思ってる」。

 「諦めるって、どうするんだよ?」健太が驚いて尋ねると、中村は苦笑した。「海外に行こうかと思ってさ。知り合いが東南アジアで起業するって言ってて、声かけられてるんだ。日本じゃまともに稼げそうにないし、税金ばっか取られるしさ…将来が不安で仕方ないんだよ」。健太は言葉が出なかった。かつて同じ講義で将来の夢を語り合った友人が、日本を見限ろうとしている。その現実に直面し、胸の奥がざわついた。

 「健太は会社どう? うまくやってるのか?」中村に問われ、健太は苦笑いを浮かべた。「俺も毎日ギリギリだよ。給料は安いし、税金で持っていかれるし…正直将来のビジョンなんて描けない」。いつもなら見栄を張って「まあまあかな」と答えたかもしれない。しかし今夜は素直な本音が口をついて出た。

 中村は深刻な表情でうなずいた。「やっぱりそうか。ネット見てても、同世代の悲鳴ばっかだもんな。なんかさ、俺たちだけがババを引いてる気がするよ」。そう言ってグラスの酒をあおる姿に、健太も黙ってうなずくことしかできなかった。

 店を出て別れ際、中村は「お互い、頑張ろうな」と寂しげに笑った。その笑顔を見送りながら、健太は居たたまれない気持ちになった。頑張ろうと言い合いながら、現実にはどうにもならない閉塞感――それが今の若者の置かれた状況なのかもしれない。

 自宅への帰り道、健太の頭には怒りと虚しさが渦巻いていた。両親の店も友人の人生も、すべてが理不尽な方向へ追いやられている。なのに自分は何もできない。政府に文句を言ったところでどうにもならないと諦めるしかないのか? ふと、先日駅前で受け取り損ねたビラのことを思い出した。「消費税反対デモのお知らせ」――あの言葉が脳裏でちらつく。

 家に帰り着くと、健太はすぐにパソコンを開いた。インターネットで「消費税25% デモ 市民集会」と検索する。すると、SNS上で市民グループがデモを呼びかけている投稿を見つけた。どうやら来週の日曜日、都内で大規模な抗議デモが行われるらしい。「増税にNOを! 若者と庶民の声を政治へ届けよう!」と書かれたその呼びかけに、健太の心は強く動かされた。

 ページをスクロールすると、デモの主催者は「生活を守る若者の会」という団体だった。メンバーの顔写真やメッセージが掲載されている。自分と同世代か、少し上くらいの若者たちが中心になって活動しているようだ。彼らの真剣な眼差しの写真に、健太は引き込まれた。

 「今のままでは、僕たちの未来は壊されてしまう。声を上げよう」という代表者のコメントを読み、健太の胸に熱いものが込み上げてきた。自分と同じように感じている人がいる。自分一人ではなかったのだ。ずっと心に溜め込んでいた鬱屈とした思いを、声に出していいんだと知った。

 健太は意を決して、その市民グループの連絡先にメッセージを送ってみることにした。「初めまして。佐藤健太と申します。消費税増税で生活が苦しく、自分にも何かできないかと思い、ご連絡しました…」拙い文章ながらも、自分の現状と参加の意志を書き送った。

 送信ボタンを押すと、しばらくして返信が届いた。「ご連絡ありがとうございます。ぜひ一緒に声を上げましょう。今度の集会では若い世代のスピーチも募集しています。佐藤さんのお話も伺えたら嬉しいです」。予想外の温かい返事に、健太の心は震えた。自分にも何か役に立てるだろうかという不安はまだあったが、それよりも行動を起こそうという決意が勝っていた。

 その夜、健太はなかなか眠れなかった。初めてデモに参加する緊張と、不思議な高揚感があった。部屋の中で一人、声に出してみる。「もう黙っていられない。俺だって、変えたいんだ…この社会を」。誰に届くとも知れない言葉だったが、自分自身への誓いのように響いた。消費税25%の重圧に苦しむだけの日々から、一歩踏み出す時が来たのだと、健太は静かに決意した。

第四章 策略と陰謀

 日曜日のデモを翌日に控えた土曜の夜、首相官邸では緊急の打ち合わせが行われていた。内閣総理大臣・高橋や官房長官、財務省事務次官の黒崎、警察庁長官などが集まり、増税に対する国民の反発への対策を協議していた。

 「明日のデモ、かなりの規模になるようです」官房長官が資料に目を落としながら報告する。「SNS上で若者を中心に呼びかけが拡散しており、参加予定者は1万人規模とも。許可申請も正式に出ています」。首相の高橋は渋い顔をして腕を組んだ。「1万人か…無視できない数字だな。報道もされるだろう」。

 「しかし、所詮は一時的な熱気でしょう」黒崎が落ち着いた声で口を開いた。「過激な行動さえ起こさなければ、静観していて構わないかと存じます。下手にこちらが慌てると、かえって勢いづかせる可能性があります」。警察庁長官もうなずく。「デモ隊には機動隊を配置してあります。万一の騒乱にも備えていますが、日本のデモは比較的平穏ですから、衝突は起きないでしょう」。

 高橋首相は苛立たしげにテーブルを指で叩いた。「問題は世論だよ。せっかく財政再建に踏み切ったのに、このままでは政権の支持率が下がりかねない」。彼は黒崎に視線を向ける。「君たち財務省は、この状況をどう見る? 国民にもっと説明すべきではないのか」。

 黒崎は表情を変えずに答えた。「首相、ご安心ください。既に増税の必要性は繰り返し訴えてきましたし、大多数の国民はある程度理解しています。デモに参加するのはごく一部の不満分子です。メディアにも根回しして、あまり大々的に報じないよう協力を要請済みです」。

 官房長官も口を挟む。「NHKや主要紙とは水面下で情報管理について合意しております。デモ当日はスポーツニュースや海外ネタで紙面や放送枠を埋め、抗議の様子は小さく扱う方向です」。高橋首相は少し安堵した様子で頷いた。「そこまでやっているならいい。しかし、何かあればすぐ報告を頼む」。

 話題はデモ対策から、今後の経済運営へと移った。財務省の黒崎は最新の経済指標を説明しながら、「増税後の消費落ち込みは想定範囲内です。景気対策としてポイント還元策や低所得者向けの商品券配布を発表済みですので、徐々に効果が出るでしょう」と述べた。

 高橋首相は苦笑した。「焼け石に水かもしれんがな。本音を言えば、増税前にもっと手を打っておくべきだった」。彼の言葉に黒崎は内心わずかな苛立ちを覚えた。政治家はいつも後になって文句を言う、と。しかし表には出さず、「我々官僚としても全力を尽くしております」とだけ答えた。

 やがて会合が終わり、各人が帰路についた。黒崎は官邸の廊下を歩きながらスマートフォンを取り出し、ある番号に電話をかけた。数コールの後、電話口から浅野頭取の声がした。「もしもし、黒崎さん。どうしましたかな?」黒崎は周囲に人がいないことを確かめ、小声で話し始めた。

 「ええ、明日の件ですが…予定通り進めます。政府としては静観の方針で、報道もコントロール済みです。おそらく大事には至らないでしょう」。電話の向こうで浅野が満足げに笑う声がした。「それは結構。くれぐれもよろしく頼みますよ。社会の安定が第一ですからな」。

 黒崎は頷き、「承知しております」と応じた。そのまま浅野は続けた。「黒崎さん、先日の話ですが…例のポストの件、正式に進めております。あなたが退官された暁には、ぜひ我が東邦銀行の顧問としてお迎えしたいと考えていますので」。黒崎の唇が僅かにほころんだ。「ありがとうございます。身に余る光栄です。まだ公にはできませんが、来年度いっぱいで退官する意向ですので、その節はよろしくお願いいたします」。

 電話を切った後、黒崎は夜風の吹き込む官邸のエントランスにしばらく立ち尽くした。遠くには都心の喧騒がかすかに聞こえる。彼はネクタイを緩め、深呼吸した。長年国家の財政を支えてきた自分に対するご褒美――そう言ってもいいだろう。浅野の誘いに応じれば、退官後も安泰だ。財務省のエリート官僚が民間に天下りするのは珍しいことではない。自分もその例に漏れないだけのこと。

 「これでいいのだ」と黒崎は自らに言い聞かせるように心の中で呟いた。財政を立て直すために自分は最善を尽くした。その過程で多少の便宜を図ったところで、誰に責められる筋合いもない――そう自負していた。明日のデモも、いずれ収まる嵐に過ぎない。国民には悪いが、ここで路線を変えるつもりは毛頭なかった。

 一方その頃、財務省の若手官僚である板橋修一は、自宅のパソコンに向かって一通の匿名メールを送信していた。宛先はとある新聞社の記者。メールには一連の増税に関する内部資料が添付されていた。板橋は心臓の高鳴りを抑えながら送信完了の表示を見届ける。「これでいいのか…?」頭には葛藤があった。しかし目の前に積まれた書類――そこには、増税に踏み切った裏で一部の企業優遇策や銀行救済の密約が交わされていた証拠が記されていた。「このまま見過ごせない」。そう自分に言い聞かせ、板橋は闇に向けて一筋の告発を投じたのだった。

第五章 決起

 日曜日の朝、健太は小雨の降る中を電車に乗り込み、集合場所である国会議事堂前駅へ向かった。胸の奥で心臓が早鐘のように鳴っている。デモに参加するのは生まれて初めてだった。緊張と不安、そしてそれ以上に「自分は今から何かを変えるための行動を起こそうとしている」という高揚感があった。

 駅を出ると、既に多くの人々がプラカードを手に集まっていた。「消費税25%反対!」「庶民の生活を守れ!」と書かれた横断幕が目に飛び込んでくる。若者だけでなく、子連れの主婦や高齢の男性の姿もあった。老若男女、様々な人がそれぞれの思いを胸に集まっている。健太はこんなに多くの人々が同じ思いでいることに驚き、そして心強く感じた。

 「佐藤さん!」と声をかけられ、振り返ると、SNSで連絡を取った市民グループのメンバーらしき女性が立っていた。「はじめまして。連絡くださった佐藤さんですよね?」彼女はにこやかに手を差し出した。健太も慌てて手を握り返す。「はい、佐藤健太です。今日はよろしくお願いします」。

 彼女は川島と名乗り、今回のデモの運営スタッフの一人だという。「来てくれて嬉しいです。若い人の参加はとても貴重なんです」と川島は微笑んだ。周囲には彼女の他にもスタッフ用の腕章をつけた人々が準備に奔走している。健太はその熱意に圧倒されつつ、「自分も何か手伝えることはありませんか?」と尋ねた。川島は「じゃあ、プラカードを持って先頭付近に並びましょう。佐藤さんにもぜひ声を出してもらいたいです」と、用意していた「消費税25%反対!」と大書きされたプラカードを健太に手渡した。

 やがてデモ行進が始まった。コールリーダーの掛け声に合わせて、一斉にシュプレヒコールが響く。「消費税を下げろ!」「暮らしを守れ!」健太も声の限りに叫んだ。初めは恥ずかしさもあったが、隣で同じくらいの年齢の青年が必死に声を張り上げているのを見て、負けていられないと思ったのだ.

 行進が国会議事堂前の大通りに差しかかると、沿道には警察官がずらりと並び厳しい表情で監視していた。しかしデモ参加者たちは秩序正しく、プラカードを掲げて声を上げる。車いすに乗った障害者の参加者もいれば、ベビーカーを押す母親もいた。健太はそんな光景に胸が熱くなった。「皆、必死なんだ…俺だけじゃないんだ」と実感した。

 しばらく行進が続いた後、国会議事堂前の広場で集会が始まった。主催者の若者がマイクを握り、次々とスピーチが行われる。「私はコンビニでアルバイトをしていますが、増税後お弁当が売れなくなりました」「年金暮らしの身には、この増税は死活問題です!」と、それぞれの立場から切実な訴えが語られる。健太はそれを聞きながら大きくうなずいた。

 やがて、川島が健太の肩を叩いた。「佐藤さん、もしよかったら少し話してみませんか?」突然の提案に目を見開く。「え、僕がですか?」戸惑う健太に、川島は優しく笑った。「無理にとは言いません。でも、あなたが送ってくれたメッセージを読んで、ぜひその思いを皆とも共有してほしいと思ったんです」。

 健太は緊張で喉が渇くのを感じた。しかし、ここで自分の思いを言葉にしなければ、きっと後悔する――そう思い、意を決した。「やってみます」と小さく頷くと、川島は「ありがとうございます!」と嬉しそうにマイクの順番を手配してくれた。

 順番が来て、健太は大勢の前に立った。手が震えるのを押さえつけながらマイクを握る。「佐藤健太といいます。22歳で、今年から社会人になりました」。自分の声がスピーカーを通して響く。まばゆい日差しが雨上がりの雲間から差し込み、健太は空を見上げた。いつの間にか雨は止んでいた。

 「正直、こんな場所で話すのは怖いです。でも、黙っていられませんでした」。言葉を選びながら、健太は自分の日常を語り始めた。初任給の大半が生活費と税金で消えていくこと、実家の店が経営危機に陥っていること、友人が将来に絶望して海外に活路を見出そうとしていること――話しながら、込み上げるものがあり、声が震えた。「僕は夢を描いて社会に出たはずでした。でも今は、生きていくだけで精一杯です。こんなのおかしいじゃないですか…!」最後は吐き捨てるような口調になった。

 広場に集まった人々が一斉に頷き、そして拍手が起こった。「そうだ!」「よく言った!」という声が飛ぶ。健太は熱く潤んだ目で続けた。「消費税25%なんて、あんまりです。確かに日本は財政が厳しいかもしれない。だけど、なぜ僕たちばかりが苦しまなきゃいけないんでしょうか? 政府の偉い人たちは痛くも痒くもないんじゃないですか? ニュースで見ました。政治家は増税後にこっそり歳費を上げていたって。自分たちは守られて、僕たち庶民だけが犠牲になるなんて、そんなの納得できません!」自分でも驚くほど言葉が出てきた。

 健太の訴えに、聴衆からは怒りにも似たどよめきが広がった。その時、人波の後方から何やらざわめきが伝わってきた。誰かがスマートフォンを片手に叫んでいる。「政府の内部資料が漏洩したぞ!」「増税の裏で企業優遇の密約だって!」その言葉を聞き、川島をはじめスタッフたちが動いた。一人の男性スタッフが前に出てマイクでアナウンスを始める。

 「皆さん、聞いてください! 今しがたネット上に、政府内部からの告発資料が公開されました。そこには、今回の増税と引き換えに大企業の法人税減税や大手銀行への公的資金注入が密かに取り決められていた証拠が含まれているそうです!」広場が一瞬静まり返り、次の瞬間には大きなどよめきが巻き起こった。「やっぱりそうか!」「ふざけるな!」怒りの声が次々と上がる。

 健太も耳を疑った。企業減税? 銀行への支援? そんなことは政府は一言も国民に説明していない。しかし自分が日々感じていた違和感――なぜ一部の人間だけが得をしているように見えるのかという疑念が、現実のものとして突きつけられたのだ。

 川島が急いでスマートフォンでニュースサイトを確認し、健太にも見せてくれた。そこには赤裸々に書かれていた。「政府高官が財界と交わした極秘合意書」「消費増税分の一部が特定産業の救済に」等々の見出しが踊っている。健太の手が怒りで震えた。「許せない…」心の底からそう思った。

 マイクを握った男性スタッフは声を張り上げた。「ご覧の通りです! 政府は私たち国民を欺いていました。財政再建と言いながら、その裏で自分たちの利権を優先していたのです! こんな不公平を許しておいていいのでしょうか?」群衆から一斉に「ダメだ!」「許さない!」の声が上がる。抗議の熱気は頂点に達しようとしていた。

 健太は再びマイクを握り直した。今こそ声を上げる時だという衝動が体を突き動かす。「皆さん、僕たちは騙されていました! でも、もう黙っているわけにはいかない。僕たちの声で、この国を動かしましょう!」そう叫ぶと、集まった人々から大きなどよめきと拍手が巻き起こった。「そうだ!」「声を届けよう!」次々に声援が響く。

 「増税反対!」「増税反対!」誰からともなくコールが再開した。健太も全力でそれに応えた。国会議事堂に向けて放たれる怒りの声は、次第にひとつのうねりとなっていった。警備の警察官たちも厳しい表情を崩さないが、その目には動揺が浮かんでいるようにも見えた。

 こうして、庶民の怒りと叫びは最高潮に達した。健太は群衆の中心で、声が枯れるまで叫び続けた。自分たちの未来を取り戻すために。この瞬間、確かに彼らは一つになっていた。巨大な不条理に立ち向かう小さな市民たちの決起が、静かだった日本社会に波紋を広げ始めていた。

第六章 変わりゆく社会

 デモから一夜明けた月曜日の朝、健太は出社すると同僚たちの視線が自分に集まっているのに気づいた。何人かが笑顔で近づいてきて、「昨日テレビでデモのニュース見たよ。すごかったな!」と声をかけてきた。政府の情報統制にもかかわらず、ネット上で大きく拡散した内部告発のニュースは無視できない規模となり、民放テレビ局も夜のニュースで短く報じざるを得なかったのだ。その中で国会前デモの映像が流れ、健太の姿も一瞬映っていたのを同僚たちは見つけたのだった。

 「佐藤、お前出てただろ!」吉田が興奮気味に肩を叩く。「びっくりしたよ。まさか会社のやつがあんな大勢の前で演説してるなんてな」。健太は照れ臭さに頬をかきながら、「勢いで、つい…」と笑った。高橋先輩も頷いて「でもよ、お前の言う通りだ。俺も正直、昨日のニュース見て腹が立ったよ。裏でそんなことになってたなんてな」と真剣な表情になる。「増税は仕方ないって思ってたけど、裏切られた気分だ」と別の同僚も拳を握り締めた。

 社内で普段政治の話などしない同僚たちまでが、昨夜からその話題で持ちきりだった。営業先から戻ってきた同僚は「取引先でも増税の裏話が話題になってさ、皆怒ってたよ」と教えてくれた。健太はその様子に、社会が確かに変わり始めていることを感じた。誰もが無関心ではいられなくなったのだ。

 昼休み、健太はスマホでニュースサイトを次々とチェックした。政府は朝から対応に追われているようだった。官房長官が記者会見で「一部報道は事実と異なる」と釈明し、企業優遇の密約については「確認中」と繰り返すだけだった。しかし野党や世論の追及は日増しに強まっていた。与党内でも「このままでは次の選挙は戦えない」と増税見直しを求める声が上がり始めたという。

 夕方、スマホに実家の母からメッセージが届いた。「ニュース見たよ。健太が頑張ってる姿を見てお父さんも私も涙が出ました。お店、もう少し続けてみようと思います」とあった。健太はそれを読んで思わず涙ぐんだ。自分の行動が確かに誰かの希望につながったのだと実感した。

 それから数週間の間に、事態は大きく動いていった。財務省事務次官の黒崎は、一連の密約疑惑の責任を取る形で辞任に追い込まれた。密約を交わしたとされる大企業や銀行への批判も高まり、浅野頭取も国会に参考人招致され厳しく追及を受けた。政府与党は窮地に立たされ、ついに総理大臣の高橋は消費税25%の税率維持を断念し、生活必需品に対する軽減税率の拡大や低所得者への減税措置を検討すると表明した。更に、「国民の信を問う」として衆議院の解散・総選挙に踏み切るとの報道が駆け巡った。

 社会全体にも変化が見られた。街頭では連日のように抗議集会や意見交換のサロンが開かれ、人々が政治や経済について語り合っていた。SNS上でも増税の是非や財政のあり方について活発な議論が行われ、専門家を招いたオンラインフォーラムなども人気を博した。以前なら難しいと敬遠されていた話題に、若者から高齢者まで多くの人が向き合い始めたのだ。

 健太も仕事の合間を縫って、市民グループの活動を続けた。川島たちとともに各地で開かれる集会に参加し、自らビラ配りやスピーチも行った。会社の仲間の中にも賛同してくれる者が現れ、一緒に活動に加わった。同僚の吉田は「俺も子どもができたら、こんな社会じゃ困るからな」と苦笑しながらも協力を申し出てくれたし、高橋先輩も「陰ながら応援してるぞ」と励ましてくれた。社内でも有志で勉強会を開き、税金の使い道や政治参加について話し合うようになった。

 そんな中、健太は自分自身の将来について大きな決断を下した。それは、来年の春に会社を辞め、政治や社会問題に直接関わる道に進むというものだった。市民グループの仲間から、「いっそ政治家になってみたら?」と冗談半分に言われたのをきっかけに、本気で考えるようになったのだ。自分たち世代の声を政治に届けるには、内側から変える努力も必要かもしれない。最初は無謀だと思った。しかし、デモでスピーチをしたあの日以来、健太の中にはかつてない勇気が芽生えていた。

 「やってみよう」――何度も自問自答を繰り返した末に出した結論だった。両親に相談すると、「お前が決めたなら応援するよ。店は心配するな」と背中を押してくれた。中村にも連絡すると、「すげえな健太。じゃあ俺も日本で踏ん張って、お前を支えるよ」と笑ってくれた。海外移住を考えていた彼も、健太の決意に刺激を受け、もう一度この国で頑張ってみると言ってくれたのだ。

 季節が巡り、春。桜の花びらが舞う中、健太はスーツ姿で国会議事堂の前に立っていた。今日は新人議員や各政党の新人スタッフ向けの研修会が行われる日だ。健太は市民団体の推薦を受け、若者の政治参加を推進する議員の事務所スタッフとして新たなスタートを切ることになった。選挙に直接立候補したわけではないが、政治の現場に飛び込み、一から学びながら改革の一助になりたいと考えたのだ。

 国会議事堂を見上げながら、健太は静かに拳を握った。消費税25%の重圧に苦しめられたあの日々を、決して忘れない。そしてあの苦しみが無駄ではなかったことを証明するためにも、これから自分ができる限りのことをしよう。そう心に誓った。

 社会は少しずつ変わり始めている。あのデモの日から、人々は声を上げれば世の中を動かせると知った。もちろん、すべての問題が解決したわけではない。消費税の高負担がすぐに軽くなるわけでもなく、日本の財政問題も依然として残っている。それでも、健太たち若い世代が未来に希望を持てる社会への一歩が踏み出されたのは確かだった。

 「よし…行こう」健太は自分に言い聞かせると、議事堂へと歩み出した。桜吹雪の中、新たな決意を胸に。あの25%の重圧に立ち向かった経験を糧に、彼はこれからも社会の不条理に立ち向かっていくつもりだった。

 空は晴れ渡り、眩しい春の日差しが健太の背中を押していた。増税後の社会は、苦難を経て変わり始めた。そして今、この国の未来を創るのは、他でもない自分たちなのだと、健太は強く信じていた。

いいなと思ったら応援しよう!