【短編小説】氷の教卓 #4
こちらの続きです。
事故は油断したときに起きるとよく言われるが、それ以外にもいくつかパターンがある。
そのうちの一つが「偶然が重なったとき」だ。
本来、異常が現れた魔道書をその辺りに放置しておくことはしない。そもそもクーウィムの優秀な魔術師なら自力で封印できることが多い。が、全ての魔術師が封印術に長けているわけでははく、彼らも町にいないときがある。つまり、すぐに動ける魔術師がギルドにしかいなかったのだ。
異常が現れた本は基本的に他人の手に触れないところに保管する。移動の際にも専用の手袋を着用し、自身の魔力が伝わらないように扱う。だが、封印術を展開させるには人前に出す必要がある。つまり、異常が現れた魔道書を机上に置いたままにしていた。
更に、その魔道書の封印依頼を出した魔術師はメルクナ学院の校長で、魔道書を校長室に置いていた。そこに一人の生徒を説教目的で連れてきてしまった。
つまり――。
猛烈な勢いで炎が踊る。ラスターが「窓から離れろ!」と叫ぶのと同時に術が展開された。いや、それは術ではなかった。透明な塊は炎よりも早く校舎の外側を覆い、その質量を増す。先ほどやったことだ。二度目となれば手慣れたものである。
「ヒョウガ殿!」
「オレは大丈夫!」
「おい、魔力は足りてるのか?」
「コガラシマルがいるから平気!」
休憩室近辺は問題ないようだが、他の教室ではパニックが起きているようだ。遠近様々なところから悲鳴が聞こえる。それもそうだ。突如外で激しい音が鳴ったかと思ったところに再び校舎が氷漬け。かろうじて窓から外を見ると炎が暴れてるときた。
「全員で教室を回れ! 玄関目がけて逃げだそうとするヤツが居たら殴ってでも止めろ!」
「応!」
セージが友人たちに的確な指示を出す。お調子者軍団かと思いきや以外と統率が取れている。
「ノア、俺たちは本の封印に」
「ああ。おそらく校長室にあると思う、行こう」
「……どうやら、探しに行く必要はなさそうだ」
コガラシマルが静かに刀を抜いた。
薄暗い廊下の奥で、炎が燻る魔道書の存在だけが明瞭に浮かぶ。本の持ち主が笑っているのがその光源で分かる。
ノアはラスターにアイコンタクトを飛ばす。まさか本に触れた人間がこちらに来るとは思っていなかった。炎が上がったのは校舎外の話で、魔道書に触れた人間も同じく外に居るのだとばかり思っていた。そして状況が悪すぎる。ヒョウガは今校舎を守るのに氷を展開するので手一杯で、コガラシマルは一触即発。仮に戦闘が始まった場合、校舎が中から燃える可能性がある。
「フォル、その本はどうしたの?」
「校長先生の机に置いてあったの」
フォルは案外素直に答えてくれた。
「校長先生は?」
「どうもしてないわ。先生がちょっと席を外した間に、机に積まれた本が落ちて、元に戻そうと手に取ったら……こんなに素晴らしい力があるなんて思ってなかった」
「その魔道書がどういったものか、分かる?」
「ええ。地獄の業火を呼び寄せる類いの書物で、過去には禁術指定されていたこともあったものよね」
「そこまで分かっているなら、その本の危険性が分かるよね?」
「勿論です。でも、私は努力を怠らなかった。だから使えるんです」
ノアはぐっと言葉を飲み込んだ。努力の一つや二つで使いこなせるほど、あの本はたやすくない。だが、フォルは満面の笑みを浮かべて、コガラシマルの方を見てこんなことをのたまう。
「これならあなたに勝てるわ」
心の底から嬉しそうなフォルに対し、コガラシマルは絶対零度の蔑みを返す。
「ついにご自慢の努力すら放棄したか」
「いいえ、違います。これは私の努力の結果。努力していたからこそこの本を扱えるようになったのです」
嘆息する。ただただ呆れかえる。彼女が学友から距離を置かれていた理由も嫌というほど分かる。フォルは自信に溢れた様子で、魔道書に魔力を注いだ。
反射的にノアが障壁魔術を張る。コガラシマル目がけて一直線に飛んできた炎を食い止めると同時に、物陰に潜んでいたラスターが飛び出すのが分かった。魔力が揺らぐ。本を強奪しようとしたラスターの試みは、失敗に終わったらしい。フォルの近くにある休憩室の扉が開くのが見えたので、そちらへ逃げ込んだようだ。
「室内で炎を放っていいものだと思っているのか?」
「ヒョウガの氷で外に出られないから、ヤケになってるんじゃないか?」
休憩室経由でこちらに戻ってきたラスターが答えた。奇跡的にケガはないようだ。
「……この調子だと説得も無理だろうね、何が何でも本を奪わないと」
「ノア、身体拘束魔術はどうした?」
「さっきから何度も撃ってるけど、無効化されちゃう」
ラスターが「いいなぁ」と呟いたのをノアは聞き逃さなかったようだ。ラスターを肘でつついてから、もう一度フォルに向き直る。
「君の望みは何? 学院の外まで滅茶苦茶にして何がしたいの?」
「もう一度魔術決闘を申し込みます。今度こそあの精霊に負けたりしない」
「ノア殿、あれはもうダメだ。手段と目的が入れ替わってしまっている」
それはノアにも分かっている。フォルは最初、氷漬けの校舎をなんとかするためにコガラシマルに(演習という形とはいえ)決闘を挑んだ。しかし今は、己のプライドで動いている。しかしここで決闘を許可した場合のリスクも大きい。校舎を焦がすのも勿論、死体を見る羽目になるのもご遠慮したいところだ。
「それに……ヒョウガ殿の氷もずっとこのままというわけにはいかぬだろう」
「…………」
言い分はその通りだ。吐く息も若干白く染まりつつあり、気温の低下が窺える。ノアの魔術は無効化され、ラスターの奇襲も失敗。だからといって、持ち主を殺すわけにもいかない。ヒョウガは外の炎から校舎を守るのに手一杯。
「おそらく魔道書の魔力の影響も受けているはずだ。フォルと魔道書を引き剥がせばなんとかなる、けど」
「あの程度の魔力の影響を食らうのなら、あれ以上の魔力を当てれば隙が生じるのでは?」
「できるの?」
「……上手くいくかは分からないが」
「現状それしか方法がないか、……っ!」
炎を防ぐための障壁魔術も限界が近い。外はヒョウガが氷で防いでいるが、内側はそうもいかない。ノアの障壁魔術で防げる程度の炎といえど、本来こちら側に来る攻撃だけを防げばよいところ、壁や扉も含めて守っているので魔力の消耗は激しい。
「この攻撃が止んだら某が前に出る。ヒョウガ殿、薬の準備を頼む」
「薬……?」
詳しく聞こうとしたところ、炎が止む。
「来たわね!」
フォルが炎を纏う。ラスターが再び所定の位置に待機したのを視界の端で捉え、コガラシマルは声を張った。
「すさまじい魔力だな、小娘」
「ええ。私の努力と、魔道書のおかげです」
「だが足りぬ」
「………なんですって?」
「精霊族は人とかけ離れた姿になればなるほど魔力が強い個体というのは、貴様も当然知っていることだろう」
それはノアも知っている。だからプレメ村で初めて彼と出会ったとき、とんでもない精霊がいるものだと思った。が、同時に疑問もあった。あれだけの暴走を押さえつけるだけの魔力を同時に持っているとすれば、何もしていない状態の彼が生じさせる魔力の影響があまりにも小さい。確かに湖で泳いで流域に多少の影響を生じさせたことはあれど、平常時の彼の魔力量は相当抑えられたものになっている。
「何もせずにいれば、某の魔力は広範囲に冬の影響を及ぼす。では今そうなっていないのは何故か。教えてやろう」
「御託はもういいです、始めましょう」
業火が踊る。ノアが障壁魔術を展開しようとしたその時だ。
「何も学んでいないとは……」
突如強烈な冬風が暴走した。廊下の扉や窓がガタガタと揺れ、雑に一本のピンで止められていた掲示物は容赦なく吹き飛んでいく。あまりにも突然のことだったので、ノアはその場に立っていられなくなった。
「風は火をおこすが、強風の前ではこの程度の小火は消える」
あっという間に無力化させられたフォルは呆然としている。その隙をラスターは見逃さなかった。一瞬風が止む。飛び出たラスターが本を上に弾くと、フォルがへなへなとその場に崩れ落ちる。ノアは思わず「あ、」と声を上げたが、ラスターが器用に彼女を支えた。
廊下に吹き渡った風は止み、外の炎も魔道書に触れる魔術師がいなくなったおかげで消えている。平穏の静寂の中、真っ先にヒョウガが叫んだ。
「ノア、早く封印術!」
「分かってる!」
床に落ちる本に術を展開しようとしたその時、本が飛ぶ。バサバサと蝶のようにして宙を飛び、近くの窓ガラスを破って外に飛び出す。
「逃がすか!」
拘束魔術を飛ばすも、ちょこまかとした動きで回避される。ラスターは投擲用ナイフを構えたまま。タイミングが掴めないのだ。
「おいおい、本に意思があるのか?」
「どうやらそうみたい」
魔道書はぱたぱたと空を飛び、ある一点で止まる。その場でぐるぐると回転したかと思うと、巨大な炎を纏った怪物の姿となった。
「あれを倒さないとならないのか!?」
「……炎の中にある本を貫くのが早いだろうけど」
どうやって、とラスターが問いかけた瞬間、再び窓が割れる。空が灰色になり、雪と風が駆け抜け、威勢良く現れた怪物は縮こまって動かなくなる。
天気を変えたのはやはりコガラシマルだった。ノアはこのとき、初めて彼の魔力の隠し所を知った。彼が常に目を閉じていたのは、目に魔力をため込むためでもあったようだ。道を究めた剣士が視界情報をあえて遮るために目を閉じながら刀を振る事例も知っていたが、どうやらコガラシマルの場合は両方の理由からそうしているらしい。
冬の曇天を思わせる、虚無と絶望の色をした灰色の瞳に一瞬呼吸を忘れそうになる。瞳術も展開しているのだろうか? 魔術師としての好奇心が鎌首をもたげたそのとき、ノアは本のことを思い出した。
「ラスター、本を打ち抜ける?」
「こんな強風の中じゃ無理だ、あの巨体にだって当たるか分からないぞ」
「大丈夫。途中まで俺が矢を操作する」
ラスターはノアの顔を見た。そして、「ああ、」と小さく声を上げた。
「その手があったな。プレメ村でも似たようなことをやった」
愛用のボウガンを取り出し、ラスターが構える。そこにノアが手を添えて、魔術の準備を始める。
「いつでもいいよ」
「了解。スリーカウントで撃つ、いいな?」
ノアは頷いた。「三……」とラスターの声が耳元で響く。「二……一……」少しの間を置く。ラスターの指が動き、矢が飛ぶ。強風に煽られた矢はまるで大海を泳ぐ魚のようにして身をくねらせ、バケモノの心臓目がけて飛来する。炎の巨体に飲まれた矢は風の影響を受けなくなるので、そのタイミングで術を解除する。美しい連携だ。魔力を持たない一撃を食らった本は、やはり蝶のようにしてページを動かしている。巨体はみるみるうちに小さくなり、やがて消えていった。本はしばらく悶えながら飛んでいたが、ノアたち目がけて突っ込んでくる。理由は分かる、新たな魔力の持ち主を得るためだ! 窓ガラスを割り、ノア目がけて突っ込んできたそれをラスターがナイスキャッチ。そのまま全身で本を押さえつける。魔道書にとっての不幸は、ここに魔力ナシがいたことだ。いくらラスターの腕のなかにいても、肝心の魔力は吸い取れない。しばらく暴れていた本だったが、いよいよ動力を失い動きを止める。
「ノア、封印魔術を頼む」
ほぼほぼ死にかけの蝉のようになった本に、ノアはあっさりと封印魔術を施す。騒動のわりにはあっけないものだった。
怪物の消滅を確認したコガラシマルも、その目を瞼の奥に隠す。滞空していた彼はふらふらと飛んで、割れた窓からこちらに戻ってきた。
「コガラシマル!」
真っ先にヒョウガが駆け寄り、薬の入った小瓶を取り出す。が、取り出しただけで二人に動きがない。
「どうしたの? 薬、飲まなくて大丈夫?」
ノアに声をかけられたヒョウガは、バツが悪そうな顔をした。そしてうずくまるコガラシマルを見た。
「あー……」
そして、つま先でコガラシマルをつつく。
「ヒョウガ殿……ちょっと、ちょっとだけ待ってくれぬか」
「早くしないといろんな人に見られるぞ」
「ほ、ほんとにちょっと……」
ラスターはヒョウガの持っている瓶を見て概ね納得したようだった。ノアがちらりとラスターの方を見ると、ラスターは笑いながら瓶の正体を教えてくれた。
「あれ、飲み薬じゃなくて目薬だ」
ノアが再度二人を見ると、ヒョウガが四苦八苦しながらコガラシマルの目に薬を垂らしていた。
「このドライアイって治らないのか?」
「医者にかかったが、匙を投げつけられた。目を開くと魔力の制御はともかく、風で眼球が酷く傷ついてしまって」
「ほら目を開けて!」
……見かねたノアが、治癒の魔術を展開した辺りで、生徒たちがわらわらと戻ってきた。
暴走した本はやはり過去に呪いを受けていたらしい。個人の欲望を増幅させ、破壊衝動を強化してしまう類いのものだ。記載された魔術には有益なものも多いのだが、いくらなんでもデメリットが大きすぎた。
「本当にすみませんでした。私が本の管理を油断して、魔物退治屋の皆様や生徒たちを危険に晒してしまうなんて……」
「いえ、俺たちは大丈夫です。生徒たちのケアをお願いします」
「無論、そのつもりです」
ノアと依頼主の校長が話をする間、ヒョウガとコガラシマルはそれぞれ生徒たちと話をしていた。ラスターはのんびりと辺りを見回す。フォルの姿がない、と思ったところで、割れた窓の外に動くものを見た。
フォルが歩いている。何か書類の類いを持っている。ラスターは好奇心から彼女の元へと向かう。教室は少しざわついていた。「びっくりしたね」「死ぬかと思った」なんて言葉が聞こえてくる。
「なーに持ってるの?」
ラスターは自然にフォルの後ろに回る。彼女の歩調に合わせて歩く。
フォルは返事をしなかった。が、ラスターは彼女が抱えていた修復魔術の専門書の存在に気づいていたし、別に答えてもらわなくてもよかった。
「窓を直すのか」
「あとは先生と皆さんに謝罪を」
ラスターは少しおどけた表情をした。「へぇ?」とおもわずそんな声が出る。
「あんな魔道書の影響を受けるなんて、私の努力不足でしたから」
「ふぅん。それだけ?」
「…………」
フォルは返事をしなかった。階段の踊り場をぐるっと周り、そのまま上へ。専門書をひとまず床に置いた彼女は、ヒョウガとコガラシマルの元に行く。素直な「ごめんなさい、ありがとう」の声はこちらに聞き取れる声量ではなかったが、ヒョウガのへにゃっとした笑顔が全てを物語っていた。
氷の教卓 完