梅雨。
夢十夜/駆け込み訴え/重源
・体調不良を紛らわせる術…ミルクコーヒー、考え事、ワクワク
・学生のうちに一人旅を。スナメリに会いに行こう。
・時間はいくらでもあると考えてはいけない。三日ある、五時間ある、三時間あると数値化すること。
・noteをはじめた。
頭が痛い。身体全体が水を吸ったように重い。だるい!こんな日に日記をはじめるべきではない。とも思ったが、こんな日に始めてこそ日記というものは持続するのかもしれない。
日記は今までに何度か頓挫している活動だ。というのも、今までは楽しいことが会った日や何か思うことがあった日、つまり「何かしら書くことがある日」に始めていた。だから特別書くことがない日は筆が進まず数日で頓挫してしまったわけだ。今思えばあの時の私に必要だったのは日記でなくツイッターかインスタグラムだろう。
体調不良が少し軽くなってきたような気がする。やはり考え事という趣味はいい。手ぶらでできるし気がまぎれる。いや、現実逃避かもしれない。ふふふ
雨だ…嫌すぎる。かつてはきらいではなかった。むしろ好きだった。スナフキンは雨に打たれるのが好きだと本で読んでからはなおさら好きだった。助けてくれ!私は何を失ったというんだろう。代わりに手に入ったのはなんだ?湿度という概念に明確に気付いたからだろうか。じっとり、という言葉の意味がわかった日から雨は嫌いかもしれない。ああもう、土になりたい。
人生は長く、どんなこともいずれ乗り越えることになる。一番いいかたちで乗り越える努力をすること。
人はいつも私が思っているより強く優しい。世間は逆だ。
ツイッターで市場で買い物をする犬の動画を見る。犬はお金の入った籠をくわえてお手をするように商品を指し、お店の人が籠に入ったお金とその商品を交換する。おそらくアジアのどこか田舎の方の風景だろう。いわゆる都市のような整備された雰囲気はない。こういった風景の中に幸せがあることを認識するたびに、人は一体なんのために生き急いでいるのだろう、と思う。発展途上国だの先進国だのという言葉が生まれる前に戻れたらとは思わないが(いや、思わない事もない。私の未熟さだ)ここまで生き急ぐ理由をはっきりとさせたい。生きるために生きているのか、死ぬために生きているのか…考えることをやめてはいけない、それが人を愛する第一歩ではないか。
それにしたって素敵な光景だ。どうか悪いようにはならないでほしいと祈る。
体調の悪い時は授業にどう参加すればいいのか。もうすぐ学生の身分からおろされそうだがいまだにわからずじまいだ。右から左だ。資料を読むので精一杯である
賢い/頭がいいとはなんだろう?言われることが多い。何を見てそう言っているのか。思っているのか。深い意味はないのだろうが、勉強に身を尽くしたことがない身としてはさらに頭を抱えるばかりである。プレッシャーではない。ただ、なんだろうか…単に考え過ぎることや突飛な連想を優しく言い換えてくれているのだろうか?そうだとしたら申し訳ない。
考えれば考えるほど、「物事を一面的に見てわかった気になるのはよそう」と思う。志か、怠惰か。
授業中に急いで読んだ文献のわからなかったところを一か八か教授に尋ねたところ「よく読んでいるね」と言われる。反射的に「ありがとうございます。」と言ってしまった。勢いで話している時の方が物事がうまく進むのはなぜだろうか。自分が言った言葉ですら後から反芻している。非効率であるがやめられない。
背景にスナメリの画像を設定してから心の健康が底上げされている。スナメリはいい。いつか会いに行こう。
きっとそんなにたいしたことではない。という想いと、たいしたことではないという甘えで、己の過去がどんどん希薄なものになってゆきそうな恐怖がある。
相手が傷つかない話題を選び、相手が傷つかない言葉を選んでいる会話。本心であれなんであれ、恐ろしい。
既存の正義とやさしさの中で生きていこうという、ぬるいぬるい胎内のようなまどろみ。そこから出られなくなることが恐ろしい。腹に刃をつきたてて、少しずつ広げていこう。言葉を選ぶことは誠実であり逃避でないこと。ありもしない傷のなめあい。ふさがった傷をいつまでほじくり返して甘やかすつもりか。
大勢の人のために用意されたものに適応できないと、自分が不出来なもののように感じる。きっと間違っているんだろうが、間違っていると言えるほど私は足掻いていない。抵抗、抵抗なのだ。何事も。
これから降りかかる様々を想像しひどく恐ろしい気持ちになったが、一つ前の自分の言葉を見て踏みとどまった。日記と言うのはいいものかもしれない。
あまりにも頭が痛いので日記を書く。バイオハザードの手記のようだ。愛してるで締めようか。とはいえ書くことがない。人の少ない食堂が見える。奥で誰かが作業している。誰かが人としゃべっている。キーボードを叩く音がする。本を閉じる音がする。ヨルシカの『声』を聞いている。私がいるばかり。食堂はオープンキャンパス以来ほとんど利用していない。食事を作業にしたくないという心があるのだ。美味しい、また来ようと思えるに違いないという確信に飢えている。食堂の天井が高い。二階ぶん吹き抜けにしているのだろう。天井が高いのは好きだ。空港も好きだ。キッザニアは嘘の空にしては低かったので空を眺めては小さな絶望を覚えた。ここで何をしたって所詮つくられた箱での出来事でしかないのだと思った。かわいくない子供だ。サンタを一度くらい本気で信じてみたかった。あぁだめだ、とりとめのない…脳に流れてくる言葉をすくうようにして打ち込んでいるが何の意味があるのだろう。日記とはこういうものなのか?開始一日目で本質を見極めようとは傲慢にもほどがある。インターンシップを申し込んでいるがどうか大親友とディズニーに行く日とは被らないでくれ。大切な人がいることの幸福を噛みしめながら、ある日全員死んでしまったらどうしようと思っている。それでも生きていくのだろうが。幸せでいてくれ、いつか会えなくなったときに後悔のないようにしよう。それでもやはり長生きしてほしい。私より長く!あぁ。どうか…。親は私にまれに言う。「親より長生きすることが一番の親孝行だ」と。「早くに死んでしまった子はかわいそうだ、きっと親孝行ができなかった。したかったはずだ。」と。母はおそらく、親としてだけでなく、子供としてもこの言葉を胸に抱いている。母にはうまれてすぐ死んでしまった兄がいるから。きっと思い出している。きっと母が何年も考えた末に抱くと決めた言葉だ。だから私もこの言葉を大切にする。生きるとはそういうことだと思う。母を悲しませたくないと心から思いながら、自分を甘やかし持てあましている。母が産まれるにあたり必要だった数えきれない大勢の人と、父が生まれるにあたり必要だった数えきれない大勢の人、その二人が出会うに必要だった数えきれない大勢の人。私がうまれた奇跡なんていうと、あまりに聞き慣れた言葉だから、色んなことを見逃してしまうが、本当にすごいことだと思う。これだけの確率をかいくぐって私はここにいる。歴史はその積み重ねだ、途方もない…途方もない積み重ね。小学生の頃、学校へ行くバスの車窓から道行く人を見て毎日のように感動していた。これだけの人に途方もない人生があるのだと。すごい、すごいことだ。人生という概念がうまれたことに感謝したい。あの感動は私の人生に深く深く残っている。頭痛が少しおさまったような気がする。ここらへんで締めよう、愛してるよ。