ぽんこむ人文学シリーズ4・田中東子を弁護する
『宇崎ちゃん』ポスターキャンセルやジャニーズ批判で“フェミニズム”的言動を取っていた田中東子東大教授が、別名義でBL作家をし、あまつさえ教員が生徒に手を出す話なども書いていたということで炎上している話題になっている。「表現の自由戦士」のアテクシとしては、田中東子教授を全面的に弁護したい。
まず、創作は自由であり、それは内心の自由であるということ。創作はどこまで行っても創作であり、何かの指南書ではない。仮に真に受けて犯罪をするバカがいるとして、そんなバカのために内心の自由を規制するべきではない。そもそも真に受けて犯罪や不法行為をする「指南書」を取り締まるべきという話なら、『共産党宣言』や『コーラン』から焚いていかねばなるまい。
大学教員が、「教師が生徒に手を出すBL」を書くというのも、確かにこれはチャイルドマレスティングであり、マイノリティー制の搾取・簒奪でもあるが、そういう妄想を楽しみ共有する自由はあるはずである。人間は人権とは整合関係にない。往々にして差別的であり、搾取性向のある存在だ。フィクションにおいてすら、そうした人間の根源的な邪悪を許してやれないのいうのなら、抑圧された欲望はどうしてやればよいのか。かつて同性愛を“矯正”するのが正義とされてて、その過去がいま誤りだったという話になっているが、「善性の内面化」はそれとどう違うのか。そもそも民主主義社会において「善性」など簡単に定義してしまってよいのか。これで教え子とデートしてたりするなら話は別だが、教員が生徒に手を出す話を書こうと、警官がバイオレンスアクションを書こうと、坊主がエロマンガを描こうと、本業と作品が分離されている限り、何の問題もないではないか。
作家としての「黒澤たかこ」についてはそもそも弁護するまでもなく、何も悪いことはしていない。問題はフェミニズムの教授として東京大学大学院で教鞭を取る田中東子のほうである。
確かに同氏は上記のような児童虐待的なBLを世間にまき散らしておきながら、フェミニズムの見地に則り『宇崎ちゃん』批判に一枚噛んでいた。「他人はダメで自分はいいのか」という批判がある。
だが当代フェミニズムは「女が嫌というものを社会から排除する」ことは約束していても、男を性的搾取したり、男が嫌がる事物を社会から排除する義務など負っていない。フェミニズム的には何の矛盾もないのだ。
また、児童やマイノリティー性の搾取云々にしても、権力勾配がどうのといった小理屈でたぶん正当化できる。なぜなら社会の正しさを決めるのが社会学であり人文学なのだから、お手盛りでどうとでも設定できるのである。
さらには、人文学界隈の圧を一個人では拒絶できないという点も大きい。ご存じの通り、人文学界隈はお気持ち全体主義であり、学問的真実よりも人文学的正義のほうが優先される社会である。 (でなければ「都合の悪いデータは隠す」などと公言して憚らない上野千鶴子が問題とされない理由がわからない。)「黒人の筋力は他の人種に比べて優れている」とか「男と女の体力差などほとんどなく、男が女に負けるのは沽券に関わるからスポーツは男女別にされているのだ」という論文は出せても、「アジア人は先天的知能が優れている」という研究はキャンセルされる。人文学的正義に則った者しか生きていけない社会である。
であるから、ひとたびボスザルが「『宇崎ちゃん』ポスターは性的搾取」と叫んだら、心でどう思っていても、フェミニズムに関わる者はそれに乗らないわけにはいかないのだ。そう、人文学で糊口する者にとって、人糞ポリコレは絶対命令であり、不可抗力なのである。トランスジェンダーの扱いについてちょっと“お気持ち”から反れたことを言っただけで、千田由紀がキャンセルされたことは記憶に新しい。「お前もガンリンのようになるぞ」という有形無形の圧力を前に、従わざるを得ないのだろう。知らんけど。
だいたい、東大の大学院で教えるような人が、自分はさんざんBL妄想撒き散らしておきながら、エロくも何ともないポスターに言い掛かりつけてキャンセルムーブに加担して、それで自分はお咎めなしで通ると思ってるとか、そんな境界知能の木っ端ツイフェミみたいな低能ってこと、普通考えられないじゃん?