コスプレ人糞学
「日本の社会学者は海外の社会学者の糞をありがたがって啜るだけのコスプレ」という話は以前からしてきた。欧米のキリスト教由来(もっと古くはギリシャローマあたりから)の「家父長制」と、武家や一部豪商に限られた由来のものを、明治政府が一般家庭にも導入したものの終戦を期に60年ぐらいで終わってそれから80年経つ本邦の「家父長制」が、一体なぜ同じものとして扱われているのか。欧米(というか米)の「ホモソーシャル」と日本のそれが同じものとして批判される一方、旦那ポケモンやブランド・整形マウントなどの「女のホモソーシャル」はなぜ批判の対象とされないのか。「家父長制」とやらのコードでは「アッシー・メッシー・貢クン」といつた人たちや、結婚相手の「三高」「三S」などのどう見ても女性優位な男女関係はどう評価されるのか。構造主義的にそれらをabstractできるというなら、それはどういう要素でどんな根拠によるものなのか(稼得者を立てているというだけの話なら「家父長」でも何でもなかろうに、なぜ「家父長制」という語を無批判に使用しているのか)。
こうした疑問に説明義務も果たさないまま、正体もよくわからない「家父長制」を叩きさえしていればなんとなく「正しい」ような顔をして、今日も社会学者は社会を殴り続けている。その調子で、男とほとんど大差ない体力を持つはずの女たちが、なぜ三歳男児に二人がかりで負けてピエンするのかなども「家父長制」で解説して、ネットの物笑いになってほしい。
それはさておき、どうにもこのコスプレ体質は人文学全般に至る話のように最近感じている。つまり、所詮コスプレ人糞学でしかない以上、欧米に存在しない、日本固有の話にはピンボケしたことしか言えないのが、人文学の人糞たる所以なのではないか。
イスラエル批判は熱心なクセに中国(台湾)問題には冷淡なあたりもそうだが、ポリコレの丸呑みなんかが顕著な例だろう。「『アメリカ人の都合(というかアメリカ白人のやらかし)でできたルールを他国に押しつけてもいい』と考えてることが既に帝国主義的だコロニアリズムだ」という批判すら本邦人糞界隈からほとんど出ない。それとも数学やってない人たちはそんな簡単な立論すらできないんだろうか? そんなわけはなく、オーベーの人文学がそういうことを言ってないからだろう。そもそもポリコレを広めることは彼らの権力闘争なのだから、自己批判なんてするインセンティブはないだろうし、異を唱える奴はキャンセルして終わりなのでしょう。ボス猿が吠えないから小猿も黙っている。政治的動物っぷりが素晴らしい。
もうひとつ顕著なのは福祉破綻問題だ。もはや日本の社会保障の増加は限界に近く、労働者は所得の50%近くを納税あるいは社会保険料として支払っている。一方的で福祉貴族の老人達は、この国の富の大部分を資産として貯め込んでおきながら、所得だけは少ないが故に「貧困者」扱いであり、低所得者向け給付を受け取っている。労働者の払う健康保険は黒字にもかかわらず、後期高齢者医療制度への拠出金を吸い取られ破綻しかねない勢いである。
これは、バブル・高金利という蓄財ボーナスタイムと、その後の氷河期世代(失われた20年)の就職難・低賃金・デフレ、さらには票田や医師会を背景とした高齢者の過大な福祉要求の一方で負担拒絶の歴史によるもので、ずっと経済が拡大基調にあった欧米にはない、多少似た状況があったとしても単純には外挿できない問題であろう。そもそも欧米には(日本と比べたら)マトモな医療福祉なんてないからね。
こうした日本の惨状を前に、人糞学者は何ひとつ有効なことを言えずにいる。そうだよね! オーベーで起きてない社会問題なんて論じる方法、習ってないもんね!
要するに知的退廃と党派政治に煮染められた本邦人糞学は、老人が搾取する貴族の側であるという当然の事実を受け入れることすらできないのである。目の前の事実すら認められない人文学にどれだけの意味があるのか存じないが(それはもはや神学とかでは?)、そもそも人糞界隈、マルクス崩れと、主流派を叩いてりゃ何か言った気になれる新橋九段みたいなメンタリティーの「こんな人たち」しかおらんでしょ。だから欧米学者の言い分を無批判に日本に外挿しては見当違いの提言を排泄して得意げになることしかできないのだ。ピケティのように「日本の場合は貧富の差は世代間格差が大きいね」とか、ゴールディンのように「日本の男女格差は女が働いてないからだね」ということを言われても、それらは欧米の社会批判のコードにもサヨクのコードにもないから黙殺するしかない。まして、「もはや老人はプロレタリアートから搾取するシルバーブルジョア・シルバー貴族であり、革命で打倒されるのはおまえらだ! 老人に味方するおまえらも吊される対象だ!」なんていうストーリーを受け入れられるはずがない。
いや、学者の皆さんは賢くてらっしゃるので薄々感づいてはいるんだろうが、藤井セイラみたいに偉い人に右顧左眄してそんなこと言えないんだよな、我が身が惜しいから。わかるよ、うん。そのうちタイミング見て「自分も前からそう思ってました」とか町内会長ムーヴするんだよね。知ってる。
だから国民民主党がターミナルケアの削減のようなことを言っただけで「年寄りに死ねというのか!」「植松思想だ!」の大合唱である。共産主義を母胎とするサヨクにとっては、「無限福祉論」のみが正しく、たとえば自力で嚥下ができなくなった後期高齢者への点滴や胃瘻など延命措置の中止の合法化や、自己負担化程度の「福祉限定論」(こんなの北欧のスタンダードなんでしょ?)ですら「植松思想」扱いである。どいつもこいつも他人の金銭で自分の身を善人の側に置くことしか考えていない、まさに人糞学者しかいない。
もちろん、成田悠輔のように社会的に“危険な”発言をしてウエマツ呼ばわりされている覚悟のある学者もいるにはいる。だけどさ、学者の務め、学者に求められる“非常識さ”って、本来そういうもんじゃないの? おまえら、「東日本はヒバクで死ぬ」とか「フクシマの農家はオウムだ」とか「避難所では洗面器いっぱい鼻血を出す子供が!」とか「汚染水で畸形が!」とか糞の根拠もないヨタは「果敢な議論」をしてきたのみならず、そういうデマをバラ撒くことこそがさも学問的良心であるかのように語ってたよね?(STS、お前らだよ) 福島以外だと「ジブリパークはベンチを平らにして乞食を住まわせろ(隣にあるお前の大学の敷地でやれ)」とか「アベノミクスを失敗させるために不況を起こせ」とかもあったよな(これはさすがに怒られが発生したけど)。なのに、何で成田悠輔の「果敢」は人非人のレッテル貼ってキャンセルしようとしてんの?
何のことはない、人糞学の「果敢な議論」なぞ、腐れサヨクのコードに乗っかった範囲の“暴論”にすぎず、そうである以上どんなに世間を怒らせようが、むしろそういう性質のものであるほど、アカデミズム的には反体制ヅラが評価されて安全ということになる。ママのスカートの中から石を投げてるようなもんですね。果敢もクソもあるものか包茎野郎。
何度も言ってるが、人糞ならせめて肥やしぐらいは役に立て。